両親を亡くして

 

あまりプライベートなことを書く必要はないのですが、一つの区切りに頭をよぎるいくつかのことを書き残しておきたいと思います。私の母は12年前に亡くなり、父は2年前に亡くなりました。私の親は二人ともこの世にいなくなりました。もしかしたら母は生まれ変わってどこかにいる可能性がありますが、そうであったとしても私には確認できないことです。親との関係は人それぞれでしょう。良好な関係である人もいれば、多少なりとも不仲である場合もあります。しかしながらいま両親がいない身となってみれば、親がいい人であるとかあるいはそうでなくとも、親の存在というものは大きいのではないかと思います。母親が亡くなったときにはまだ父がいましたけれども、父がいなくなった今となってしまえば、何というか子である私を雨風から守っていた屋根がなくなったような気がします。親がどのくらい意識していたかはわかりませんが、親は自らの背に重荷を背負い、子の負担を担ってくれていたのは間違いありません。親が亡くなってみれば、親が背負っていたものを自分で背負わなくてはならなくなります。何かそういうものを感じるわけです。

 

子が幼い時に亡くなる親もいて、それに比べれば私の親は私がある程度の年になるまで生きていてくれたので感謝しています。今のような長寿の時代では子が70を過ぎても親が健在なことはあるでしょう。場合によっては子が70を過ぎて死にそうなのに親は元気であることすらあるでしょう。私はほぼ平均的な年齢で親を亡くしました。こういうことをいうのはどうかと思いますが、親より早死することがなく、親を見送ることができただけでも恵まれていたと思います。両親ともにほぼ家で最期を迎えることができ、親の希望に近い形でした。

 

母を見送り、そして父を見送って2年。少しばかり遺産や遺品の整理をし、気持ちも落ち着きを取り戻してきました。「親が死んで3年間は家の風(ふう)を変えるな」と世間でいっているのを私は聞いたことがありますが、親がいるといないとで多少なりとも気の使いようが違い、自分のやり方で何かを行うことはあるにせよ、遺産や遺品の整理をある程度してしまわない内は、家の風(ふう)を変えようという気持ちはわいてきません。多分多くの人がそうなのではないかと思います。人によっては親が亡くなって10年も20年も遺産や遺品の整理に手が付かない人がいるでしょうが、やはり親の存在が大きかったのです(長年連れ添った配偶者の死でもそうかも知れません)。

 

少し前になりますが、気になる文章に出くわしました。

 

Every human being has two bodies: one's own and that of the progeny. The duties of study, teaching, repetition of the name - these assigned tasks are handed down by parent to child at the time of death, and they are carried on by the child as the representative of the parent and on their behalf.(Upanishad Vahini p46)
(すべての人間には2つの体があります。その人自身の体と子孫の体です。学習、教え、御名を繰り返すという義務、これらの割り当てられた仕事は両親から子どもへと死の時に手渡されます。そして子によって親を表すもの、そして代わりとして引き受けられます。)(英語の訳が拙いのは許してください)

 

この文章によれば、私は親の背負っていた義務を親の死の際に引き継いだわけです。私個人の問題なのか、あるいは世間一般でもそうなのかはわかりませんが、親がやり残したことをやってしまわなければならないというような、親の仕事を引き継ぐ感覚が私にはありました。ある種親のカルマを引き継いだわけです。なので自分の人生の重みに加え、それとは別のものを身に引き受けたような感覚が確かにあります。実際、私の祖父母が亡くなった後で、母親も父親も大変な目にあいました。たまたまなのかもしれません。私も両親が共にいなくなって少しばかり大変です。私には妹がいますが、妹の様子を見るに妹も妹なりに大変な目にあっています。私の家族の問題なのであって一般化は必ずしもできないにしろ、他の方の意見を少し聞いてみたい気がします。両親ともに亡くなった後、大変ではなかったかと。

 

あの世にいる人は、この世に生きている時に親しかった人の肉体を通じてこの世界を体験していると、本当かどうかわかりませんが、そういうことも聞いたことがあります。ならば私の親も私や妹の人生をあの世からのぞいているのかもしれません。私はついそういうことを考えてしまいますので、親が亡くなってもすぐそばにいるような気がしており、その意味では寂しさというものは少ないです。

 

今日は親の死に関連して、私の死生観の一端を書いてみました。私のような死生観の人は少ないかもしれませんが、もしかしたらそれなりに多いかもしれません。それはそうと、この記事が公開される11月23日は私が大きな影響を受けたサティヤ・サイババがこの世に来られた日です。1926年のことですから、もう満95年になります。私はサティヤ・サイババがいてくださったおかげで、困難ではあっても幸せな人生を歩むことができ、大きな感謝の念を抱いています。気持ちを新たにこれからも歩んでいきたいと思っています。

神々とブラフマン(あるいはGod)

 

今日はさまざまな神々とブラフマンあるいはGodとされるものについて書きます。今さまざまな神々という言葉で表したいのは、多神教であるインドでしたらインドラ神、ガネーシャ神、ラクシュミー女神などなどのそういう神々のことです。個人的には仏教でいうところの阿弥陀仏や諸菩薩なども含んでいいと思っています。一神教ですとこういう神々は少なくとも建前上いないはずです。多神教的な要素のあるヒンズー教や仏教、あるいは神道も含めていいと思いますが、そういう宗教における神々の考察です。ただ私に十分な理解が備わっているわけではありませんので、あくまでも現時点での私の小さな思考の跡といっていいくらいのものです。

 

