「自己をならふというは、自己をわするるなり」

 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。」は道元禅師の有名な言葉です。多くの方々がこの言葉について解説していますが、身の丈をわきまえずに私もこれについて最近思ったことを述べてみたいと思います。
 
 前半と後半について分けて考えます。前半は「仏道をならふというは、自己をならふなり。」一つのポイントはならふという言葉です。ならふには学習する、学ぶという意味もあるでしょうが、もう一つ身につけるという意味もあるはず。鎌倉時代にこの言葉がどのように使われていたか知りませんので、あくまでも現代の語感に沿った見解です。つまり仏道をならふとは仏道について学んだことを日々の生活の中に取り入れて実際に生きるということです。仏道は頭脳による知識にとどまっていてはならないわけです。
 「自己をならふ」はどうでしょう? この自己という言葉が当時どう用いられていたかやはり分からないのでここでも我流に「真の自己」あるいはインドでアートマと呼ばれるものと同義語と受け取ります。ここでのならふは同じく身につけると理解してもいいのですが、また自己探求という意味で学習することに主眼があるかもしれません。
 道元禅師にとっては、仏教の中心となるテーマは自己探求であったのでしょう。
 
 「自己をならふというは、自己をわするるなり」が後半です。真の自己探求は自分(自己)を忘れることであると受け取れます。おそらくここで難しいのは自己を忘れるということの意味と、それがなぜ自己を習うことになるのかという点です。
 このブログはあくまでもさまざまなトピックに関して私がどのように理解しているかということを自由に書いているものなので、自己を忘れるということに関しても、仏教のオーソドックスな理解から離れて自分の見解を書きます。

 たとえば一日骨を折って何か仕事に携わった後(あるいは仕事というほどのことでもなくていいのですが)、眠りにつく前にその日を振り返ると、「今日は何をした、これをした。満足している、いやあの点は悔いが残る」などなどの思いが湧いてくるはずです。私は仕事というものは意識しようとすまいとある種の自己表現だと思っているのですが、一日の仕事を振り返ることで、その日の自らの感情や意志、思考の過程を追体験することができます。それは一種の自己の抜け殻を見ながら、過去の自分に思いをはせることです。であるがゆえに「自己を忘れる」とは、記憶喪失のようにまったくそれらの記憶をなくしてしまうということではなく、それらが過去の自分に過ぎず、もはや今の私ではないと理解して手放してしまうことだと思うのです。ほどほどにでもきちんとした仕事をやり遂げることができたなら、仕事そのものを神仏への捧げものとして捧げる行為と理解してもいいでしょう。
 そして仕事を捧げた後、その仕事へのこだわりなく、つまり過去へのこだわりなく、常に現在に生きる自分でい続けること。一種の自己の抜け殻としての仕事や過去から離れ、結果を求めずにいることは自己を習うということ=自己探求なのではないでしょうか。
 
 日本には自分探しという言葉がありますが、それは自分とはこういう存在だと自分にレッテルを貼っていく作業です。しかしながら、真の自己探求は、これではない、これではないと自分ではない物を取り除いていく作業です。あたかもたまねぎの皮をむき続けるように。そしてずっと皮をむき続けていくと、そこに何も残らず、空と呼ばれる状態になると思うのです。自己探求とはそういうものでありと私は理解しています。
 
 ただ空と呼ばれる状態になるだけでは不十分です。その状態でいつつ適切に生きることができること。それが自己を習う、つまり自己であることを身につけるということ。いわゆる自己実現self realizationとはそういうものではないかと思っています。
 
 道元禅師の著作は多く、それらにそれほど目を通してきたわけではありません。誰が彼のよき理解者であり、何を読めば彼をよく理解できるのか知らないも同然です。しかし彼が日本の歴史上優れた霊性の師であったことは伺えます。彼の英知を現代に活かす人はどのくらいいるのでしょうか?