岩を押しなさい

 正確な詳細は覚えてないのだけど、記憶に残る話があります。話の内容は以下のようなものです。
 
 昔のある国での話です。
 道路の真ん中に巨大な岩があって、その岩のおかげで人々の通行が妨げられていました。それを見た聖者は弟子の一人に「その岩を押しなさい」という指示を出しました。弟子は聖者に言われたとおりにその岩を押し続けたのですが、何日、何十日も経ってもその岩はピクリとも動きませんでした。弟子はいくら頑張っても師匠の指示に従うことができないと落胆したのですが、とうとう自分の力では岩を動かすことはできませんでしたと師匠に報告しました。師匠は弟子の報告を聞いて次のように返答しました。「私はあなたに岩を押しなさいと指示したけれども、岩を動かしなさいとは言っていません。あなたは岩を押し続けることによって、岩を動かすことはできなかったけれども、腕の力はつきましたね」。
 
 以上が概略です。
 
 私は思うのですが、多くの宗教上の指示、指針といわれるものは、上の話にある聖者の指示に似ているのではないでしょうか。
 
 例えば瞑想一つとっても、最初は雑念が頭の中にいっぱいで瞑想どころではありません。しかし愚直に瞑想をし続けていれば、私の場合は数年かかりましたが、ある時心静かに座り続けることができるようになってき、そしてそれに付随する様々なものが得られます。私は数年続けましたが、ほんの数か月目をつぶって座っただけの人は効果がなかったことでしょう。しかし私の場合はまだ効果があっただけよかったといえます。
 
 例えばキリスト教では、片方の頬を殴られたらもう一方の頬を差し出しなさいと教えます。このような指示を師匠に出された時、愚直にその通りにして、もしかしたらたびたび殴られ続けるだけであるかもしれません。私はクリスチャンでないので、この教えを実行したときにどのような結果が得られるのかわかりませんが、岩を押し続けた弟子の筋力に相当するものが得られているかもしれません。
 
 私の師匠は、「すべての人を愛しなさい」と教えます。言うは易く行うは難しです。自分に好意を持ってくれる人を愛することは何とたやすいことでしょうか、そして一方自分に対して悪意をむける人を愛することの何と難しいことでしょうか? 私の師匠は次のようにも言います。「自分の母国を侵略してくるものたちの幸福さえ祈りなさい」そう努力を試みることはできるながらも、感情が邪魔をして失敗に終わる可能性が高い教えと思われます。
 
 2019年6月11日の記事で書いたように、「母親を神としなさい」という教えに対して自分なりに努力はしたものの、どれだけのことができたかは心もとなかったものです。しかしそれによって私の心は深く耕されました。
 
 ある人が宗教や霊性の門をくぐって、こういう類の実践が困難に感じられる教えに出会った際には、変に現代的な解釈はせずに素直にそれに従ってみることは一つの選択です。一方狂信につながりかねないような極めて普通でない理解を試みないようにして欲しいとも思います。教えに普通に従って、その努力を普通に判断し、もし師匠がいるなら師匠に相談するとよいでしょう。優れた師匠は現代には稀ではありますが。
 
 現代日本人に試みてほしいことを一つ挙げるとすれば、それは奉仕です。奉仕とは結果を求めない行為のことです。ホームレスの人に食事を提供することも奉仕ですが、短い期間にその効果が見えにくい家事を見返りを気にせず淡々と行い続けることも奉仕です。職場で給料に見合うだけの仕事をすることも奉仕です。奉仕は霊性の入り口であると同時に奥の院とも思えるほど深いものです。ひたすら奉仕を試み続けるだけで、いつの日にか何かが得られていることは間違いありませんが、それすらこだわらず、ただ奉仕してみるのはおもしろいでしょう。