私には一神教的な要素があります。基本的にすべては一つであり、神も一つであり、その一つのものをブラフマンといったりGod(神)と呼んで、それを普通に受け入れることのできる人間です。しかしながら一つのものをさまざまな名で呼ぶことができるのもまた真実です。地球には海は唯一つしかありません。しかしその一つの海が太平洋と呼ばれたり、インド洋と呼ばれたり、北極海と呼ばれたり、瀬戸内海と呼ばれたりします。海には無数の名があります。それと同じように、一つであるところのブラフマンあるいはGod(神)がガネーシャ神、ヴィシュヌ神阿弥陀仏、アマテラスなどと呼ばれていると誰かが主張しても私は受け入れることができます。人にはそれぞれ好みの名があり、その好みに他人が口出しする必要なまったくないからです。

 

しかしながらもう少し詳しく書いてみましょう。インドではインドラやヴァーユ、アグニなどの神々は役割であるとの説があります。たとえば日本には総理大臣や外務大臣文部科学大臣などの役職があり、役職をいろいろな人が交代で務めています。それと同じように、インドラやヴァーユという役割を人間の魂のようなものが交代で務めているという説があります。実際のところ、インドラの役割を担うよりも人間として生まれることのほうが尊いという意見があり、神々をそのように受け取ることもできます。

 

ヴェーダにはドゥルガースークタムやガネーシャアタルヴァシールシャムなどのように神々の特徴を記述するマントラがあります。私の理解では、それはブラフマンの性質のうちのごく一部を特徴的に備えているものに特定の神の名が与えられているような感じです。ブラフマンの性質の特定の一群はその神のある種キャラクターのようなものです。それに魂が宿ることでその神が機能するということもあるでしょう。あるいはブラフマンの性質の特定の一群というもの自体が魂のようなもので、それにブラフマンが浸透して機能しているのかもしれません。人間がアートマであるように、神々もアートマであるわけです。なので、私からすると、ブラフマンと人間はかなり異なりますが、人間と神々は意外に近い存在です。

 

神々の実体がどのようなものであるかは別として、とにかく人は自分の好む名と姿の神を崇めます。女神様を愛する人もいれば、太陽神を愛する人もいます。仏教ですと観音様を愛する人もいれば、大日如来愛する人もいます。人が自らが愛し崇拝する対象に祈りを捧げ、崇めるならば、私はその思い自体が崇拝の対象を形作るとさえ思っています。ガネーシャというのは一つの「箱」で人々がガネーシャ神を崇めるその思いはガネーシャ神を満たし、ガネーシャ神が確かに生きたものとなる。そしてガネーシャ神はその特性に従って機能し人間に恩寵を授ける。人間と神々は支え合っているといえます。話が少し世俗的になりますが、それは現世においてブランドが機能するのに似ています。私たちが買う商品の特性を知らずとも、有名ブランドのものは確かなものであると思い、ブランド品はよく売れますが、それは多くの人がそれをブランドとして理解しているからです。その意味で私たちの思いは神々ですら創造するといえるのかもしれません。

 

しかしブラフマンあるいはGod(神)と呼ばれるものはそれとは異なります。ブラフマンからしたら、人間という輪郭はないに等しいようなものです。ブラフマンからすれば人間こそが創造されたものです。これは私が唯一なる者の存在を容易に信じることができるから主張できることです。

 

以上の考えにも関わらず、私は神々を崇拝することとブラフマンを瞑想することにほとんど区別をつけません。何を愛し崇拝しようと、人間の思いに応じて人間はその応答を得ると思っているからです。瀬戸内海を大海だと思わなくても瀬戸内海は海の恵を与えてくれるでしょう。便宜的にブラフマンと神々を区別しましたが、大切なのは人間の真摯な思いです。哲学者は神々とブラフマンあるいはGod(神)を区別して論じてもいいでしょうが、私はそれほどの重要性を感じていないのが正直なところです。

個我と神我

 

個我、神我と「我」という字を用いていますが、エゴのことを取り上げるのではありません。私が読む文献においてジヴァアートマを個我、パラマートマを神我と訳していることが多いので個我、神我という日本語を用いるだけです。アートマは真我selfのことですが、今までこのブログで私がアートマという言葉を用いる際神我(パラマートマ)の意味で用いてきたつもりです。一方先週魂について少し触れましたが、この魂は個我(ジヴァアートマ)といっていいものです。ジヴァアートマ個我はそれ以上分割できない単位としての人間存在individualを指し示す言葉です。一方パラマートマ神我を私はブラフマンと同じ意味で受け取っています。

 

結論からいうと、私の見解としては個我ジヴァアートマ=個人の魂=輪廻するものとは、魂にアートマが浸透しているものです。魂ですらアートマが浸透していなければ物体のように不活性なのではないかと思っています。魂+アートマ=ジヴァアートマです。私が普段用いるアートマはパラマートマ=ブラフマンを意味しているつもりで、これは全宇宙に浸透していて、更にそれを超越するものです。それ以上のことは私の理解の限界を超えています。

 

先週鏡としてのこの世界に映った自己像を魂として考えました。鏡に映るものとして、一般に考えられている人間存在以上のものが考慮されえますが、有名なヴェーダマントラであるナカルマナーには次のような詩節があります。

 

ダフラム ヴィパーパム パラメーシマブータム ヤト プンダリーカム プラ マドヤ サグスタム
(肉体という砦の中に、非常に小さな、非の打ち所のない至高の真我の住まいがある。あたかも都市の中心部にある宮殿(プラ マドヤ サグスタム)のような、心の蓮華の中に真我は宿る。)

 

ここに「都市の中心部にある宮殿」という言葉が出てきます。人間の魂というのは、私は思うのですが、単なる人間を超え、社会や世界を包摂した社会像、世界像なのではないかと。上のマントラでは都市の中の宮殿という表現がされていますが、魂とはそういうものであろうかと想像します。少なくとも私の実感としてはそういうところはあります。そしてそのなかに真我(アートマ)はあるとされます。本来好ましくないことではあるのですが、瞑想中に湧き上がってくる思いにはさまざまなものがあります。それは例えてみれば、ゴミで汚れた都市のようなものであり、一方邪念を含め想念がない瞑想はきれいに掃除された都市のようなものでしょう。私は光明瞑想というものを日常的に行っており、毎日ハートに光を迎え入れ、そこで蓮華が開花する様子を思い浮かべていますので、上のマントラの詩節は個人的にはかなり具体的な表現ではあります。

