お寺参りをして3

 

今日も先月お寺参りをしたときに聞いたお話とそれに関して思ったことを書きます。

 

真宗以外においては戒名があるようですが、真宗にはありません。亡くなったときに戒名を付けてもらうのが現代の風習ですが、本来は生きているときに付けてもらい、生きている間に戒律を守る生活をするのが仏教徒というものなのでしょう。真宗においては戒名がない代わりに法名があります。これも亡くなったときにいただくことが多いようですが、本来は生きているときにいただくものです。ちなみに私はまだいただいていません。戒名と法名の違いな何でしょうか? もったいぶる必要などなく、ただ真宗には戒律がないだけです。なので戒律をいただいた印としての戒名はありません。

 

真宗の僧侶の方、いえ門徒の方々も無戒ですので、普通にお酒を飲み、肉食をし、妻帯(結婚)します。中には他者に暴力を振るう人もいるかも知れません。門徒の方は別として、僧侶の方々の行動規定がどうなっているのか私は知りません。私が今までに聞いたのは真宗は無戒だということです。一般に真宗の僧侶は頭を剃ってない方がほとんどですが、たまに頭を丸めている方もいらっしゃいます。御法話を聞く限りではお酒好きな方が多いようですが、お酒を飲まない方もおそらくいるでしょう。ほとんどの方は肉魚を食べ、菜食の方がいるかどうかは知りません。なので私のようにお酒を飲まず、菜食の人間は自力雑善の人として責められることすらあるかもしれません。私は戒としてそういうことをしているのではなく、主に体と精神の健康管理にいいと実感しているからそうしているのですが。

 

先月説法師の方は次のようにおっしゃっていました。「なぜ真宗には戒律がないのか? それは戒律があると必ずそれを守れない人が出てくるからです。そして戒律が守れないと救いにあずかれないと誤解する人がいるからです。一方ですべての人を救うという阿弥陀様の誓いがあります。」つまりどんな人であろうと救うという阿弥陀様の誓いこそが何よりも大切だということです。これは一理あると思います。まったく知らないのですが、浄土宗では、戒律が守れないことがあっても阿弥陀様は救うけれども、一応の行動規範として戒律をもうけているのかもしれません。本当に信心を得ていさえすれば、戒律がなくてもそれほど人間としておかしなことはほぼしないはずです。なので私は無戒であることをどうのこうのは思わないのですが、場合によっては一般人から見て一部の僧侶が堕落しているように見えるケースはあるでしょう。

 

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」(「歎異抄」第13章) 状況次第で人はいかなることでもしかねないということは、このブログでも過去書いたことがあります。その人の置かれる状況はその人の業縁が現れたものです。状況次第でどのようなことでもしてしまいかねないというのは確かです。この状況の力は非常に強力なので、戒律がたちまち無意味になることはありえます。真宗はそういう見地にも立っているでしょう。この状況=業縁の力の前では、軽い気持ちで受け入れた戒律は幼児のままごと程度の役割しか果たさないかもしれません。それよりもただひたすら信心を得て、はからいを捨て、阿弥陀様の導きと共にある方がいいでしょう。実際に私がお酒を飲まず、菜食なのは業縁のおかげでしょうし、真宗に限らずお酒を飲んだり肉魚を食べる僧侶の方が多いのも業縁のおかげでしょう。その点私は自分が置かれている状況に深く感謝しています。

 

真宗あるいは仏教を離れて私の考えを述べるならば、私は戒律とまではいわないまでも生活にある種の規律は必要だと思っていて、それは柔らかい言葉で言い換えれば、その人の生活スタイルということになります。交通ルールや車の制限速度があるために交通がスムーズに流れるのと同じで、適切な規律があってこそ生活は安全にそしてスムーズに流れるものです。宗教の大半は常識的な道徳に関わるもので、しかしある点においては独特な視点でものを見るケースもあり、私はこだわりがないものは受け流していますが、真宗に戒律のないことが気になる人がもしかしたらいるかもしれません。