良心に沿って生きる

(自分の過去の記事を検索すると、良心をタイトルにした記事を書いたことがなかったようです。ですので今回取り上げてみました。)

 良心に従いなさいとはよくいわれること。この良心とは、人間に内在する神性の(微かな)動きのようなものが意識へと伝わってきたもの。動きというよりは声と受け止められることが多いですが。私が動く以前に内在する神が動いていると私は受け止めます。
 
 神像・仏像を崇めることだけによっても人間はかなりの高みにまで登れますが、長らく神仏を崇め続けているうちに、次第に内なる良心に従うことのコツがわかってきます。神仏とのコミュニケーション(礼拝や祈り)を通じて、神仏が私たちのどのような思いや行動を好むかということが何となくですがつかめてくるし、それが内なる良心の促しと密接にかかわっていることも。
 
 良心はどのような人にも等しく与えられているもので、それはその人に啓示される創造者のマスタープラン(基本計画、総合計画)といえるもの。世界で起こっていることの全体を把握していなくとも、各人が良心に従うことで社会ひいては世界が調和の取れたもの、相互の愛に満ちたものになります。実際のところ、人間がなすべき唯一のことは、内なる良心の促しを実現するために情報を集めたり、試行錯誤することだけのような気がしています。
 
 内なる良心の促しがあっても、人は後付けでさまざまな理屈をつけてそれを実行しないことがあります。なすべきことがわかっていてそれを先延ばしにしている状態です。もし内なる良心の促しが確かなものであると確信できたならば、他の一切の外野の声は脇において、なすべきことをなすのがもっとも本人や周囲の人にとって好ましいのでしょう。
 
 ところが心が汚れている場合には、それが良心の促しなのか、あるいは脳裏をたまたまよぎった単なる想念に過ぎないのか判別できないことがあります。霊性修行とされるものの目的の一つは心をきれいにすることですが、心をきれいにして、良心の促しをしっかりと受け止めることで人生が実り多きものとなります。そして良心の促しに気づける程度には心をきれいにしておきたいもの。身体や歯の汚れを毎日落とすのと同じように。
 
 一握りの人は、全生涯にわたって多大な仕事を引き受けています。しかしほとんどの人にとって一生涯においてしなければならない仕事はそれほど多くないのではないかと思います。良心が私たちに促す仕事は、せいぜい片手の指で数え上げられるほどではないかと。ただそれを質を伴ったものとして成し遂げることができるかどうか。そこがポイントのような気がしています。