 

先週は魂ですら幻であると述べましたが、人はある時を境に自らを肉体と同一視しなくなり、また後に自らを心と同一視しなくなり、それと同じようにいつの日にか自らを魂と同一視しなくなる日がくるということです。行為の道は肉体と関係があり、帰依の道は心と関係があり、英知の道は魂と関係があり、行為-帰依-英知を超えたその先に無執着があるといいます。花は青い柿の実をつけ、青い柿は熟れて赤くなり、赤い柿は熟して枝から自然に落ちてしまうように、この無執着の境地は人間の成熟の後に自然の過程としてやってくるものなのでしょう。

 

今の時点で輪廻から解放された人がどういう状態なのかを推測するに、死と生の区別がない状態かもしれないなと思います。人間はいつの日にか肉体を脱ぎ捨てますが、その肉体を脱ぎ捨てる過程において動揺というものが一切なく、死の前後で何ものも変わらない状態。つまりNo birth, No deathの境地です。

3-1=1

 

一般的には3-1=2です。しかし3-1=1なる方程式が存在します。3つのものがあります。実体と鏡と鏡に写った映像の3つです。この3つの内鏡を取り去ると鏡に写った映像もなくなり、実体だけが残ります。それが3-1=1の意味です。この方程式はサイババが取り上げていました。

 

今私というものが何なのかはさておき、一つ私というものがあります。これが実体です。さて実体の前に鏡を置きます。今取り上げる鏡は朝晩に顔をのぞき込む鏡のことではありません。銀箔の上にガラスを置いた鏡は肉体を映し出すだけです。肉体だけではなく心や魂も映し出す鏡を考えます。それはこの世界です。もう少し具体的にいえば、感覚されるもののことです。目で見えるもの、耳で聞くことのできるもの、触れることのできるもの、匂い、味覚です。それにさらに付け加えれば仏教では以上の五感に加えて心を加えて六識といいますので、心の痛みや喜びも含めることもできます。つまりこれらすべての感覚されるものが鏡です。

 

目で何かを見ます。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。耳で何かを聞きます。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。私たちは心と体で何かを体験します。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。感覚されたものに対してその反映、反響、反動はこの世界=感覚されるものに映し出された「私」です。この世界に生きる私たちは四方八方を鏡で覆われた部屋にいるといえます。ある種の動物や鳥は全面鏡で覆われた部屋に入れられると、自らの姿を見て攻撃を始めるといいます。人間の中にもこの世界でやたら攻撃的な人はいます。あるいは全面鏡で覆われた人の中には落ち着きを失ってしまう人もいるでしょう。あるいはそれがすべて単なる映像だと知って穏やかな人もいます。

 

私たちは生まれたとき、つまりこの世に放り込まれた瞬間から心が活動し始めます。この世界を見て(知覚して)心はそれに反応し、心は何物かを作り続けます。たとえば科学というものは、何かを見て想像力が喚起されてその想像の領域を数式や論理で補強したものが基盤です。誰かと付き合います。長年付き合えば、その人はこういう人だというその人の像ができあがります。家事を長年やっていると、手を抜いていい部分ときちんとしておきたい部分を分けて対処することがあります。その人なりの「家事」ができあがります。私の見解では、このようにこの世界を見て(知覚して)心は自らにとっての存在(existence)を作り上げます。「私」というものが鏡なるこの世界に映し出され、映し出されたそれを少しばかり修正した「自己像」というものができあがります。確か西洋哲学では語られるものが存在するものだといわれていたと思います。私たちが馴染んだものについて私たちはある程度語ることができ、それが「私」であるとされます。

 

おそらくですが、人間が死んだときにもっていけるのはこの「自己像」です。富も家族も地位も名声も肉体ももっていくことはできません。ソウルメイキング(魂の形成)という言葉がありますが、「自己像」の形成は魂の形成であり、魂とそれに関わりがあって魂に溶け込んだ思考(心の断片)こそが私のすべて、あるいは輪廻するものです。魂というものはこのように考えれば存在するものです。

 

存在(existence)、真理(truth)、現実(reality)などの言葉があります。これらの言葉はなかなか区別し難く、他文化ではどう区別しているのかよく知りませんが、私は存在は上記のように受け取り、真理truthは時間や空間によって変化しないもののことと受け取り、現実realityは先週のべたように夢dreamと対比されるもの、真理の所在地のことと今は受け取っています。

 

クリシュナムルティに次のような言葉があるようです。
「自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです。」
ここにも「私」と「鏡」と「私の姿」という3つが出てきます。強いていえばここでは自らの心や魂を観察しているのですが、それすらも幻であると理解したならば、私たちは進化の終着点に到着することになるのかもしれません。

self realization(自己実現)

 

self realization(自己実現)にはいろいろな解釈があります。ほとんどの人がそれを達成していないので、それにまつわる推測しか耳にすることはありません。私がself realizationの定義としているのは、experiencing of the Atma as Reality(アートマを現実として体験すること)です。self realizationに関して最も不満なのはそれが自己の悟りと訳されることがある点です。それが間違っているとはいわないけれども、小悟と大悟がごちゃまぜになったり、単なる知識と混同されてしまうのではないかという心配をしてしまいます。この意味でself knowledgeならば自己の悟りと訳してもいいのではないかと思いますけれども。強いていえば、自己の悟りを得たとして、その気付きが単なる一時的なものではなく24時間維持して生きることが真の自己実現といえるものではないでしょうか?

