世界は道徳的秩序の別名

 私たちは世界に取り囲まれて生きています。日常的に移動する範囲の生活世界だけでなく、メディアを通じて普段行くことのできない場所で起きている出来事を知ります。大航海時代以前にも、そう人類が誕生してからずっと人々は移動し続けてきました。世界の果てを目指していたのかはわかりませんが、世界のさまざまな様相を見聞きしながら移動し、人類は地球上の各地に生存するようになりました。

 世界宗教といえば、キリスト教イスラム教、仏教など民族や国を越えて信仰する人の多い宗教のことですが、なぜこれらの宗教が世界宗教となったか考察した方がいました。その人によれば、これらの宗教が世界宗教になったのは、それらが世界について語っていたからだそうです。人間は昔から世界とは一体何なのだろうかと考え続けてきたわけです。世界宗教はそれらに対してそれなりの見解を与えてきたが故に、国や民族を越えて人々に受け入れられたとのことでした。

 ごく素朴な意見として、私にとって世界とは、この地球に住む人類とそれを含み取り囲む社会と自然全体のことです。現代人の多くの人にとってもそうでしょう。しかしこれだけでは満足しない人がいます。なぜ世界が誕生したのか、何の目的で世界はあるのか、なぜこの世界に自分は生まれたのか? などなど疑問を持つ人がいます。であるが故に、世界のどこかで何かが起こればニュースがたちまち世界を一周する時代であっても、宗教的なものの見方が人々の中に息づいているのでしょう。

 世界とは何なのか? 私の師は「世界は道徳的秩序の別名です。」といっていました。現代は何でも自由が流行りですから、世界に人が従うべき秩序があることは受け入れられない人もいるかもしれませんが、自然界に法則があるのと同じで、人間という存在が人間として従わなければならない法則というものがあっても不思議ではありません。自然ほどにはそれが科学的に解明されてないだけかもしれませんし、しかし人が踏むべき道というものがあって、それによって支えられるものが世界というものの正体である可能性はあります。

 例えば、愛をもって何かを思う人、何かを語る人、何かを行う人は、意味のない残虐なことはしないでしょう。単なる合理性に従った確率に基づくギャンブルのような振る舞いもしないでしょう。富の獲得を唯一の目的とするような生活もしないでしょう。

 世界宗教は世界を絶対者との関係で説明することが多いかもしれませんが、そうであっても道徳的指示を多く含んでおり、実際のところ世界は人間の活動との相互関係によって初めて意味をもつものであるのかもしれません。つまり人間の道徳性を映し出す鏡としての世界です。現代のように欲やエゴに従って生きる人の多い時代の世界が、人々が調和と愛に従って生きる時代の世界とまったく異なるのは容易に想像できます。

 仏教では、正法、像法、末法といい、インドではクリタユガ、トレタユガ、ドワパラユガ、カリユガといいます。それぞれ人々の行動がまるっきり異なるとされますが、現代は末法、カリユガ(闘争時代)であり、それに従った人々の行動と世界が目の前にあります。

 世界が道徳的秩序の別名であるのなら、人は人のなすべき務めをまず第一に果たすべきですし、そのように義務を果たす人から見れば、道徳から外れた人、エゴを第一にする人が世界を乱す愚か者に見えてきたりするわけです。自らの義務を理解しそれを行うことのできる人は世界が見えている知恵・英知の人ともいい得ます。