愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

よき仲間とソリチュード(無執着)

 

宗教と個人のありように関してもう少し書いておきたいと思います。こちらのサイババのご講話の4ページ目に次のような詩があります。

https://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume39/sss39-12.pdf

 

Satsangatwe nissangathwam, 
Nissangatwe nirmohathwam, 
Nirmohatwe nischalatathwam, 
Nischalatathwe jivanmukti. 
 (Sanskrit sloka)
(Good company leads to detachment;
detachment makes one free from delusion;
freedom from delusion leads to steadiness of mind;
steadiness of mind confers liberation.)
(よき仲間は人を無執着へと導き、
無執着は人を迷妄から解放し、
迷妄からの解放は心の着実さへと導く。
そして心の着実さは人に解脱を与える。)

 

上のサンスクリットの詩は元は不二一元論の大家シャンカラーチャーリヤの詩であったと思うのですが、今確認できません。


サンガは仏教でも使われる言葉ですが仲間という意味です。サットは存在、善というような意味でサットサンガはよき仲間のことです。霊的な道を歩む上で余計な雑音や世間に吹き荒れる暴風の影響から離れるために、インドではサットサンガが勧められています。乾燥したところにおいたコップの水はすぐ蒸発してなくなってしまいますが、水の入ったコップを水の張ったたらいの中に置くとコップの水はなかなか蒸発しません。そのようによき仲間がまず第一に必要だとされます。宗教の仲間もそのようなよき仲間であって、私はこれは好ましいものと思っています。

 

サットサンガ(よき仲間)はニッサンガ(無執着)へと人を導くといいます。ニは否定でニッサンガは仲間をもたないことの意味です。これをソリチュードのことだと解説している人の話を聞いたことがあります。ソリチュードは一人でいて一人の時間を楽しむことです。つまりここでニッサンガはサットサンガ(よき仲間)と長い間過ごすことによって精神的に自立し人間の仲間がいなくても真の友(仲間)=神と過ごせるようになった人のことです。人間関係に執着がなくなったがゆえに無執着と理解されます。よき仲間のおかげで一人の時間(実際は神との時間)を過ごすようになるというわけです。

 

モーハは迷妄という意味で、日本語のバカという語の語源はこのモーハだと聞いたことがあります。これにニ(否定の接頭語)が付き、原理という意味のトワムが後ろに付き、ソリチュードを愛する人は次第に迷妄から解放されると解説されます。神と過ごしているのですから、それ以外のものは退けられるわけです。そして迷妄から解放されるならば、心が揺さぶられること、動揺することは減っていきます。これが心の着実さです。あとは着実な心に従って生き続けていれば解脱(ジーヴァンムクティ=個別性からの解放)に到達するというわけです。

 

宗教と個人との関係はこの詩に表わされているとおりではないかと思います。出発点として生まれたときに宗教=よき仲間の中にあっていいのですが、神との直接的な関係を育んでいくことを通じてソリチュードを楽しむようになります。よき仲間とは関係は続いているかもしれませんが、それは相対的にあまり意味がなくなってきて、むしろ神との直接関係を楽しみます。まずは人間はここまで達していいでしょう。その後の過程は半ば自動的にもたらされます。もしソリチュードを否定されそうになれば、その否定するものは迷妄といえるものではないかと自問していいでしょう。人生において着実な努力=着実な心が育まれたならばかなりの程度人生は成功しています。宗教は人を迷妄で満たすのではなく、人に着実な心を与えなければなりません。あとは地道に神を思いながら歩み続けるのみです。実際にこの人生で解脱に達するかどうかはわからなくはありますが、少なくともこのような着実さ、誠実さがありさえすれば、その人の人生は十分に霊的であったと総括できるでしょう。

 

ほんの4行の詩ですが、お釈迦様のお経以外にもこのように優れた詩がインドにはたくさんあります。私の視野の狭さのせいで詩の意味がぼやけてしまっているかもしれませんので、どうぞ各人が自らの経験に照らして詩を再度味わわれることをおすすめします。