宗教の目的

 

今週は宗教の目的についてです。先週は宗教の枠を出ていかなくてはならないのではないかと述べましたが、私にとって宗教は目的ではなく、ある目的を達成するための手段であるからです。インドや他の国では、大きな葉っぱの上に食事を載せ、食事が終わるとその葉っぱを捨ててしまいます。あるいはセミは脱皮すると抜け殻を放っておきます。私はそれと同じように宗教の体系はその実質を身に着けてしまったならば、相対的に重要性が減っていくと思っています。

 

例えば真宗でしたらその目的は往生であって、教義では信心が定まったときに往生が確定するとされています。ただ信心が定まったならば安心があって、主にこの安心の方が強調されることが多いような気がします。安心が得られるまで主に聴聞を繰り返します。また安心が得られたあとは、喜びを何度も味わうためにやはり聴聞を続けます。安心、味わい、聴聞。これらが真宗の教えの核心なのかなと思っています。これらがあれば、教義の細部にまでこだわることはなくなります。あとは安らかな心で日々の努めに励むだけです。

 

宗教とは何かという話を聞いたことがあります。字義の解説のままなのですが、宗教とは中心となる(宗)教えのことだと説法師の方は仰っていました。経典は1000ページもあろうかというものですが、大切なのはあくまでも中心となる教えなのだと。そうなのかもしれません。

 

他の宗教、宗派では何が目的なのかよく知りません。仏教は解脱=束縛からの解放を目的にしていると思うのですが、曹洞宗では道元禅師は只管打座とおっしゃっていて、座り続けることが目的ではないと思いますが、実際のところ座禅の目的をどこにおいているのか私は恥ずかしながら知りません。座禅そのものは目的ではなく目的を実現するための助けとなるものだと思うのですが、座禅にこだわり続けているとどこかで問題が生じそうです。目的と手段の転倒といいますか。仏教のことはまだわずかばかりはわかりますが、他の宗教のことはほとんどわかりません。キリスト教は何を目的にしているのか?あるいは神道は何を目的にしているのか?

 

サイババはReligion is realization.(宗教は実現です。)といっていたことがあります。私なりにこの言葉を解釈するならば、宗教とはリアルな領域を拡大していくことです。迷妄はリアリティの対極です。迷妄を取り払わなくてはなりません。自分自身もリアルでなくてはなりません。自分自身が存在している感触がなければなりません。わたくしごとをいえば、私は1年前の今日何をしていたかは思い出せませんが、1年前の今日確かに存在していただろうことは知っています。私はお酒に酔って記憶を完全に失ったことがないのですが、お酒に酔って記憶を完全に失った人というのは、その間も自分が存在していたという確信があるのでしょうか?それとも自分の存在が失われているのでしょうか?もし仮に自分が失われているのならば、それは宗教が目指すものとかけ離れています。ヴェーダには神の存在を受け入れない人は自分が存在しているという感覚が失われるというマントラがあります。そうであるならば、自らがリアルなものであるために神を信じることは不可欠で、宗教が神について語っているのは理にかなっています。

 

何事も目的がなければ、それに携わることは空虚な結果をもたらすだけです。宗教もそうです。宗教の儀式は何かを目的としているわけで、儀式自体が目的になれば、むしろ虚無感が広まっていくことでしょう。まだだいぶ先だとしても、宗教の目的を自ら達成する道筋が見えてくる程度までは宗教は必要でしょう。しかしそういう段階まで達したならば、宗教の意義は相対的に低くなっていきます。私はそういう気がしています。完全なる目的の達成の瞬間まで宗教の枠内にいなくても、今までに学んだ宗教の原則を守りつつ自らの力で歩むということは可能なのだと思っています。