愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

犠牲=浄化の道

 

先週の続きのような内容です。真理を映し出すにはハートが清らかでなければなりません。ハートが清らかであるとは一体どのような状態なのでしょうか? おそらくは悪い想念がない状態のことです。さらには善いものであっても想念は少ないに越したことはありません。想念は太陽の光を妨げる雲に似て真理の光を妨げるからです。悪徳の中で大きなものは「私=エゴ」と「私のもの=執着」です。

 

エゴを取り除く方法はいろいろあるでしょうが、私が最も簡単だろうと思う方法は、いつも「私たち=we」を念頭に考えたり行動することです。私たち=weのことを考えていると、私=Iという感覚つまりエゴが少しずつ無くなっていくのです。英語にはcommon sense(常識)という言葉があります。英語の原義、ニュアンスはよくはわかりませんが、commonという語には公共的な感覚、コミュニティ感覚が含まれていると思います。なのでcommon senseは私たち=we感覚のことだと私は勝手に理解していて、それに関わる知識や振る舞いのことを常識だと英語では言っているのだと思います。また私はヴェーダマントラを唱えていますが、その中にナ、ノなどの語がしばしば出てきます。サンスクリット語の格変化をよく理解してはいませんが、ナやノは「私たちが」とか「私たちを」というweやusに似た言葉です。つまりヴェーダの中には「私たち」を前提としたマントラが多くあるのです。私の利益ではなく、私たちの利益を考えることが大切なわけです。家族の一員として家族全体のことを考える。会社の一員として会社のことを考える。地域の一員として地域のことを考えるなどなど。人は時と場合によってさまざまな集団に属していますが、そのときどきにwe=私たち感覚を持つことが大切に思います。地球市民という感覚も大切ですね。

 

執着に関してはどうでしょうか? 私のお金、私の服、私の家、私の子どもなどなど「私のもの」という感覚は多くの人に染み付いています。よく考えてみればわかりますが、それらは遅かれ早かれ自分のもとを去っていきます。一時的に自分のもののような気がしているだけです。一時的にしか自分のものでないものは本当は自分のものといえないような気がするのですが、どうでしょうか?来ては去るものに強いこだわりをもつことは人間を苦しめるとお釈迦様もいっています。この「私のもの」感覚を取り除くにはどうすればいいのでしょうか? それはその物の管理を一時的に任せられていると受け止め、人の養育を任せられていると受け止める態度を育むことでしょう。会社で働いている時、会社の備品を自分のものと主張することはできません。それは一時的に貸与されていて、それを活用する機会を与えられているだけです。会社を辞めれば、他の人にそれがあてがわれます。自分の子どもは自分の好きなように扱っていいというわけではなく、子どもが適切に発達・発育するよう育てることを任せられていると受け止めれば、なすべきことを行ったあと過度の執着をもつことは減ってくるような気がします。

 

かつてアートマ=真の自己探求においては、これではないこれではないという形でしか探求はできないと述べました。真の自己がこれであると特定できるならば、それは自分の認識の対象であって自分から離れているからです。人生の目的である自己実現=self realizationということを考えた場合、自己=selfにまつわること以外を取り除かなければなりません。私は年を取り、残りの人生が日々少なくなってきているのを実感しているので、時間がとても貴重です。時間を有効に活用するには、何をなすか以上に何をなさないかが大切になってきます。しなくてもいいことに時間を費やすことは時間を無駄にすることだからです。自分が何をなすべきかが明確にわからない状況においては、何をなさないのがいいかということに関して意識的でなければなりません。人生はこれではない、これではない、これではないの連続です。残ったものが価値あるものです。

エジソンは多くの失敗をしました。しかし彼はその一つ一つの失敗が、これではうまく行かないということを教えてくれたので意味があったと述べています。つまり彼の発明は、これではない、これではないの繰り返しの末に生まれたわけです。ならばある意味では失敗こそが人生を生きる上での本質に関わるということです。失敗のない人生とは無意味な人生、探求のない人生だというわけです。浄化や犠牲という言葉が表すのは、このように本質的でないものを取り除くことによって本質にたどりつこうとする態度のことです。そしてこれこそが霊性です。霊性が世俗から距離を取るのはある面確かですが、しかし霊性の内に真の繁栄があることも確かなのです。