遊行(ゆぎょう)

 

私はかつて林住期について書いたことがあります(下のブログ記事)。インドでは人生を4つの時期に分けます。学生期、家長期、林住期、遊行期です。大体25年毎に区分けされています。私は50歳を少し過ぎた年なので、今林住期を意識して過ごすことが多いです。遊行期については70歳を過ぎて考えても遅くはないのですが、最近遊行について考える機会がありました。今日はこの遊行について書いてみるつもりです。

aitasaka.hatenablog.com

 

遊行の意味をウィキペディアで調べれば「遊行(ゆぎょう)とは、仏教の僧侶が布教や修行のために各地を巡り歩くこと。空海行基空也、一遍などがその典型的な例である。」とあります。私がまず思い浮かべるのは浄土系の一遍上人です。盆踊りの起源とされる踊り念仏で有名な方ですが、南無阿弥陀仏の名号を唱えながら全国各地を巡り歩かれたと聞いています。弘法大師の伝説も全国各地にあるようで、四国八十八ヶ所などはそれに関係していると聞きます。松尾芭蕉は仏法者としてではないでしょうが、旅行でもありまたある種の遊行をされた方でもあります。近代では種田山頭火などもいます。

 

私の手元にある『神問神答』という本では遊行について次のように書かれています。「サンニャーサ(遊行者)は人ごみの中では生活しません。それがどれほどわずかであろうとも、得られた食物だけで生活します。食物が得られなかった場所を非難することはありません。同じ場所では二度と食べず、同じ場所で二晩続けて寝ることはありません。サンニャーサは眠ることと食べることへの誘惑さえも克服します。季節の厳しさもほとんど気に留めることはありません。サンニャーサはディヤーナ(瞑想)によって呼び出す神と共にあり、いつも喜びに満ち、幸せです。」(p30)このような態度で各地を遊行する者がインドでは遊行者とされます。食物は托鉢というか市井の方々からの施しで得ているのでしょうし、寝る場所も屋根があるとは限りません。見方によっては日本のホームレスの方の生活を思い浮かべなくもないですが、遊行の動機は感覚的、物質的な欲望の克服にあり、死において絶対者に融合する直前のあり様として遊行が規定されています。

 

私は山歩きを少しばかりしますので、山の中に庵というか修行をするための建物があちこちにあることを知っています。ただし現在はそれらのほとんどは使われておらず朽ちていますけれども。林住は正確にはそれらの山の中の庵などで生活することでしょうが、山の中で生活せずとも自然環境が豊かで人の少ない僻地で生活することも林住期の一つ過ごし方だと思っています。それと同じように遊行は正確には今日の食事や住処のあてのない中各地を巡り歩くことなのでしょうが、例えば各地を巡り歩きつつもお寺のネットワークを活用して食事と寝床を確保することも遊行のようなものとしていいでしょう。最近は見かけませんが、20年前は街角でお経を唱えながら托鉢をされていた(遠方からきた)真言宗の僧侶の方をしばしば見かけました。50年100年前あるいは江戸時代などにはもっと遊行されている方は多かったかもしれません。

 

現時点では一般人が遊行をするのは不可能ではなくとも困難でしょう。地方によっては冬の寒さが厳しいです。托鉢したとして一般家庭の人がそれを理解して食物を提供してくれることはどのくらいあるのでしょうか?寝床を提供されることも少ないでしょうし、野宿を続けるのも厳しいものがあります。私などは健康の問題を抱えているので、長く続かないだろうことは目に見えています。このようなことを考えれば、インドには貴重な文化が残っているといえます。

 

少しばかりお金を使っていいとなれば、少しは遊行に似たことはできます。実は今日遊行について書こうと思ったのは、AirBnB社の資料を見たのがきっかけです。その資料によれば、今世界で旅行革命のようなものが起こっているらしいのです。これまでは定住と旅行とに分かれていたのですが、今は定住と旅行の間の一時的な滞在というものが世界の多くの人に受け入れられつつあるらしいのです。ワーケーションやリモートワークが可能になり、それはどんな辺鄙なところでも宿泊するところが確保できるようになってきたからです。AirBnB社のサービスを使えば、ユースホステルやゲストハウス、普通の旅館・ホテルのないようなどんなところでも一時的な滞在が可能になります。AirBnB社のサービスは本来遊行のためのものではないでしょうが、日本各地を経めぐりながら、時には野宿をし、時には家屋の中で睡眠をとるような生活はできそうです。

 

私は今山や平地を歩いているときにしばしばマントラを唱えています。プチ遊行のようなものです。体力の制限があるとしてもそもそも歩くことが好きです。完全なる遊行はできずとも、何日か単位くらいならそれらしいことはできるかもしれません。とはいっても可能ならば、お寺のネットワークのようなものもあったらいいなと思います。遊行が盛んになればおもしろいといえばおもしろいと思うのですよね。

私のコミュニケーションスキル

 

私は長年人とのコミュニケーションに悩んだと思います。今でも多少そういうところはありますが、年をとってずいぶん楽になりました。愚鈍ながらコミュニケーションスキルを磨こうとしたことはありますが、世間で喧伝されているような立派なコミュニケーションスキルを身につけることはできていません。しかしながら、今私がコミュニケーションにおいて心がけていることに触れるのも、もしかしたら誰かの役に立つかもしれません。

 

私の師は、「人と会ったときにはこんにちは、分かれるときにはさようなら、それだけで十分です。」というようなことをいっています。話すことはあいさつと本当に必要な最小限だけで十分だそうです。口数の少ない人間は他の人から見ておもしろみがなく、あまり相手にされることはありませんが、それを補って余りある心の平安と幸福があるといいます。私はそれを実感しています。そもそも私はこれまでの人生で長い間家族からも含めて愚か者扱いでしたし、一人の時間を過ごすことが他の人より多くありました。一人でいることを孤独といいますが、孤独といっても寂しさを感じる孤独lonelinessと一人の時間を楽しむ孤独solitudeがあります。寂しさを感じる孤独しか感じなければどうしても仲間を欲してしまうでしょうが、幸いなことに私は一人の時間を楽しむことのできる人間へと成長することができたので、人に相手にされなくてもそうは気になりません。私はおもしろみのない人間と受け取られていても心は平安です。