 

歴史的にself realizationが多くの探求者をひきつけてきたのですが、一方他のrealizationというものも考えられます。たとえば私はサイババを師としているつもりですけれども、自らの生活の中で可能な限りサイババの御教えを取り入れようとしています。彼の御教えは非常に多いので、特に私の宗教である真宗の御教えに関連の高いものを中心に取り入れています。そんな中で、たとえばサイババの御教えを24時間実践するとなると、それはsai realization(サイババの実現)といえなくもありません。いえもしお釈迦様の御教えを24時間実践するとなるとそれはbuddha realizationで、イエス様の御教えを24時間実践するとなるとjesus realizationといえるものでしょう。それが真の宗教であるならば、その御教えを24時間実践するならば、効果としてself realizationと同じものが得られる、つまり人生の目的を成就することができるはずなのです。

 

近代インドの聖者であるラーマクリシュナパラマハンサは、ヒンドゥー教の聖者でありヒンドゥー教の教えに従ってサマディ(三昧、涅槃)に達した方ですが、彼はイエスの御教えも試しており、イエスの御教えを実践することで等しくサマディ(三昧、涅槃)の境地に達することができると実際に体験しています。私はラーマクリシュナのような器用さも霊的卓越性もないのでさまざまな御教えをいろいろ試す余裕はないのですが、彼の体験が示唆するものは大きいと思うのです。

 

一般にself realization(自己実現)を求めるのは英知の道を歩む人であるかもしれませんし、一方私が上に書いたsai realizationやbuddha realizationやjesus realizationは帰依の道といえるでしょう。しかしながらたどり着くのは内なる神性のrealizationつまり内なる神性がリアルなものとして体験されるということです。神性divinityがselfと呼ばれたり、saiと呼ばれたり、buddhaと呼ばれたり、jesusと呼ばれたりするだけのことです。buddhaと呼ばれたものが日本では仏性とされるものです。

 

たとえばsai realizationのことを語れば、saiの御教えを実践するということはsaiの性質を自分の一部とする試みなわけで、それを24時間何十年も実行し続けることができたならば、私の本性とsaiの本性は似てくるのは間違いないでしょう。buddhaやjesusについても同じことがいえるわけです。なので私はself realizationだけにこだわらず、sai realizationやbuddha realization、jesus realizationも同じように世間に広まればいいと思うのです。すべては同じ実現です。つまりリアルなものとして体験することです。「名は多くても実現は一つ」といえます。

 

realizationというものを考える上で、何がreal(現実)なのかが大切です。普通の人には私たちが知覚する外界、この世界がリアルなものとして受け取られます。しかしたとえばself realizationという観点からは、self(自己)が現実でこの世は夢です。眠っているときに見る夢がnight dreamであるのに対して、起きているときに見ている外界はday dreamです。realizationはdream(夢)との対比で考えたときに意味をもちます。問いとなるのはselfとこの世界のどちらが現実かということです。

横超

 

先週書いたことに関連して、仏教特に浄土真宗で用いられる横超という言葉に関して今日は書いておきます。なかなか難しい言葉ですが、素人であるがゆえに書けることもあるでしょう。親鸞聖人が強調されたことから一般に真宗では横超という言葉が竪超という言葉に対して用いられます。竪超は真宗以外の宗派のあり様を指すことが多いようですが、合理的に道筋を立てて漸進的に問題に対処することのようです。それに対して横超は理論や段階と関わりなく問題を超えていくという意味合いのようです。親鸞聖人にとっては、阿弥陀様にゆだねたらどんな人でもすでにすべての問題は解決されたことになります。私個人は、ゆだねるべきものにゆだねさえすれば、すべては解決されたも同然という点に関しては同意できます。ある意味真宗が頓教(たちまち成就する教え)であるのは確かです。しかしながら私のわずかばかりの体験に従えば、ゆだねた後でさえも「油断」せずに日々の生活において地道な努力をする必要があり、漸教(少しずつ成長し成就へ向かう教え)の側面はあります。

 

先週次のように私は書きました。
「神への愛とは神へ向かって歩むことであり、神へ向かって歩むことは人間社会(人間関係)から少しずつ離れていくことを意味します。一方で人間は本来社会的存在です。人間社会から離れることは多少なりとも不安を伴います。それを補うのが祈りということになります。」
神への愛は帰依であり、日本の仏教宗派の中では帰依の側面を最も強調するのが真宗です。帰依は全託(すべてをゆだねること)によって成就します。

 

詳しく学んだことはないのですが、西洋と西洋の影響を強く受けた地域では弁証法が強調されます。ヘーゲルの名が有名です。ある命題とそれに矛盾する命題がその2つを止揚した(本質的に統合した)命題に置き換えられることといっていいのでしょうか?これが正確な理解かわかりませんが、思考によって真理を探求する一つの手法なのでしょう。この弁証法仏教用語でいうところの竪超といっていいものです。他国は知りませんが、現代日本ではこの竪超が幅を利かせています。一方先週の私の言葉にあるように、神への愛に従って人間社会から少しずつ離れていくことは、ある意味理屈を超えたことであり、横超といえそうです。

 

コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の日本語訳が発売されたのが1988年のようですが、私は多分これが発売されてすぐに読んでいます。ニーチェなどはアウトサイダーらしい人ですが、プラトンアウトサイダーとして扱われていたかもしれません。この本に取り上げられたアウトサイダーたちは際どい人が多いですが、帰依の道を歩み社会から少し距離を取る人もある意味アウトサイダーです。ただし心の中は至って平穏で社会人としてはごく常識的な人が多いのですが。コリン・ウィルソンはその本で西洋の弁証法的なあり様=竪超に異議を唱えたかったのかもしれません。

 

