愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

国の目的

 

国(country、nation)は何のためにあるのでしょうか? 私が生まれた頃から、いえ何千年も前から国というものがあるので、国の存在は人々にとって当然のようなところがあります。現代に生きる一日本人として、あくまでも個人的な印象ですが、国は構成員(主に国民)の利害調整をし、安定的な社会を育み、古くからの文化を維持発展させるためにある、と何となく思います。それほど間違った国家観ではないでしょう。しかしここには他の日本人と同様一つの欠けている視点があります。それは国の外側にあるもの、つまり世界です。

 

キリスト教イスラム教、仏教のような宗教が民族や国家を超えて受け入れられる世界宗教になった理由について、それらの宗教は人々に一つの世界像、世界観を与えたからだという説があります。私たちの通常の素朴な認識の範囲を超えたところはどうなっているのか?そのことに対する答えを与えているから、特定の宗教が世界宗教になったのだとある人は唱えます。私も普通の日本人とそうは変わりませんので、日本の外の世界に関していつも関心をもっているわけではなく、自分の生活のことやせいぜい日本国内のことに関心が限定されがちなのは否めません。しかし国の輪郭を思い描くには、内側からだけでなく外側からも規定される必要があります。

 

サイババの言葉に次のようなものがあります。
「価値は教育のためにあります。教育は人生のためにあるということを、よく覚えておきなさい。人生は愛のためにあり、愛は人間のためにあります。人間は奉仕のためにあり、奉仕は社会のためにあります。社会は科学のためにあり、科学は国家のためにあります。国家は世界のために、世界は平和のためにあります。私たちは、この平和を獲得しなければなりません。」(『真実の探求』(p215~216)
この言葉には多くの意味が含まれていますが、今日は国に関係する部分を取り上げます。

 

「社会は科学のためにあり、科学は国家のためにあります。国家は世界のために、世界は平和のためにあります。」私たちはさまざまな社会的活動を行っています。それらの社会的活動から科学が抽出されます。社会科学や言語活動に基づいた人文科学だけでなく、特定の集団の特定の社会活動が自然科学に寄与していることも知っています。そしてそれらの科学が国家を支えていきます。そして国家の目的は世界のためになることであり、世界は平和を希求している、これがサイババの見解です。

 

国を家族に例えるのは少しばかり問題があるかもしれませんが、家族が家族だけで存在しているわけでなく、家族は家族外の人々と関わることで維持されます。それと同じで、国はおそらく原理的に見ても一国で存在できるものではないと思われます。他国との関わりが不可欠であり、人間が社会的存在であるのに似て、国も”社会的存在”であるといえそうです。家族生活が適切に維持されていてこそ、家族のメンバーは社会的に機能しやすくなるように、国もある程度の自立が確保されていてこそ、他国との関わりが機能します。

 

国が存在する目的は世界に貢献することです。さまざまな貢献の仕方があるでしょう。経済的貢献、文化的貢献、社会的貢献などなど。国の存在を考える際、私にとっては日本が母国ですが、日本が他国とどのように良好な関係を維持し、他国に貢献できているかを私は政治に期待しているところがあります。もちろん、当の日本国民が幸せで有能であってこそこれは可能です。このサイババの言葉に基づく私の観点は少しばかり特殊かもしれません。日本国憲法の前文を見た場合、他国を尊重する旨は書かれていても、他国に貢献することに関しては直接的には書かれていないように思えるからです。

 

世界に貢献するというとき、決して一部の国に見られるように他国の主権に干渉したり、価値の押しつけを念頭に置いているわけではありません。ただ日本人が母国である日本を尊重するように、他国民が母国を尊重するのに状況に従って手を差し伸べることが必要なのではないかというわけです。いわゆる奉仕活動に馴染みのない人が多い日本においては、他者を助けるということがどういうことなのかわかりにくいことがあるかもしれず、従って他国に貢献することについてもピンとこない点があるかもしれません。しかしながら、日本国憲法前文において、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」ならば、日本は世界のためにあるという意志を少しでも確保することは大切でしょう。世界にとって、他国にとって、真の友人であろうと努めることです。こういう観点は今後ますます重要になってくると思うのですが、どうでしょうか?