愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

聖職者、師の役割

 

少し前にカトリックの片柳神父に関する記事を見かけました。こちらです。

shuchi.php.co.jp


片柳弘史著『何を信じて生きるのか』(PHP研究所)の一部を再編集したもののようで、詳しくはそちらを買って読まれるのがいいでしょう。この記事の中で学生と片柳神父が対話されています。その対話の具体的な内容について、どうのこうの思うことはあまりないのですが、一つ気になったことがあります。それは聖職者の役割に関してです。片柳神父はもちろん聖職者で、人々の疑問に対し誠実に答えをかえすことは、普通によくあることなのでしょう。神父の方のみならず、僧侶でもこのような態度は同じなのかもしれません。しかしながら私が僧侶や神父、牧師の方に求めてきたのはこういうことではありませんでした。いえ、悩み深かった頃は人に問い、その問った相手が答えをかえすことは私にもありました。しかしそういうことで私の問題が解決したことはこれまでなかったのです。

 

今はわかります。あくまでも私個人に関してですが、私が求めていたことは目的地を示してもらうことで、その目的地との対話の仕方を教えてもらうことでした。つまり、聖職者あるいは一般に師の仕事は目的地=神、仏を示すことであり、その神や仏と直接対話を重ねることを勧めてほしかったのです。神や仏と自分との間に入ってきてほしくなかったのです。先に取り上げた記事の中では学生の方が「もし本当に神がいるなら、なぜこの世界にはこれほどたくさんの苦しみがあるのでしょう。親に虐待されて死んでゆく子どもを、なぜ神は救わないのですか。自然災害で罪もない人々が死んでゆくのを、なぜ神は黙って見ているのでしょう。」という疑問を示しています。それに対して神父がご自身の考えを参考として述べるのはいいでしょうが、それよりもその学生に神に直接向かって問いかけてみるよう勧めるほうが、時間がかかっても本人の納得する答えを得やすいだろうと私は思っています。その学生が神と直接対話する上で神父の意見は参考になるでしょうし、それはそれでいいと思うのですが、ローマ教皇に聞くよりも神ご自身と直接対話するほうが遥かに実り多く、納得する答えが得られます。聖職者や師は人と神や仏との関係の妨げになってはなりません。

 

ツイッターで見かけたのですが、ソクラテスに次のような言葉があります。
“I cannot teach anybody anything. I can only make them think” - Socrates
(私は誰に対しても何も教えることはできません。私はただ彼らに考えてもらうことしかできません。)
人が人に何かを教えるというのは、もしそれを本当に信じているのならばある種の傲慢かもしれません。私が何かを語ることでそれを聞くものが何かを考えるきっかけとなり、それを通じて人が何らかの結論に達する。このように自分の話を聞く人が内から答えを引き出すよう導くことだけがグル(師)の仕事だとソクラテスはいっているのでしょう。聖職者の仕事は説教ですから、説教を取り上げられれば自らのアイデンティティに関わってきます。何かを語ることはまったく問題ないのですが、問題はその動機です。

 

聖職者や師のいうことを聞く人は、成長してもせいぜいその聖職者や師のレベルまでです。しかし聖職者や師が目的地として神や仏を示し、それとの対話を勧めるならば、人は聖職者や師のレベルを超えて神のレベルにまで達するでしょう。できるならばこのような信者や弟子の成長を望む聖職者や師に出会いたいものです。

 

私は真宗門徒ですので、親鸞聖人の生涯を簡単ですが知っています。親鸞聖人の生涯は苦難の生涯でした。師である法然上人と過ごした時間はわずかで、法然上人と分かれて50年以上もの間、親鸞聖人は一人で思索を重ねてきました。いえ、心の中で阿弥陀様やお釈迦様、法然上人、歴代の高僧方とたった一人で対話を重ねられてきたはずです。法然上人は親鸞聖人に目的地(阿弥陀様)を示し、親鸞聖人は阿弥陀様との対話を重ねられました。親鸞聖人は、自分は弟子を一人ももたないとおっしゃいました。自分が何かを教えることなどできないからです。自分が阿弥陀様と人との間に立ち入ることを嫌ったからです。親鸞聖人の卓越はここから来ていると私は思っています。つまり、現代においても、聖職者や師が信者や弟子に目的地を示し、神や仏との直接対話を積極的に勧めるならば、親鸞聖人レベルの人は山ほど現れるだろうということです。

 

私のように聖職者や師にこのような態度を望む人は日本にはほぼいないかもしれません。聖職者や師の仕事は説教することであると人々は思いこんでいます。自分で考えることのできない人になるのはまったく好ましいことではありません。