親鸞聖人はある意味アウトサイダーだったのでしょう。中心的な社会関係の外部にいるものは、内部にいるものと社会との関係が異なります。内部にいる人たち同士の関係はある意味互酬(お互いにやり取りする)でしょう。外部にいるもの、今は神を愛するもの=帰依者たちのことを取り上げますが、彼らは社会とどう関わるのでしょうか?私の見解では、帰依者たちは義務によって社会とつながるのです。ただ義務を果たすことが主眼になります。実際のところ、すべての行為は捧げものとして行われています。それによってどのような人生が待ち受けているか? いえその人はすべてを委ねるだけです。また、先週取り上げた祈り-言葉-行為の三つ組は横超の生活原理といえます。

 

現代は竪超に嫌気を感じ、竪超とは別の生き方を探している人がまあいると思います。それに対して横超という生き方は一つのモデルになるでしょう。私はそこに可能性があると思うのです。今日取り上げたのは、私独自の横超の解釈ではありますが。

河合隼雄氏3

 

前回、前々回に引き続き、河合隼雄氏の講演集『「日本人」という病』から題材をとって少し書いてみます。今日は第2章の性を生きるから、ロマンチック・ラブに関する引用をしたいと思います。

 

やはりエロスというのはすごい情熱ですから、ものすごい迫力を神に向けて神と合一するような方向にまで高めていくことはできないだろうかと考えて出てきたものが、西洋のロマンチック・ラブというものです。(静山社文庫p81)
西洋ではキリスト教が非常に大事なものであったのですが、自然科学がだんだん発達してきて、単純に神の存在を前提とした神との一体感というものが薄れてくる。そういう宗教体験が薄れてくるにつれ、ロマンチック・ラブの株が上がってきたというのです。これはなかなかおもしろい意見です。ずーっと前は、恋愛なんてそんなに至上のものではなかったわけです。至上のものは、やっぱり神の問題です。人と神の関係が一番大事だったわけです。(静山社文庫p116)

 

河合隼雄氏は上に引用したようなことを書かれています。ロマンチック・ラブは本来神と人間との間のものだったのが、その不可能性を前提とするようになり、それが人間同士の間の関係にもちこまれ、人間同士の合一に至上の価値が与えられるようになったとのことです。詳しいことに関心のある方は本を読まれて下さい。私は西洋の文化をほぼ知らない人間なので、河合氏がおっしゃられているのが適切な理解なのかは知りません。

 

人間が他者、多くの場合異性に惹かれる思いが強烈であることは私なりに理解しているつもりですが、日本人だからでしょうか私はロマンチック・ラブというものをあまり意識したことはありません。恋愛至上主義者でもありません。恋愛結婚の人より見合い結婚の人のほうがより幸せになるというデータもあります。(「選択の科学」という本でかつてそれを目にしました。)異性同士が多数派でしょうが二人の人間が惹かれるその状態をオブラートで包んで表現したものの一つというふうにロマンチック・ラブを受け取っています。

 

しかし引用した河合氏の言葉には興味を引く記述があります。「エロスというのはすごい情熱ですから、ものすごい迫力を神に向けて神と合一するような方向にまで高めていくことはできないだろうか」の部分です。西洋人の多くはそれは不可能ではないかという理解をしたようです。一方で、インドでは神との合一のことをヨーガといいますが、その最も簡単なものがバクティ・ヨーガだとされます。バクティとは神への愛のことで、神をひたすら愛することが最も簡単に神と合一する方法だということです。インドでは神を愛することが最も簡単な道だとされる一方、西洋ではそれは不可能だと受け取られるほど困難だとされたわけです。インドでいうところのバクティ(神への愛)にエロスの要素がどれだけ含まれているのかは定かではありませんが、愛は愛です。フロイトが性のエネルギーが創造のエネルギーだと述べたように、バクティを支えるエネルギーにそういう類のエネルギーが少しばかり混じっていても不思議ではありません。インドでは長年にわたる神への愛は最終的に純粋で普遍的な愛へと昇華されると受け止めている、ような気はしています。

 

神への愛とは神へ向かって歩むことであり、神へ向かって歩むことは人間社会(人間関係)から少しずつ離れていくことを意味します。一方で人間は本来社会的存在です。人間社会から離れることは多少なりとも不安を伴います。それを補うのが祈りということになります。
The words you utter, the deeds you do, the prayers you make must all be directed along the same path  - SriSathyaSaiBaba
(あなたが発する言葉、あなたが行う行為、あなたがなす祈りはすべて同じ道筋に沿って方向づけられているべきです。)
という言葉があります。私の見解では出発点は祈りです。真摯な態度で祈るとき、自らの心を満たす純粋な思いに気づくことができます。そしてそこから言葉が派生し、言葉と調和のある行為がなされます。人間とは結局のところ思いと言葉と行為の調和のことですが、神へ向かって歩むことを始めた人こそが祈りを習慣とすることができるのならば、神へ向かって歩み始めること、つまり神を愛することが人間としての生の始まりです。

 

このように河合氏が解説するところの西洋の愛(ロマンチック・ラブ)と私が現時点で理解している神への愛(バクティ)とはかなり様相を異にするものです。近現代日本は西洋以外の文化に目を閉ざしてきましたから、愛に関する視野が制限されているのは仕方ありません。愛に関してもインドから多くを学ぶことができることを日本人に知ってほしいという思いはあります。また西洋的な受け取りでもインド的な受け取りでもなく、愛が心にきざしたときまずそれに自ら誠実に向き合う態度はあっていいでしょう。私個人は日本人の伝統的な愛の受け取りはインドに近いような気はしています。

河合隼雄氏2

 

今日も河合隼雄氏について少しばかり触れます。河合氏はさまざまな仕事をなし、多様な側面をおもちであって、直接お会いしたこともないので、先週取り上げた本『「日本人」という病』の紹介をもう少しさせていただくだけです。この本は第1章 日本人を生きる 第2章 性を生きる 第3章 自分を生きる 第4章 死を生きる の4章からなり、私は第1章と第4章が特におもしろかったです。先週は第1章から引用しましたので、今日は第4章から引用しましょう。