 

人とコミュニケーションをとる時、話す場合は相手の心に届くように言葉を選んで話すように心がけています。表面的な話題に話を合わせることはあまりありません。人の話を聞くときは心で聞くようにしています。頭で考えることはしません。心に伝わってくることだけが私へのメッセージだと思っています。心と心の間にメッセージのやり取りが交わせたかどうかが大切です。それ以外に気を向けることは年をとって億劫になりました。私から相手に伝える際も、相手から私に伝える際も多くのものがこぼれ落ちている可能性はありますが、今はそれでいいと思います。心から心に何かが伝わったときには相手と何らかのつながりが築けているのでしょう。heart to heart feeling(心と心がつながっている感覚)が大切です。何かが伝わっていさえすれば、相手の個性を問うことはあまりありません。

 

しかしながら、世の中にはいろいろな人がいて、日常的に頻繁にうそをつくことでコミュニケーションを図っている人が私の周辺にも何人かいます。そういう人と関わらざるを得ないことは悲しいことで、腹の立つこともたびたびあります。突然怒り出す人もいます。私に全く否がないとはいわなくても、そんなに怒鳴られることをしたりいったりしたかと悩んだことは幾度もありました。その他、コミュニケーションを取らなければならないのにそれが非常に困難なケースは、私でなくても多くの人が体験しているでしょう。

 

半年くらい前か忘れましたが、ツイッターを見ているとあるお坊さんの「普通の人から見てなんでそんな振る舞いをするのか理解困難な人がいたら、その人はまだ人間として転生してきた回数が少なくて人間というものに慣れてない可能性があります。」というような言葉が目に止まりました。もしかしたらそういうこともあるかもしれません。私は輪廻転生を信じていますが、今は人類の歴史の上で人間の数が最も多い時期で、これまで動物や植物だった存在が初めて人間として生まれたケースもありそうです。当然人間というものに慣れていないでしょう。お坊さんの言葉になるほどと思ったものです。相手の振る舞いに怒って相手を傷つけず、そして相手を暖かく見守り尊重し、何とかことをやり過ごすための一つの受け取り方です。

 

正直にいいますと、私はこれまで思う存分自分の思ったことを人と話したことはありません。理解されないからです。一生懸命そんな私を受け入れようとしてくれたのは母親だけだったでしょう。言葉を選ぶと少しばかり理解してくれる人もいましたが、そういう人はこれまで5人もいたかどうかです。そんな私が信仰をもち神仏に語りかけることを習慣とするようになったのはある種の必然といえます。コミュニケーションに悩んでいる人は多くいるでしょうが、信仰をもつことは一つの救いではあります。

リーダーシップ2

 

私はこれまであまりリーダーシップを必要とする立場になかったことにより、それほどはリーダーシップについて学んでいません。今までリーダーシップについて心に残っていることとしては、奉仕の精神を体現している人がリーダーになるべきこと、フォロワーシップこそがリーダーシップを学ぶ場であること、リーダーはメンバーと存在を共有していなければならないことなどがあります。今日はそれに加えて一つ気になったことを書いてみたいと思います。

 

以前セブンイレブンのCEOであった鈴木敏文氏について取り上げたことがありますが、彼の著書や彼について書かれた著書を読む限り、私は彼は経営の天才であると思っています。アメリカには経営の天才が力を発揮する土壌がありますが、日本にも本来経営の才能をもった人がいるにも関わらず、その才能を発揮できている人はわずかでしょう。ヤマト運輸の元社長小倉昌男なんかも優れた方でしたが、個人的には鈴木氏の方が学ぶところが多くあります。私は優れた経営者がもっと多く日本で活躍してほしいと願っており、また中小企業ももっと多く誕生して、日本経済を活性化してほしいとも思っています。経営学は日本に広まって欲しい学問の一つです。

 

さて、今日の本題です。鈴木敏文氏の『商売の原点』という本があります。それを読んでいると次のような表現が目に止まりました。「組織にあって「長」がつくのは、部下を通して仕事をする人のことです。それができなければ、あってもなくてもいい、人体でいえば盲腸(虫様突起)のようなものです。」(p184)

 

当たり前といえば当たり前の言葉ですが、考えさせられました。部下はある意味自分の分身なわけです。別の人間ではありますが、しかし部下は「長」がつくものの仕事をするわけです。これは部下から見ればフォローワーシップ、つまりリーダーに忠実なフォロワーであるべきだということになります。おそらくフォロワーであろうと長年心がけてきたならば、フォローワーであることを容易にする要件を理解するようになると思います。その要件を理解しているならば、その人がリーダーになったときに部下にその要件を示し部下に仕事をしやすい環境を提供しやすくなるでしょう。

 

さて、人は思いのとおりに言葉を話し、言葉のとおりに行動するときに最も力を発揮します。ならば部下を通じて仕事をする際に、「長」がつくものは部下と思いを共有しておくことは必須になるはずです。会社ですと、会社の基本原則は身にしみていなければなりません。基本原則が身にしみていたならば、部下の個性に任せて基本原則の実行を徹底してもらえばいいわけです。大変なのは、思いを真に共有すること、基本原則を理解して身につけてもらうことです。リーダーの仕事のかなりの部分はその点に集約されえます。部下に理解してもらうためには、自らがある程度コミニュケーション能力を身につけ、相手が理解しやすいようあの手この手で繰り返し要点を示します。言葉だけでなく手本を示すことも含まれるでしょう。

