もう10年以上前になりますが、グナについて書いたことがあります。
この時に書いたままの状況だと思います。いいたいこともほぼこの通りですが、以前書いてから10年もたっていますし、このグナという概念について理解を深めることが重要であると思っておりますので、喚起という意味を込めて少しばかり表現を加えてグナということについて今回書いてみます。
グナは鈍性、激性、浄性の3つからなります。鈍性は怠惰、停滞のような性質です。激性は行動、激しさというものです。浄性は清らかさ、静かさという性質です。個人的には鈍性は物質とかかわり、激性は心(マインド)とかかわり、浄性は魂(アートマ)に関係していると思っています。浄性の概念が欠けている人は、鈍性と激性の間を行ったり来たりして向上がありません。他国の人は知りませんが、日本人の多くは魂(アートマ)としての自分について普段意識していないような感じで、浄性というものになじみを感じないのかもしれません。鈍性は怠惰です。激性は動きです。それに関連していえば、浄性は見かけ上激しさはなく、一見鈍性に見間違いかねません。浄性の人を見て怠けていると指摘しかねない人は多いでしょう。おおまかにいえば、鈍性には質も量もありません。激性は量です。浄性は質です。質とはだれが見ていようとみていまいと手を抜かないような態度のことです。
水鳥は水面上にあるときじっとしているように見えますが、水面下の足は少しずつ動いているので、時間がたてば明らかに移動します。怠けているわけではありません。日本の能を舞う人は、動きはゆっくりですが、心臓の鼓動は激しいようです。見かけからは一見わからない所作がそこにはあります。日本人にかつては多くいた優れた職人も淡々と仕事をこなしつつも、その技術は卓越しています。これらの浄性のものと思われるものは、現代日本においてなかなか評価されません。お金や地位に直結しない領域でそれらの浄性の優れた人たちが人知れず過ごしています。浄性は心の平安と幸福を自然な状態とします。激性や鈍性にはこれらのものはありません。評価すべきものが評価できていません。鈍性、激性、浄性のもっと適切な表現はバガヴァッドギーターに詳しくあります。関心のある人はそちらを見ていただければと思います。
人は鈍性から激性へ、激性から浄性へと向上していかなくてはなりません。鈍性とはお酒やたばこ、テレビの世界でしょう。激性は主に仕事です。この2つに比べれば、浄性は少しばかり浮世離れしていて、霊性の世界に住んでいるといってもいいものです。浄性というものがわかるかわからないかは、世界の半分しか見えてないか全体が見えているかくらいの違いがあります。是非とも浄性という概念が広まって、人々が人間性の向上について理解を深めていってほしいと希望しています。浄性に沿って生きていくのが普通になれば、さらにその上がありますが、これは知識や幸福でさえも束縛の一種であるということであり、そういう類の束縛からの解放は人間の最終的な目的となります。しかしまずは鈍性から激性へ、激性から浄性へと向上することが望まれます。
長期間にわたって何もする気が起こらないというのは鈍性かもしれません。活動的であってそして活動的であることから逃れられないのは激性かもしれません。それに対して浄性は心(マインド)の活動も少なく、しかし怠けているわけではなく静かに何らかの活動に携わり、平安で幸福です。激性の人は激性の人で世界を支えているかもしれませんが、実際のところ浄性の人こそが世界の安定に多く貢献しています。各個人が浄性の段階を実現できなければ、社会が浄性の段階を実現することはないでしょう。
浄性の概念が社会に定着し、その性質を体現する人たちが評価されますように。量ではなく質です。量はあってもいいのですが、質が伴わなければその価値はほぼ無ですし、いつかは量は質へと転化しなければなりません。現状、わかる人にはわかるけれども、わからない人にはまったくわからないという世界が浄性の世界なのかもしれません。