 

「一方で自然科学の知というものは非常に大事で、我々はこれなしでは生きていけない。しかし、実はそれだけではなくて、神話の知、たとえばギリシャであれば四頭立ての馬車に英雄が乗って現れてくる太陽の姿のようなものが必要なのです。
 その際、重要なことは、ギリシャ人は太陽に関する神話をすごく喜んで話しているから太陽が丸いことを知らないのかというと、ちゃんと知っているということです。しかし、自分の内的体験を語るときには神話のほうがよっぽどピッタリくるわけです。」(静山社文庫p243)

 

よくいわれることですが、自然科学は観察者(人間)がいるのですが、観察者(人間)を排除した理論を作り上げます。科学万能時代における人間の疎外の問題がここから生じてきます。私はこのブログで何回か科学の問題を取り上げていて、繰り返す必要はないのですが、科学というものは結局のところ想像上のものです。想像上のものではありますが、よく作り上げられた科学理論は知覚できる現象をことのほかうまく説明するので科学理論が真実のように見えてしまいます。科学理論というものはあくまでも仮象です。科学は想像と概念と現象の一致するところのものです。

 

科学が人間を疎外するのに対して、観察者である人間を含んだ外界(現象世界)の記述をしようとするならば、それは往々にして河合先生のいわれるところの神話の知となります。神話の知では、太陽が昇るときの状況を四頭建ての馬車に英雄が乗ってくる姿で表現します。太陽が昇る瞬間を見る人間の心に生じる「内的体験」が語られていると河合先生はいいます。つまり自然現象(太陽)と神格(太陽神)と人間の内的体験(太陽神が馬車に乗った英雄と受け止められること)の3つの間(はざま)で生じたものが神話というわけです。世界各地に神話があり、今現在でさえも、それを神話といっていいのかはわかりませんが人間の内的体験に焦点を当てた世界の記述というものはあります。このような知は、人間を疎外せず人間の内的体験を尊重するという意味では価値のある知ですが、河合氏も本の中でおっしゃっているように、個人によって受け入れることのできるものとそうでないものの幅がいろいろです。何はともあれ河合氏は人間を相手にカウンセリングを行ってきて、人間の内的体験を無視できないことをひしひしと感じてこられ、それが神話の知の再評価へとつながったと考えられます。河合先生が一生を通じてなさったことはある意味人間学といっていいものです。

 

話は我田引水ぽくなるかもしれませんが、少しだけ河合氏の見解を別の側面から見てみます。インドにヴェーダがあります。インド文化はヴェーダの上に築かれたものです。日本人のほとんどはヴェーダに馴染みがないので私の述べることがあまり理解できないでしょうが、お許し下さい。

 

ヴェーダにはAdhibhautika, adhidaivika, ādhyātmikaの3つの側面があるといいます。ヴェーダはいってしまえば詩なのですが、その各詩節は自然(外界)の記述Adhibhautikaと神格の記述adhidaivikaと人間のとっての内的体験・内的真実ādhyātmikaの三通りの解釈が可能であると古来からいわれ、その中で最も大切なのはādhyātmika=人間の内的体験・内的真実だとされます。ヴェーダとは聖者の内的体験であって、ヴェーダマントラを瞑想するとはそのヴェーダの啓示を受けた聖者の体験を追体験することだとされます。この点でヴェーダと河合氏による神話の解釈は一致します。私の個人的意見ですが、神話はあくまでも(ほどほどの人によって)作られたものですが、ヴェーダは極めて心が浄化された聖者の人生体験を裏打ちする啓示(聞かれたもの)です。しかしその構造は似ています。私がかつてインド文化を学んだインドの方によれば、古代においてはヴェーダはインドだけでなく世界中にあったということですが、もしかしたら神話の類のことを意味するのかもしれませんし、あるいはインドで古代から継承されてきたヴェーダとまったく同じものなのかもしれません。

 

河合隼雄氏は人間というものに取り憑かれて、納得いく理解を求めて神話や宗教の世界に深く踏み入った方です。私もその一人ですが、人間に関心をもった人は望む望まないに関わらず、いつかは神話や宗教の世界に行き当たってしまうように思います。関心のない人には意味不明なことが神話、宗教、霊性の書に書かれていますが、それらが我流であったとしても理解できるような気がしてくればしめたものです。そこがさらなる探求のきっかけとなります。

河合隼雄氏

 

私は若い頃、そう30歳すぎくらいまではかなり本を読んでいました。当時はインターネットで本を買うことはなく、図書館で借りることも少なく、書店に足を運んでおもしろい本はないかと探しながら数時間過ごすことが結構ありました。私は一冊本を読んでおもしろかった場合、同じ著者の本を手当り次第読むことがありました。また本の後ろにある参考文献から次に読む本を探すこともありました。同じ著者の本を読むことが多かったので、特定の著者のことはまあまあ知っていても、同時代の他の著者のことは全く知らないという状況でした。そして私がその著作を多く読んだ一人に河合隼雄氏がいます。

 

河合隼雄氏は臨床心理学者です。河合氏は何百冊も本を書かれているのではないかと思いますので、そのすべてを読んだわけではないのですが、それでもかなり読んだと思います。心のことに関心があり、他に著作のたくさんある精神科医や心理学者がいたにもかかわらず彼の本を特に読むことになったのは、多分彼が学生時代に数学を学んでいたためであろうと思います。私自身が数学を学んでいたので、なんとなく親近感を覚えていました。たくさん本を読んだのですが、お気に入りの本はほとんどありません。特定の著書が好きというよりは、いろいろ読んでいてたまに強く心に訴えかける文句に出会うのですが、それを楽しみに読んでいました。私は彼が有能な心理療法家であるがゆえに、つまり心の問題を抱えている人を支えるのが上手であるがゆえに尊敬していましたが、しかし彼の日本文化論や物語論にはほとんど関心をもちませんでした。