 

会社組織ですと成果はドライに数字で評価するのが簡単です。基本原則を理解してもらえれば、部下の人格に手を加えようとする必要はまったくないですし、部下の評価はそのまま「長」がつくものの評価となります。「長」がつくものと部下はある意味一つの存在なわけです。

 

私はリーダーとしての経験が不足していますので、あまり偉そうなことはいえません。ただ鈴木氏の言葉はリーダーシップについて考えている人にとって何かを考えるきっかけを与えてくれるのではないかと思い紹介しました。リーダーと部下の関係を父と子に例えている文を他の本で目にしたことがありますが、ある種それに近い親密な関係があってこそ、部下を通して仕事をすることができます。常々諸リーダー方が、家庭や地域、社会をより良い方向へ方向づけることができますことを願っており、今日は少しばかりリーダーシップについて書いてみました。

無執着の実践

 

先週の記事の題はLife is a journey, walk it! でしたが、記事の内容からみて、Life is a long trail, walk it! (人生はロングトレイルです、歩きなさい。)でもよかったかもしれません。ロングトレイルは山道を多く含んでいますが、山道でないトレイルもあります。トレイルには(荒野などの)踏みならされてできた道、 (山中などの)小道という意味があるようです。

 

今日のテーマです。今日は無執着について少し触れてみます。最後まで読んでいただければわかりますが、先週の話と関わりがあります。さて字面の通り無執着とは執着がないことです。無執着について最もわかりやすい例えをあげますと、例えば小学校の校長先生は校長室でイスに座り机に向かって仕事をします。書棚も使っているでしょう。しかしながら他校に転任になったとき、それらを手放していかなければなりません。元々それ(机やイス、書棚)は校長先生のものではなく、一時的に活用することが許されただけだったのです。銀行員が多額の現金を数えたり、出し入れしています。銀行員は日常的にそれらを扱っているにしろ、それらは銀行員のものではありません。家に帰るときや仕事を辞める時には1円たりとも持ち出すことはできません。銀行員はお金の管理を一時的に任されていただけだったのです。校長先生や銀行員が自らが用いたり管理しているものに執着をもてば、とんでもないことになります。彼らに求められているのは無執着です。

 

同じように、私たちがこの人生で扱うものはすべて一時的なものです。私たちは裸で何ももたずに生まれてきますし、死ぬときも砂粒一つもっていくことはできません。この世界のものや人で私のものといえるものは何一つありません。一時的に活用することや管理することが許されているだけです。あるいは人生の伴侶として苦楽をともにわかち合ったり、養育を任されているだけの人を家族といっているわけです。どんなに親密であろうとも関係には一定の節度が求められ、執着を育んでもそれは後々精神的な苦痛を引き起こすだけです。

 

日本語にバカという言葉があります。一説によればバカの語源はサンスクリット語のモーハという言葉らしいです。そしてこのモーハは執着を意味します。私のものでないものを私のものと思って必要のない妄想を育んだ人のこと、そしてそれによりおかしな振る舞いをしたり苦痛を味わっている人のこと、それがバカなのでしょう。ちなみに解脱はサンスクリット語でモクシャといいますが、モクシャとはモーハ+クシャヤ(モーハを破壊した)結果としての解放を意味するようです。この定義によれば、この世に生きる人は皆解脱していない人なのですから、私を含めてバカの集まりということになります。

 

人生は川の一方の岸からもう一方の岸に向かって橋を歩くようなものともいわれます。ゆっくり橋を渡ることはできますが、橋の上に家を建ててそこで生活することはしません。つまりこの世は通り過ぎる場であり、定住する場ではないのです。私は20歳過ぎの甥に「コツコツ努力をしなさい。休むのは死んだあとです。」とアドバイスをしたことがあります。20過ぎの甥はもしかしたらあと80年は生きるかもしれません。80年も努力し続けるあるいは歩み続けるのは気の遠くなることかもしれません。甥に過大な要求をしているかもしれないという思いはあります。しかし私も50数年ゆっくりとですが歩み続けてきて、そしてこれからあと仮に30年前後の人生が残っているとして、やはり歩み続けるつもりでいます。自分がしてきていないことを甥に要求してはいません。(私に子がおらず、さまざまな事情で甥は家を継ぐものです。少しばかりアドバイスをする機会があったのです。)

 

しかしながら少なくない人は、この世が安住の地であると思って、この世に家を建てこの世にずっと住むつもりでいます。その人が今置かれている状況というのはほんの一時的であるにも関わらず、橋の上に家を建てている人がいます。これは私からいえばバカ、つまりこの世の何かに大きな執着を育んだ人です。執着のない人は橋を渡りきるまで歩き続けるのみです。それが無執着の実践です。若いときはまだしも年を重ねた人が歩き続けるのはある意味大変であることは理解します。しかしそれでも人はゆっくりとでも歩き続けるべきだと私は思うのです。それは人生に対する誠実さであり、霊的であることの一つの意味でしょう。

Life is a journey, walk it!

