I-We-He
前回に続き10年以上前を振り返ります。約12年前に「JOY(喜び)を得るには」という題で記事を書いたことがあります。
10年以上たっても思っていることは変わりません。この記事の中に「神を最初に、次に他の人を、最後に自分を」とありますが、これに関連して少し違った視点から今日は書いてみます。I(私)-We(私たち)-He(彼)についてです。
人間の普通の感覚としてまず肉体をまとった自分というものがあります。それが錯覚としても人間は肉体を自分と同一視しがちです。それはある程度仕方のないことです。それはI(私)です。人は肉体を維持するために食事をとったり睡眠をとったりしていますから、このI(私)という感覚の維持も人生の一部です。私が何かしたいからそれをします。私がそれを欲しているからそれを手に入れようとします。人生の何らかの割合はこういうもので構成されています。
このI(私)だけでは人生はその内行き詰まります。肉体の欲求を満たすだけでは人生は苦々しいものとなります。ある程度年を重ねた人はこのことを理解できるでしょう。I(私)からWe(私たち)の段階へ進むことは不可欠です。結婚して子どもをもうけたら家族ができます。家族ができたらそこにWe(私たち)という感覚が芽生えるでしょう。私のことも大切だけど、配偶者や子どものことも大切だと思うでしょう。これはWe(私たち)という感覚です。また普通の人でしたら、会社勤めをすれば自分のことだけでなく組織の目標をも考慮してそれに沿って仕事をするものです。会社の仲間はWe(私たち)です。隣近所の人たちとは自治会などで関係があるでしょうが、近隣の人たちと仲良くやっていったり、地域の清掃活動に参加することなどもWe(私たち)が念頭にあってこそです。We(私たち)というものもそれなりに自然な感覚です。
ここで私がどのようなWe(私たち)という感覚を身につけているか少しの例を述べておきます。ほんの数年前まで私は幼少期から数十年間過ごした地とかかわりがありました。この地の人とはそれなりになじみがありますし、三つ子の魂百までといいますが、この地の文化は私の一部となっています。大学時代に東京で過ごした時の影響もかなり残っています。当時ともに過ごした人たちの考え方などは何らかの記憶として残っています。また私は大きな病気を患っていますので、その病気に関係する人たち(医師や同病の方、支援者の方々)などのコミュニティの影響もあります。他にも私独特なのはサイババに対して何らかの信念をもっている人たちの集まりや、今は農村地域に住んでいますので、この地域の方々の生活様式などもそれなりに影響を与えています。仕事で関係してきた人たちの影響もありますが、それは日本人一般とそれほどは大きな違いはないかもしれません。私はここに挙げた事例を中心にこれまでの人生で関わってきた人たちとともにあるという感覚があります。私にとってのWe(私たち)です。
そして次にHe(彼)です。このHe(彼)とは神のことです。私にとってHe(彼)は超越者のことですが、超越者といっても上なる超越者というよりは内なる超越者といえます。また私はサイババのこともHe(彼)と呼んで差し支えありません。We(私たち)を越えてさらにHe(彼)へと地平を広げていかなくてはなりません。私にとってHe(彼)は万物の内在者のことであり、私を動機づけるものと同じお方がすべての人、事物に内在しているという理解のことです。私にとってHe(彼)はWe(私たち)を越えたお方です。一般にunity in diversity(多様性の内なる一体性)の理解のことといっていいでしょう。Ishaa vaasyam idam sarvam(神はこの宇宙すべてに浸透している)といわれますが、電気が流れれば電化製品が動くように、この世界のすべてにHe(彼)が浸透しているからこの世界は動いているというわけです。
I(私)とWe(私たち)とHe(彼)の3つは単に視点の置き方の違いによるものです。人間にはこの3つの視点が備わっています。I(私)とWe(私たち)とHe(彼)の3つの一体性ということです。12年前のJOYの記事でも、順序は逆でしたが、彼と私たちと私について述べています。順序は違いますが、3つは一つです。ただ人間の成長ということを考えるならば、I(私)よりもWe(私たち)、We(私たち)よりもHe(彼)の感覚が強まるのが適切な成長ではないかと思うわけです。I(私)が生きている限り肉体の世話はしなくてはなりませんが、日々の活動においてはWe(私たち)の幸福や福祉を念頭に置き、それを通じてHe(彼)の知識へと到達すべきだと、私はそう思うわけです。