 

とはいっても彼は日本を代表する心理学者の一人であったことは間違いないように思います。彼はたまたまユング派の心理療法家となりましたが、ユングを日本に紹介した第一人者であったのではないでしょうか? 今日本に臨床心理士という資格があるようですが、この資格の普及に努力された方でもあります。私は一読者として河合氏を語ることしかできませんが、専門の心理療法家や心理学者たちは河合氏を全く別の視点から語ることができるでしょう。彼のことを知る若い一般の人はかつてより少なくなっていると思いますが、もし彼を紹介するならどの本がいいだろうかと、最近彼の本を手にとってみました。今日はその一冊を紹介します。

 

『「日本人」という病』という本です。この本は1999年に刊行された彼の講演記録です。彼は1928年に生まれ2007年に80歳を待たずに亡くなりましたが、最晩年とはいわずともそれに近い時期の彼の考えが記されています。第1章 日本人を生きる 第2章 性を生きる 第3章 自分を生きる 第4章 死を生きる の4章からなります。私がこの本でおもしろかったのは第1章と第4章ですが、読む人によっておもしろいと感じる箇所は異なることと思います。彼の著書はもったいぶるというか、私には要点がつかみにくい記述が多いのですが、この講演記録は比較的内容がコンパクトに詰まった印象を受けます。

 

第1章 日本人を生きる から少し言葉を引用してみましょう。以下の引用がこの講演記録の題名になっています。
「ところで自分を振り返って、自分の病気はいったいなんだろうと考えました。ユングの場合は統合失調症で、フロイトの場合はノイローゼと診断されるかもしれませんが、私の病名はなんなのか。日本で臨床心理の経験を積んでいくうちに、それがわかりました。私の病名は「日本人」なのです。日本人であるということは、すごい病気です。これは、私にとっては、という意味です。みなさんにとって、そうでないかもしれません。病原菌と同じで、いくら病原菌が入っても、病気にならない人もいますし、病気になる人もいますが、私は「日本人」というヤツが、とうとう病気になって発症したわけです。」(p24~25)
ユングフロイトも創造的な人でしたが、彼らは統合失調症、ノイローゼを克服することで創造性が増したと評価されることがあるようです。河合氏も心理療法家として優れていたと思いますが、彼に創造性をもたらした病は、彼自身によると「日本人」というものだったようです。何のことかと思われる人がいるかも知れませんが、私には妙に理解できるところがあります。日本人であることは何かの病を抱えているに等しいような気になることがあったからです。簡単にいえば、日本人は抑圧の度合いが比較的強くて、さらにことさらいろいろなことを考える民族で、存在が重苦しいのです。河合氏は2000年頃の日本社会を重度のうつ状態だと評していましたが、そんな感じです。今の日本社会もその傾向があるように思います。日本のリーダー層は欧米特にアメリカに頭が上がらなくて、その分日本の国民を無意識的にでも抑圧しているからではないかと私なんかは素人ながらに思うのです。ペリーの来航以前の日本人は今ほど果たして抑圧、抑うつ的だったのだろうかと疑っています。

 

彼の『「日本人」という病』という本は、彼が生まれて亡くなる間近まで、夏目漱石と同じように日本において日本人として生きることに正面から取り組んだ、その貴重な記録の一つといっていいでしょう。私の若い頃は、河合氏や他の日本人たちの歩みと重なる部分があります。そういう意味で、河合氏の本には、部分的ではありますが、私の過去の一部が含まれているような気がしてなりません。もちろん今はわずかばかりではありますが、当時より少しばかり歩を進めてきたのではないかと思っていますが。

 

河合氏の本には、過去を生きた日本人の精神の一部ではありますが、その貴重な記録が残されているがゆえに、今日紹介した次第です。

体は影

 

今日も「人を解放する心の使い方」について少し触れたいと思います。先週、先々週もこのテーマについて書きましたが、結局のところ、「人を解放する心の使い方」とは外界ではなく内界の促しに沿った心の使い方のことです。内界に関心のない人は内界の世界の豊かさに気づきませんが、実際のところそれは外界と比べてずっと豊かです。少なくとも外界よりは満足をもたらしてくれるものです。ただし慣れないと、真っ暗闇の部屋の中を物にぶつからないように歩くのに似て、多少の困難があるわけです。

 

私は思うのですが、基本的に各宗教が述べようとしているのは、人を束縛するのではなく人を解放に導く心の使い方についてでしょう。しかし現代においては、人を解放に導くべき宗教がテロを正当化するような用いられ方をしています。宗教自体に悪はなく、人がそれを悪の正当化に用いているだけなのですが、嘆かわしいことだと思います。この点、聖職者の責任は重大です。親は子どもがナイフを間違った使い方をしようとしたときにそれを正さなければならないように、聖職者は信者が宗教の教えを間違って用いようとすれば適切に正そうとするのがあるべき姿でしょう。聖職者が自らの説く教えの有効性を知っている場合にのみそれが可能ですが、現状はどうなのでしょうか?