 

人生はしばしば旅に例えられます。英語には旅を意味する言葉がいくつかあります。travel、trip、journey、tour、voyageなどなどです。今私の個人的な語感としてjourneyを用いたいと思います。journeyは通例かなり長い,時として骨の折れる旅で,必ずしも帰ってくることは意味しない(by weblio)ものを意味するようです。人生というものはそれなりに長いものであり、時として骨が折れます。そして本来帰ってくることを目的としません。さらにjourneyは主に陸上の旅であることが多いようです。人生は自らの足で歩むものであるという気持ちを込めて、walk it! というフレーズを取り上げました。

 

私は時々里山歩きをしています。滅多にないのですが、道のはっきりしている里山だけでなく道がないような里山も歩きます。山歩きに限らないのですが、旅をするときには一般的に地図とコンパスが必要です。人生においては常に新たな局面に出くわしますので、人生の旅は見知らぬ土地、見知らぬ山を歩くに似ています。地図とコンパスは必携です。山歩きを始める時によくいわれるのは、まず登山靴とレインウェアとリュックサックをそろえなさいということです。私のように低山里山しかほとんど歩かない人間でしたら、あまり高価な装備は必要ではありませんが、そうはいってもこの3つは必要です。これらは人生という旅においては最低限必要な日用必需品や住む家などにあたります。そして実際に山を歩くとなると、最近はスマホGPS機能を用いた登山用アプリがあるにしろ、私は地図とコンパスは活用していますし、それに行動食を含めた飲水、食事が必要です。登山口までは車で荷物を運べますが、登山をする際には必要な荷物はすべて自分で背負います。必要なものはリュックサックに入れますが、できるだけ荷物が軽くなるように皆心がけています。人生という旅においても、自分で背負えるだけの荷物=客観的な欲望がどれくらいなのかに配慮しなければなりません。

 

さて、人生という旅においては地図とコンパスと食料が必要です。つまり今自分がどこにいるかを理解していなければなりません。自分がどちらに進むのかを理解しておかなければなりません。人生を歩んでいくのに必要なエネルギーを得なければなりません。今自分がどこにいるかを知る地図とは何でしょうか?人は今自分が人生のどういう段階にいるかをどうやって知るのでしょうか?また人生の目的とは何かとしばしば問題になりますが、どちらに進めばいいか人はわかっているのでしょうか?人生を前進していくためのエネルギーとして何が必要なのでしょうか?これらの問いに対して各人が自らの回答を持っていなければなりません。私は私なりの地図やコンパス、食料を携えており、今日はそれについて書いておきましょう。

 

まず地図です。自分がどういう状況に置かれているのかをどのように理解しているかです。私の場合は簡単です。御名を唱えるのです。私の素朴な信仰として御名を唱えれば状況は勝手に整うと思っています。毎晩寝付く前に御名を唱えています。目が覚めて起きた時には、課題を含めて適切な明日が準備されていると考えています。朝起きた時の感情や問題意識、客観的な社会環境で自分が今どこにいるかを把握します。

 

次にコンパスです。状況や課題が与えられた時、その中でどういう方向に歩んでいけばいいかです。本当にどうしていいかわからないときは祈りを通じて愛する神仏に問いかけもしますが、愛が促す方向に歩むのが間違いないと思います。山の中で道や方向がわからない時にコンパスを確認するのに似て、大ざぱな方向はそれでわかります。しかし人によっては愛というものがよくわからないこともあるでしょう。私にとって愛とは自分を四六時中支えているもののことでもあります。

 

最後に食料です。山歩きではシャリバテ、つまり食事によるエネルギーが欠けているとバテて歩けなくなります。人生においても疲労に襲われると歩けなくなるものです。そういう時に人に勇気を与え、人生を一歩ずつ歩ませてくれるものは何でしょうか? 私の場合は師の教えに従うことです。例えば人に優しく話しなさいとか、時間を有効に活用しなさいとか、そういうものがちょっとしたきっかけとなります。それは勇気とテクニックを与えてくれます。師の教えに従っていると、人生を歩んでいる実感が得られます。私は普段食事に関しては同じようなものを食べることが多く、そして従う師の教えも似たようなものがほとんどです。でも私はそれで構いません。心がけているのは教えを実行する際の誠実さです。

 

歩行禅について以前書いたことがあると思いますが、歩くことは人の精神にも肉体にもいい影響を与えます。そして人生も急ぎすぎず自らの足で歩むようにゆっくり着実に進むのが、体や心に課題な負荷がかからず、また魂を深めてくれると思っています。人生の旅を新幹線や飛行機で急ぎたくなる人もいるでしょうが、私は徒歩の旅をお勧めます。そもそも山だと徒歩でしか歩けませんけれども。

今年の目標

 

2022年が始まりました。もう今日は11日ですが、まだ年が明けた余韻を感じています。新しい年が皆さまに健康と平安と幸福をもたらしますように。ある程度の年齢になると一年一年が勝負の年になります。一年を無駄にすれば敗北ですし、一年を有意義に過ごすことができればそれは勝利です。人生の残り時間が刻一刻と減っていくと、I am now dying.(私は今死につつある。)という言葉が真実味を帯びてきます。100%時間を活用しきればそれに越したことはありませんが、可能な限り活きた時間を過ごしたいものです。私にとって活きた時間とは愛する神仏を思いつつ過ごす時間のことです。

 

今年も目標を立てました。目標というより今年のテーマです。それは「サーダナクシェートラ」です。サーダナとは霊性修行のことで例えば唱名や瞑想、捧げものとしての奉仕(義務、行為)などのことです。クシェートラは土地、場所、聖地などの意味です。つまりサーダナクシェートラとはサーダナ(霊性修行)を行うクシェートラ(場所)のことです。何がいいたいかといいますと、あらゆる活動の場をサーダナ(霊性修行)の場と意識して過ごしたいということです。これが今年の目標です。

 

私の家の敷地はまあ広いのですが、寒い今の時期は別として暖かくなると草ボウボウになります。そこで定期的に草取りをしなければなりません。私はできるだけ除草剤を使いたくないので、その手間はかなりのものです。暖かい時期は草を抜いても抜いても、少しすると次から次へと生えてきます。今は亡き父は「草が生えたらまた抜けばいい」といっていました。当たり前のことですが、これは心に悪い思いが湧いてきたらその都度抜いていけばいいということも示唆しています。つまり私にとっては草を抜くことは、自分の心の悪い思いを絶えずチェックして取り除くことでもあるのです。単なる草取り、多大なる労力を要する草取りがサーダナになります。

 

