愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

宗教の枠を出る

先週は聖職者や師の役割に関して自分が思っていることを書きましたが、ポイントは聖職者や師が信者や弟子と神仏との間の関係のじゃまになってはいけないということでした。今日はそれに関連して、視点の異なることを書きます。

 

よくはわかりませんが、聖職者や師は信者や弟子が自分のいうことを無視して勝手なことを考えてしまうのを好まないかもしれません。自分のいうことに沿った理解をしてほしいと願っているかもしれません。それはそれでいいと思います。私の師はサイババで、直接肉体を通じて対話をしたり、アドバイスをいただいたことはありません。うぬぼれた言い方かもしれませんが、心と心の対話であり続けました。夢は100回はいっていないでしょうが、それに近いほど見ました。言葉のやり取りがあったのはわずかの回数です。私はサイババに関する文献に目を通し、それに反しないように注意しながら人生のさまざまな場面で判断を重ねてきました。約30年にわたるその積み重ねの結果として今があります。サイババは「人は生まれたとき宗教の内にいてもいいけれども、死ぬときはそこから出ていかなくてはならない」というようなことをいっていたと思います。また「ヒンズー教徒はよきヒンズー教徒に、キリスト教徒はよきキリスト教徒に、仏教徒はよき仏教徒になりなさい」というようなこともいっていました。なので私はよき仏教徒であろうとしました。

 

仏教全般について浅く広く理解しようとしていましたが、私の家が真宗門徒だったので、主に浄土系のことを少しばかり知っているような現状です。実際のところ、真宗は瞑想(禅)や礼拝、奉仕などについては特に触れず、もっぱら信心を強調する宗派なのですが、私自身は瞑想を20年続けていますし、毎日仏壇で手を合わせていますし、奉仕にも関心はあります。真宗では雑行雑修は正しくないのですが、私は雑行雑修を取り入れた、むしろ浄土宗的な歩みをしてきた人間です。それは意図的にそうしたのではなく、自らが求めるままに歩んだ道がそうだったのです。浄土真宗的ではなく浄土宗的でしたが、今は真宗が強調する安心は得られていますので、少なくとも私に関しては浄土宗と浄土真宗はそう異なる道ではないのが実証されています。浄土宗的な道を歩んできたけれども、それでも私は自分が真宗の人間だというのは、真宗が絶対的な謙虚さを強調していて、これは絶対に欠かすことはできないと思っているからです。

 

ただし真宗の人間であるといいながらも、真宗の教義から離れたことをこのブログでも書いています。私のような市井の一門徒のことなど実際のところ真宗のお寺の関係者の方は誰も気にしはしないでしょうが。私は一応真宗の伝統をそれなりに尊重してはいますが、さまざまに私を形成してきた日本や他の文化に沿ったものの考え方をしています。自由に思考しようとするならばそうなってしまいます。私は真宗門徒であるということよりも、人間であるということの方が普遍的であると思っていますので、それでいいと思っています。私は自分のことだけでなく、実は他の人に関しても、ある宗教の信徒であることよりも人間であることを尊重してほしいと思っていますが、それは各人の好みに委ねるしかありません。ある宗派から別の宗派へと改宗は可能ですが、人間であるということは一生を通じて変わりません。

 

日本でも生まれて初めてお宮参りをすればそこの氏子とされるかもしれません。クリスチャンの親の子は生まれてまもなく洗礼を受けさせられるのかもしれません。日本だけでなく、生まれてすぐに宗教の枠内に入ることは多くあるでしょう。しかし人が真に誠実に、そして真に自由に思考を重ねていったならば、どこかで宗教の教義と自らの思考にちょっとした差異が生じることは普通にあるでしょう。たとえば私が考えることは、真宗の正統から見れば適切なものではありません。真宗に限らず他の宗派のどこにも受け入れられないこともあるでしょう。しかし私はそれでいいと思っています。たとえば仏教ならその目的は解脱(自由)です。私は自らが少しずつ自由になっているのを感じています。その意味で、教義にこだわるよりも、もしかしたら私の方が仏教の正統なのかもしれません。私は言葉遊びがしたいわけではなく、安心や自由を実際に獲得するような道を歩んできたわけです。宗教の枠内に生きるよりも、このことのほうが大切です。人間であることのほうが大切です。既成の宗教の伝統を破壊する意図はまったくないのですが、それでもある程度年をとったならば、宗派の狭い「枠」を越える程度の成長はあっていいと思うのです。この考えに賛成する人はもしかしたら少ないかもしれませんが、私個人はそれでもいいと思っています。