愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

唯一者のみが存在する

 

少し前のブログで霊性の特性として「すべては内在する」、「出発点に戻る」を挙げましたが、今日はもう一つそれに付け加えます。それは「唯一者のみが存在する」です。これに関しては私の体験が追いついていないので半ば信念といっていいでしょう。しかし哲学としては太古から主張されていることです。

 

「誰が、一なる者(エーカム)からこのあらゆる多様性を創ったのでしょう? その答えは、「多様性はまったく存在していないので、この質問は成り立たない」というものです。この「多」は、人が作ったものでもなければ、力や衝動、連鎖、状況、偶然が作ったものでもありません。 「多」は存在しません! 「一」は「一」のままです。あなた方が、それを「多」と間違えているのです。誤りはあなた方にあります。あなたの見方を正しなさい。あなたの迷妄を取り除きなさい。」(サティヤ・サイ・ババ 1962.11.24)

 

サイババによれば、私たちが見る多様性は存在していないようです。それはただ多様性に満ちているようにみえるだけのようです。つまりこの世界(宇宙)が存在する以前、それは自らが生まれる前の母の姿を想像するようでもありますが、私は神あるいは絶対者としかいいようのない存在があったと感覚します。あくまでも私の抱く概念としてはそれは唯一の存在でした。そして科学ではビックバンと呼ばれるような状況が生じ、世界(宇宙)が現れました。それは見える限りでは今もそうであるように多様なのでしょうが、しかし見えるという属性(そしてそれによって惑わされること)が加わっただけで唯一であることは変わってない、そういうことなのだと思います。宇宙が誕生する前は単なる白いスクリーンで、宇宙が誕生した後は光が当たり映画が上映されているスクリーンに当たるでしょう。映画が上映されていない白いスクリーンも、映画が上映中の色のついたスクリーンも変わりはない、つまり「一」は「一」のままであるということです。

 

多様性と一体性(一つであること)に関して、次のような話を聞いたことがあります。「帽子が革でできていて、ベルトが革でできていて、靴が革でできています。帽子とベルトと靴は異なるものつまり多様ですが、革は一つです。この世のありとあらゆるものは異なって見えますが、すべては同じものです。ただ、同じ革でできているといっても帽子を履き、靴を頭に載せる人はいません。この世のすべては同じものですが、見た目や形、性質によって扱いが異なることはあります。」

 

例えば次のように考えることもできるでしょう。私は人間として一つ(一人)の存在です。しかし私の体は何十兆もの細胞でできています。細胞は多様ですが、多様であってもすべては一つです。私はその時の精神状態によって、世界が自分の体のように感じることがあります。そのときすべては一つであるという実感に近いのでしょう。そういう精神状態において他者をどのように捉えればいいかということですが、世界という一つの体の中の一つの細胞と捉えることがあります。受け止め方によっては、世界には70億人がいて、私は70億の細胞で構成されている一つの体だと思うことは可能です。

 

あるいは多様性または他者に関しては次のように考えることもできるでしょう。それは唯一者を映し出す鏡にすぎないと。家族は社会を映し出す鏡であるという言葉を聞いたことがあります。祖父母、父母、子どもの家族において、互いは互いを通して社会の一面を見ることができるでしょう。それと同じように、この世にある多様性とはそれぞれ唯一者を映し出す鏡であると受け止めることはできます。多様性があるコミュニティで不調和を示すならば、それはその多様性を入れる容器としてそのコミュニティが小さすぎるだけなのかもしれません。

 

上に少しばかり論じたように、哲学としては「唯一者のみが存在すること」は受け入れることができます。これを実体験として受け入れるには、私は世界が自分の体のように感じることを土台にしていきたいと思っています。一元論それも不二一元論が何の役に立つのかという批判は多く聞かれます。それは言葉遊びなのではないかと、社会の役には立たないのではないかと。今の時点で私はこれに対して大きな反論はできませんが、例えば世界を自分の体のように感じ、その上で自分が整えば、あるいは自己コントロールができるならば、それは漢方薬に似て、世界全体をととのえるのに役立つのではないかという思いがあります。現時点ではそれは信念のようなものではありますけれども。サイババはかつて、「自分自身でいなさい。それが奉仕です」といっていたような気がします。それは真実であるという気はするのです。