部屋の状況はそこに住む人の心のあり様を示しているという人がいます。ならば、部屋を片付け掃除をすることも心の中を片付け、整理、掃除することになります。これもサーダナです。

 

子どもにとってはお小遣いで与えられるお金は親の血のように貴重なものだという人がいます。お金を大切にすることは親の血の一滴一滴を大切にすることであると受け取り、しっかり識別してお金を使うことはサーダナです。血液が循環しなければ身体が病気になるように、お金が適切に循環しなければ社会は病むといいます。このことを踏まえて、適切な領域で奉仕としてお金を用いることもサーダナです。

 

職場などでの仕事も給料に見合った仕事をすることは適切な部類のサーダナです。

 

もちろん瞑想や可能な限り愛する神仏の御名を思い唱え続けることもサーダナです。日常の礼拝もサーダナです。お寺参りや教会、神社などへ足を運ぶこともサーダナです。

 

街頭やショッピングセンターでもサーダナはできます。私の師は街頭に立ってそこで神を見なさいといいました。街頭で目の前を人が通り過ぎていきます。さまざまな建物や機器があります。それらを目の前にしてそこで神を見る努力をすること、これもサーダナです。

 

内在者が適切に活動できるように身体と心をいい状態に保つこと、つまり健康に配慮することもサーダナです。

 

このように考えていけば、態度次第で24時間がサーダナとなります。つまりどこにいてもサーダナはできますし、これが「サーダナクシェートラ」という言葉で実現したいことです。人生はサーダナであると受け取ることは、人生の目的を達成するのに必要な考え方です。サーダナの目的は心の浄化であり、心の浄化とはエゴの痕跡をなくすことであり、これは人生の目的に直結します。ふとした時に時間があれば、そこはサーダナクシェートラだと考えて今年は過ごすように努めたいです。

一年を振り返って

 

この記事が公開される28日を含め今年は残り4日となります。年末も押し迫ってきました。これが今年最後の記事になりますので、一年を振り返ってみたいと思います。

 

今年のテーマは、-「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置く-でした。そしてサブテーマは「自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。」でした。正直にいいますと、どちらの目標も中途半端な状況に終わりました。本来片付けておきたかったことを片付けることが第一に取り組むべきことだったのですが(詳しいことは今年最初の記事をご覧ください)、それが果たせませんでした。他人の事情が関わってくることだったので仕方ない面はあり、私がどうのこうのできる範囲を超えていました。そして一年中このことが頭の中にありました。この一年の目標達成度は75点というところでしょうか? 

 

掲げたテーマから離れて今年を振り返ってみますと、日々の行為を毎日毎晩捧げてきたので、特に記憶に残ることはあまりなく、しかしながら夏の豪雨の影響を今年は受け、それに関連することであたふたしたことが最も大きな記憶として残っています。記憶に残るほど大変だった分、今年最も大きな学びもその時の経験になるでしょう。つまり今年は神仏から程々のテストを受けた年でありました。なんとか及第点は取れたかもしれませんが、後の人生につながるものとして活かしていきたいです。

 

年を取ると時間がすぎるのが早くなるといわれます。確かに小学生時分に比べるとそうなのですが、20数年前と比べるとそれほど時間が経つのが早くなっているわけではありません。私は比較して経済的、体力的、社会的に恵まれていないので、若い頃より苦労が減っているわけでなく、その大変な分時間が有効に活用されているからかもしれません。これから先数年間もあまり楽ができそうではありません。充実しているといえば充実していますが、大変といえば大変な人生です。

 

私の人生の最も大きな転機は1991年でした。そして2000年前後も転機でした。50を過ぎた今、生活の有りようをガラッと変えてもいいかなと思うことはあり、少しずつ舵を切っていきたいところです。後30年人生が与えられているとして、自分が取り組みたいと思う課題を3つに絞り込めてきました。課題を絞り込めてきたことは今年の成果の一つです。どれも世間的には地味な課題なのですが、自分にとっては挑戦しがいのあることです。

 

今年一年、少しでも私のブログを見てくださった方には感謝しています。ありがとうございます。ブログを書くことで自分の思考が整理され、また表現してみて初めて自分で気づくこともあります。皆様がよき年末年始を迎えられ、また新たに人生に向かっていかれますことを願っています。皆様とご家族が平安で幸せでありますように。次回のブログは少し先になりますが1月11日を予定しています。それでは。

神が働く

 

今日も先週、先々週に引き続きNine Gems(手紙集)の中から心に訴えかける言葉を取り上げたいと思います。

 

Let God work through you, and there will be no more duty.
(神があなたを通じて働くに任せなさい、そうであればそれ以上に義務はありません。)

 

これも言うは易く行うは難しの言葉、理想です。人間の体は動いています。眠っているときにすら寝返りを打ったり、呼吸しています。意識的に行っていることもあれば意識せずに行っていることもあります。神が「私」を通じて働くとはどういうことなのか? 私が日常的に行っている食事や歩行、洗面や仕事、お茶を飲むことなどは一体誰が行っているのか? 自分がしているのではないかとつい思ってしまうでしょう。私は意志が弱い人間と思いますが、それでも何らかの過失で他人に損害を与えたときは、私がその責任を追わなければならないと理解しています。

 

しかしながら少し考えたのですが、例えば次のように考えることもできます。私が日常的に光明瞑想をしていることはこのブログで何度も取り上げましたが、光明瞑想は光を自分の体の各部、そして関わる人たちやすべての存在を光で満たしていき、最後に私が光であり光が私であることを瞑想し、静かな状態でいることです。私の存在すべて、つまり体と心と魂とがすべて光で満たされているならば、自らの存在に闇がないならば、それは神が自分を通じて働いているとみなせないことはないと。光は神なのですから、闇=エゴの余地がないのですから。電化製品に電流が流れれば機能しだすように、自らの全存在が光で満たされているならば、それは光=神によって自らが機能しているとみなすことはできます。