 

先日おもしろい記述を見つけました。

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ある帰依者が神に尋ねました。
「あなたは私の中に、私の上に、私の下にいるとおっしゃいます。それなのに、どうして私を守ってくださらないのですか?」
神は答えました。
「私はいつもあなたの中に、あなたの周りにいます。外面的に私を探してはなりません」
その帰依者は尋ねました。
「あなたは本当に私の後ろにいらっしゃるのですか?」
神は答えました。
「私の影があなたの体です」(1998年4月22日 サティヤ・サイ・ババ

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www.sathyasai.or.jp

https://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume31/sss31-16.pdf

 

 

神は遍在しているということです。人間を含めあらゆるものの存在の核であるといえます。私の気を引いたのは「私の影があなたの体です」という箇所です。例えば木が生えているとします。日中晴れていれば当然その木の影ができます。木が風で揺れれば影も揺れます。木が実在で影は実在ではありません。ならば「私(神)の影があなたの体です」という文は何を意味するでしょうか? (人間の)体は実在していないということです。そしてその(人間の)体が動くということは、神が動いているのに体=影が従っているということです。一般の人間の考え方ではこれは受け入れられないことかもしれませんが、もしこれを受け入れたとすれば、影は勝手に動き、それは自ら(エゴ=体が実在だと受け取ること)の企ての結果ではないわけですから、体を動かすことを目的とした人間の思考は急激に減ることでしょう。強いていえば、自らの肉体が影であることをいつも意識する、つまり体が動いているときは本体である神が動いていると理解する。本体と影の間にはなめらかな関係があるはずなので、それを邪魔しないようにする。心にはその程度の仕事だけを与えておけば十分だということです。エゴが全くなくなれば、このようなことも必要なく、ただ影は影として存在するのみでしょう。エゴがある間は、エゴが宗教を自らの正当化に用いないよう注意するのに似て、エゴが体の動きを自らの正当化に用いないよう注意するだけです。

 

思考がなくなるあるいは急激に減れば、お金を稼げなくなるかもしれません。求める地位も得られなくなるかもしれません。人との関係が十分に結べないかもしれません。しかしながら、これは人を解放に導く心の使い方の一つの帰結でしょう。解放というとき、何を解き放つのかということです。解放という言葉は、人が何かにがんじがらめにされていることを前提としています。以前も書きましたが、人をがんじがらめにしている最たるものは心=思考の束のはずです。思考が極めて減っていったとき、自らの人生がどのようなものになるのか? こういう冒険に足を踏み入れる人は極めて稀であります。

愛の道

 

先週は変容について書きましたが、より良い方向に人が変わることは少なくとも停滞ではなく前進でしょう。また。束縛がある人はなかなか変わることができないはずです。変容は人が解放へ向かっていることだと私は受け止めています。そして今日も「人を解放する心の使い方」について述べたいと思います。

 

まずは人間として生まれることについてです。人間として生まれることは稀な恩恵だといろいろな方面から聞きます。私は輪廻転生を普通に何の抵抗もなく受け入れることのできる人間です。舞台上で劇を演じていた人が舞台が終わったあとに楽屋で休憩するように、人は死ねばあの世で休憩するものと思っています。そしてまた生まれてこなければならない魂は再びこの世に生まれてきます。だから私は死ぬことが怖くありません。むしろ再び生まれてこなければならないと考えることのほうが怖いです。この世に生きることはある種の苦痛だからです。この世を卒業したいという気持ちはあります。とはいっても、心の片隅にまだ満たされていないこの世的な欲求が少しでも残っているうちは再び生まれてこざるを得ないのでしょう。

 

生物学における進化論とは別に、輪廻転生においても無機物、植物、動物から人間へと進化していきます。無機物、植物、動物と比べて人間はどういう位置づけなのでしょうか?人間は克服されなければならないといいます。私の理解では人間から神性・仏性へと上昇しなければならないということです。これはどういうことを意味しているのでしょうか?私が思うに、この世つまり地上での生活を謳歌するには無機物、植物、動物に生まれるだけで十分ではないかということです。自然を観察すればわかりますが、植物、動物にはさまざまな種類のものがあり、それぞれの種ごとに生き方が異なります。植物、動物に何度も生まれることでありとあらゆる体験ができそうです。食欲、性欲なども十二分に満たすことができるでしょう。この世的なことに関しては、あくまでも憶測ですが、人間は動物・植物以上に何かを味わえることはないような気がしています。動物・植物でさえ徳を積むといいます。その徳の結果として人間に生まれてくるといいます。それでは人間として生まれることにどのような意義があるのでしょうか?

 

人には欲望、怒り、嫉妬、執着、憎悪、傲慢などなどの悪徳があります。それらも過去動物や植物としての過去生において得られたものでしょう。一方で多少の徳があり、一方で多少の悪徳があります。人間は、それらを完全に取り除くことができるかどうかはわかりませんが、それらの悪徳を乗り越えること、それらの悪徳をある程度無害なものとすること、それらの悪徳を昇華し前進のための踏石とするために存在するのかもしれません。過去の無機物、植物、動物としての生(それは徳と悪徳にあらわれていますが)を総括する、それが人間の人生のように思います。

 

端的にいえば、人はただ愛の道を選択する決意をするだけです。愛をもって思い、愛をもって語り、愛をもって行為する。人生の旅はさまざまな障害に満ちており、与えられた能力、スキル、富を用いれば大抵のものは乗り越えられるのでしょうが、そうであっても人が障害に押しつぶされてしまうのは内なる悪徳のせいでしょう。人が人生の旅、愛の道を歩むのを妨げる最大のものは欲望、怒り、嫉妬、執着、憎悪、傲慢などなどです。愛の道を歩む、人生の旅をするには、自らに与えられた能力、スキル、富などと同時に、種々の悪徳という欠点を理解することが必須です。そのように自らを理解することに心を用い、愛の道を歩む方向に意志を向けること、これは一つの「人を解放する心の使い方」です。

 

欠点といえば欠点なのですが、私は他の人に比べわずかばかり感情が貧しく、あまり愛について語ったり、ことさら意識的に愛の道を歩む努力はしてきていません。しかし多くの人に勧められているのが愛の道です。私がブログで書いているようにいろいろなことを考える必要はありません。愛は究極の目的だとされています。ただし愛とは何だろうくらいは深く考えていいでしょう。この世的な愛執、愛着のことでないことは私ですらわかります。