 

このような観点から自分の日常的な行為を観察していると、神が働くといっても特別奇跡的なことや卓越したことを行っているようでもないということに気づきます。少しばかり躊躇するようなことであっても、どこかで踏ん切りをつけて判断を下しています。「私は神である」と見ず知らずの人に向かって主張はしないものの、エゴによって動いているのとも異なります。there will be no more duty. とあるように、ある意味義務的なことが大半であるように見受けられます。少しばかり手を抜いてしまったり、サボってしまいそうなことも、怠けずに行為するよう駆り立てられている気がしなくもありませんが。ありふれた特に難しくもない義務に関しては淡々とこなすことはできるにしろ、たまに決断に困るような難しい局面に出くわすこともあるでしょう。そうした場合には、「光」を選ぶ選択をしなければなりません。

 

真宗には往相回向還相回向があります。真宗においては回向は人がするものでなく、阿弥陀様が人に対してするものです。阿弥陀様が信心を与えてくださるのが往相回向だと受け取っていいでしょう。還相回向についてはあまり語られるのを聞いたことはありませんが、私の勝手な解釈では阿弥陀様が自らを通じて働くに任せること、つまりLet God work through you.に重なります。つまりLet God work through you. は私の宗教の実践上の課題といえます。そしてまさに阿弥陀様=不可思議光仏は光の仏様でもありました。真宗に教義においては、往相回向の後に還相回向があるので、信心を与えられた人こそが阿弥陀様に人生を委ねることができます。これがかねがねいっている帰依=帰命というものです。命がそこに帰すのです。

 

人間にとっての義務がこれだけなら、他のことを思い煩わずにすみ、委ね切ることの困難さはあるものの人生がずいぶんシンプルになります。私には非常に魅力的な御教えであるといえます。繰り返しますが、言うは易く行うは難しですが。

バターとバターミルク

 

今日も先週に引き続きNine Gems(手紙集)の中から心に訴えかける言葉を取り上げたいと思います。

 

Out of long churning (of) this milk of the world comes butter and the butter is ... GOD. Men of heart get the butter, and the buttermilk is left for the intellectual.
(世界というこのミルクを長い間かき混ぜているとバターが生じます。そしてそのバターこそが神です。ハート(心)の人はバターを得、(途中の過程で得られた)バターミルクは知的な人たちへ差し出されます。)

 

is left forを上のように受け取ったのですが、正直いいますと誤解しているかもしれません。間違いがある場合、以後の考察全体に影響が出てきますが、どうぞお許しください。

 

私はバターを実際に作ったことはありません。しかしヨーグルトは作ったことがあって、ヨーグルトの場合ヨーグルトと半透明の液体ができることは知っています。バターも似ていて、生クリームを撹拌するとバターとバターミルクができるようです。生クリームがバターと液体のバターミルクに分離するということです。生クリームはバターとバターミルクに分離しますが、バターとバターミルクから生クリームはできません。

 

「私たちが生きているこの世界をかき混ぜる」をどのように受け取るかが第一の問題ですが、私は「ハート(心)を開いて一生懸命この世界で生きていくこと」と理解しています。自らのハートを開かなければこの世界で生きることの意味はかなり減少するでしょうが、それが非常に大変であることも私は理解しています。愛がそれを支えてくれます。心(ハート)を開いて長い間生きているとバターが生じるとあります。私は自分なりに心(ハート)を開いて50年以上生きてきましたが、その私の実感としては、自らの身体を貫通して「存在そのもの」がそこに常にあるのを感じています。この存在を自分といってもいいのかもしれませんが、上の引用した言葉の通りそれはGOD(神)と受け取ることも可能なのかもしれません。自分と呼ぼうと神と呼ぼうとどちらでもいいのですが、存在が確かにあるのは感じています。これは私が懸命に生きてきて生じたバターの可能性はあると思います。「ハート(心)の人はバターを得」というのは心を開いて生きている人はバターを得ると理解できるでしょうし、あるいは愛や慈悲や共感に生きる人はバターを得ると理解することもできるでしょう。バターミルクはバター以外の得たものすべてと理解しています。

 

バターミルクにも栄養があるので捨ててはなりませんが、バターミルクはバターを作る過程で余分に生じたものです。大切なのは第一にバターです。バターが神であるならば、他のものは一切必要ないものといって差し支えありません。そしてバター以外の一切のものは知的な人たちへと差し出されます。宗教を語る学者には宗教的ではなく知的な人が多いのですが、彼らは例えばお釈迦様が残された聖典やイエス様の残された聖書などを知性の対象として研究します。しかしお釈迦様やイエス様方がどういう状態でいたのかについては無知です。バターミルクしか手にしていない知的な人たちはバターを知りません。バターを得た聖者方とバターミルクしか手にしていない学者との距離は非常に大きいといえます。人は聖者方の体験(バター)を手に入れようとするべきで、単に聖典バターミルク)を研究するだけでは不十分です。

 

この世に生きる人のすべてはバターを得る資格があるでしょうし、それが実際に可能であろうと思われます。

 

マントラプシパンというヴェーダの一節に次のようなものがあります。
ヨ-パーン プシパン ヴェーダ プシパヴァーン プラジャーヴァーン パシュマーン バヴァティ
チャンドラマー ヴァー アパーン プシパーン プシパヴァーン プラジャーヴァーン パシュマーン バヴァティ
(水と花を知るとき、ハートは花開き、子孫と家畜に恵まれる。
月と水と花を知るとき、ハートは花開き、子孫と家畜に恵まれる。)

 

アーパは水で愛を意味しているとされます。プシパンは花でハートを意味しているとされます。プラジャーは子孫でパシュは家畜で富を表します。チャンドラマーは月でマインド(頭)を表します。つまり「愛とハートを知る人のハートは開き、愛とハートに従って生きる人は子孫と富に恵まれる。頭と愛とハートを知る人のハートは開き、頭と愛とハートに従って生きる人は子孫と富に恵まれる。」と理解することができます。私が今ここで強調したいのは、頭(マインド、月)があろうとなかろうと、水と花つまり愛とハートさえあれば豊かな人生を送ることができるということです。バターという神を得るのに月(マインド、頭脳)は必要条件ではないということです。愛の人、ハートを開いて生きる人こそが人生を成就することができるということです。もちろん頭脳はないよりはあったほうがいいのかもしれませんが、それほどの重要性を与えないように気をつけたいものです。頭の活動が強すぎると、もしかしたらバターではなくバターミルクを求めてしまう恐れがあります。

 

頭がよかろうとあまり頭脳明晰でなくても、世の中には人がいい人というのは確かにいます。私自身もそういう人でありたいですし、関わるならそういう人と関わりをもちたいものです。それがいわゆるよき仲間(サットサング)といわれる人のことです。

ライオンを求めよ

 

以前似た言葉は目にしたことがあるのですが、最近おもしろい言葉に出会いました。次のような言葉です。
Aim at a lion and miss it rather than hunt a jackal and catch it.
(ライオンを目指してそれを取り逃がすことの方が、ジャッカルを追ってそれを捕まえるより(好ましい))
こちらのページにあるAssert your God-headという手紙の中の言葉です。

http://www.sathyasai.or.jp/mmg_cnt/202112/nine-gems-part-2.pdf

 

これは人によって受け取り方はさまざまかもしれません。要点としては、目標を高くもてというようなことです。ライオンは百獣の王であり、ジャッカルよりもライオンを手にすることを目指しなさいということです。

 

思いつくところでは、例えばライオンはアートマの知識であり、ジャッカルは世間に流布する一般的な知識と受け取ることができます。アートマの知識すなわち真の自己に関する知識は獲得するのがなかなか困難を極めるものであって、それを真摯に求めたとしても獲得できないことはあります。しかしながら、アートマの知識を求めてそれを得られないことの方が、世間にありふれる、そう例えばテレビで解説されるような知識を理解するよりも遥かに好ましいといえます。日本人の99%はアートマの知識といってもその言葉にほとんど馴染みがないでしょう。ましてやそれを求めようとする人はごくごく限られた人です。一方テレビを見るのが習慣の人は山のようにいます。ライオンが百獣の王であるように、アートマの知識は知識の中の王のようなものですが、求めてそれが得られないとしても、それを求める人の方が祝福されていると私は思います。

 

あるいは次のような例えはどうでしょうか? ある宗教の熱心な信者がいるといます。今クリスチャンとしましょう。キリスト教には「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」や「汝の敵を愛せよ」というような御教えがあります。解釈はさまざまあるようですが、普通の人にはなかなかできない御教えだと思います。イエス様を信じる人の中にこれを真摯に実践に移す人もいるでしょうが、最初から無理だと諦める人もいるでしょう。私はクリスチャンでないのでわからないのですが、これらの御教えに真摯に従った人にしか達し得ない境地というものがあるかもしれません。しかし一生懸命実践しようと心がけたにしても、途中で何度も挫折した人はこれまた多いことでしょう。これに比べたらクリスマスの晩にごちそうを買ってきて愉快にお祝いすることはジャッカルを追うようなものです。一方イエス様の御教えに、それがどれほど困難であってもなんとか御教えに真摯に従おうとすることはライオンを目指すに似ています。

 

次のような例えもできます。人生の目的として解脱あるいは束縛からの解放を目指して努力することがライオンを目指すことに似ていれば、少しばかりの富や地位を求めて努力することはジャッカルを追うに似ています。そもそも解脱というものがどういうものか容易にわかりかねるものを求めようとする人が日本にどれだけいるかということです。日本には何万とお寺があり、住職もそれに近い数だけいるでしょうが、私は解脱を目指していると嘘偽りなく宣言できる人は多分少数でしょう。実際のところ夕方になるとテレビの前に座って晩酌を始める住職のほうが多いのではないかと私は少しうがった見方をしています。

 

私個人のことを少し書いておきましょう。私は大学に進学する頃、「科学をぶっ潰したい」というような思いを抱いていました。その意図するところは、科学のせいでさまざまに自然環境が汚染されていたり、さまざまな武器がつくられたり、さまざまに機器がつくられて生活が人工的になっているのがどうにも気に食わなかったのです。それは(自然)科学に対する盲目的な信仰のためであって、そのような盲目的な信仰を世界が改めるようになってほしいというような気持ちでした。私の見るところ、(自然)科学への盲目的な信仰は科学の言語である数学に対する無知が原因でした。世界中の科学者が数学という言語に関してまったくといっていいほど批判精神をもっていないことが信じられませんでした。なので私は数学を学びつつも、数学史や科学哲学なども学び、詳しいことは書きませんが、私は学生の時にこの数学というものに対する見方の革命的変化に立ち会うことができました。当時はごく少数の方としか共有できませんでしたが、その時の変化は30年後の今の世界に広がってきているのを感じています。求めれば得られる可能性は上がるということです。

 

若い人には目標を高くもってほしいと思います。ちょっとニュースを見れば、日本人で宇宙デブリ(ゴミ)の回収を計画している企業体があったりします。汚染された海の浄化に取り組もうとしている人たちもいます。自然科学の分野でなくても、たとえば今の日本で成長と発展の肯定的なサイクルを生み出そうとするような試みも大きなチャレンジです。貧困者や自殺者を可能な限り減らそうとする人たちも大きな目標を掲げています。社会科学の分野だけでなく、人文科学の分野にも大きなチャレンジはあるでしょう。それらの高い目標は達成されない可能性はありますが、しかしほんの少し努力して得られる目標を簡単に得るよりも、大きな目標、理想を追う方が望ましいように私は思います。

 

低い目標は罪であるといいます。私は50を過ぎて残りの人生は少しずつ減ってきていますが、それでも自分なりに可能だろうかという目標は胸にしまっています。仮にそれが達成できないにしても、高い目標があれば人生をずっと前向きに歩み続けることができます。

霊的学習の方法

 

私はこのブログで霊性に関する事柄を取り上げています。広く宗教や哲学を含めた場合、そういうものにあまり馴染みのない人にとってはどういうふうにそれらを学習していけばいいのかわからないこともあるでしょう。学習の方法はいくつかあるのでしょうが、今日は私が馴染んでいる方法を紹介します。

 

私はもう30年近く霊性に関して学び続けているので少しばかりは蓄積があり、その蓄積をもとにある程度自己学習ができます。自分で霊的文献、宗教文献を読んで理解できるようになると、それが自己流であったとしても楽しいものです。他の分野にはない独特のおもしろさがあります。そういうおもしろさを体験したことのある人は、学習を継続していくことでより学びを深めることができるでしょう。しかし一人で学ぶのが少し苦手な人や、一人で学ぶための基礎を固める必要のある人は、グループ学習が役に立ちます。

 

グループ学習の方法について私が知っていることを書いておきましょう。参考文献として『スタディーサークルガイド』を挙げておきます。私は一つしか方法を知りませんが、この本にはいろいろな手法が書かれています。

 

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本の学校で学んできた人には、物事には一つの正解があると思いこんでいる人が多いでしょう。しかし霊的な場では正解は人の数だけあります。つまり霊性に関することはその人の人生と不可分であって、人の人生が他人の人生と異なるがゆえに自分なりの回答を得るように努めなければならないということです。ところが、正解は一つだという刷り込みがあまりにも強すぎるので、霊性に関することに関して思考の迷宮に入り込んでしまう人が多くいます。自分が正しいことをいっているつもりで人にやたら説教をする人がいますが、そういう人もある種同じ病にかかっていることが多いものです。霊性は自分の人生に関係することで、人それぞれ人生は異なるのですから自分の納得を大切にすべきだと、私は思うわけです。少なくとも私はそうしてきて、今の自分があります。

 

あるトピックに関する文章があるとします。まずはそれを読みます。何がトピックでありそのトピックに関して何が述べられているかを理解します。そしてそれが自分の人生とどう関わりがあるかを考えます。5分でも10分でもある程度思考が整理されるまで考えます。場合によっては、いくら考えても理解できないことがあるでしょうが、それはそれで構いません。まずはわからないということも含めて、ある程度思考が整理されるまで考えます。そしてある程度そのトピックに関する自分なりの見解がまとまれば、それが第1段階です。一人で学習している際は一旦ここで終わります。

 

グループで学習している際、それが数人であったり、10人程度であったり、あるいは100人を超える人数の場合もあります。10人程度以下ならば、コーディネーターのもとに、各人がそのトピックに関する自身の見解を述べていきます。10人人がいれば見解は本当にさまざまです。これだけといえばこれだけなのですが、しかしながらこれだけではうまくいかないことが多く、ここでコーディネーターの役割が重要になります。各人が自分の見解を述べている際、コーディネーターは一人ひとりが述べるその見解を注意して聞きます。それがそこにいる参加者皆にとって十分にわかりやすければ何もしなくてもいいのですが、もし聞く人によっては誤解が生じそうな場合は、適切な質問やコメントによって発言者の意図がそこにいる参加者に理解されるように努めます。こうすることで、各人の見解は本人だけでなく参加者全員に理解されます。これで十分です。参加者は、一つのトピックに対して多くの人がさまざまな見解を抱いていることを理解し、しかもその見解の内容自体も理解します。それによって、自らの見解に幅と深みが出てきます。他の人の意見が刺激になりはしますが、大切なのはあくまでも自身の見解です。これが第2段階です。付け加えておきますが、トピックによっては自身の見解をまとめることができない人がいて、そういう人がいた場合にコーディネーターは適切な質問やコメントによってその人が自らの見解を得るのを助けることはできます。

 

非常に人が多くて全員が見解を述べることができない場合にも学習はできます。前提として各人がトピックに関する見解をもっているのが好ましいのは変わりません。たとえば100人で勉強会をする場合、数人が代表して見解を述べたり、彼・彼女らが意見交換をするのを他の人が観察することで、一つのトピックに関して多面的な見解が存在することを理解し、それを通じて自らの見解を深めます。この場合もコーディネーターには代表して見解を述べる数人の人の意見がそこにいる多くの人に理解されるよう適切に関与することが求められます。

 

第3段階は自己学習あるいはグループ学習で得られた自らの見解を自身の人生、生活において実践することです。この実践がなければすべての学習は無意味なものとなります。時間の無駄です。食物は食べて初めて体に力を与えるように、霊性においては学びを実践して初めて生活の力となります。本当にゆっくりではありますが、人間性が向上し人生に深みと味わいが出てきます。

 

人生は生まれたときから始まっているのですから、幼いとき若いときは手法に工夫がいるとしても、霊的学習は若い頃から始めるべきです。私は幸いにも20代の半ばから学びを開始することができて、日本人としては恵まれていたと思います。今も日々学んでいます。私の場合は今一人で学んでいますが、人の書いたさまざまな体験談や霊的トピックに関する話を聞いたり読むことを通じて他者の見解に触れています。私はこのブログで毎週何らかのトピックについて触れていますが、このブログを読んでくださる方にとっては他人の見解に触れる機会になっていることと思います。大切なのは各人自身の人生です。自分なりの理解、見解が大切であって、それを人生に取り入れるきっかけになれば学習は学習の名に値したといえます。他の人の意見はあくまでも参考でいいのです。