両親を亡くして

 

あまりプライベートなことを書く必要はないのですが、一つの区切りに頭をよぎるいくつかのことを書き残しておきたいと思います。私の母は12年前に亡くなり、父は2年前に亡くなりました。私の親は二人ともこの世にいなくなりました。もしかしたら母は生まれ変わってどこかにいる可能性がありますが、そうであったとしても私には確認できないことです。親との関係は人それぞれでしょう。良好な関係である人もいれば、多少なりとも不仲である場合もあります。しかしながらいま両親がいない身となってみれば、親がいい人であるとかあるいはそうでなくとも、親の存在というものは大きいのではないかと思います。母親が亡くなったときにはまだ父がいましたけれども、父がいなくなった今となってしまえば、何というか子である私を雨風から守っていた屋根がなくなったような気がします。親がどのくらい意識していたかはわかりませんが、親は自らの背に重荷を背負い、子の負担を担ってくれていたのは間違いありません。親が亡くなってみれば、親が背負っていたものを自分で背負わなくてはならなくなります。何かそういうものを感じるわけです。

 

子が幼い時に亡くなる親もいて、それに比べれば私の親は私がある程度の年になるまで生きていてくれたので感謝しています。今のような長寿の時代では子が70を過ぎても親が健在なことはあるでしょう。場合によっては子が70を過ぎて死にそうなのに親は元気であることすらあるでしょう。私はほぼ平均的な年齢で親を亡くしました。こういうことをいうのはどうかと思いますが、親より早死することがなく、親を見送ることができただけでも恵まれていたと思います。両親ともにほぼ家で最期を迎えることができ、親の希望に近い形でした。

 

母を見送り、そして父を見送って2年。少しばかり遺産や遺品の整理をし、気持ちも落ち着きを取り戻してきました。「親が死んで3年間は家の風(ふう)を変えるな」と世間でいっているのを私は聞いたことがありますが、親がいるといないとで多少なりとも気の使いようが違い、自分のやり方で何かを行うことはあるにせよ、遺産や遺品の整理をある程度してしまわない内は、家の風(ふう)を変えようという気持ちはわいてきません。多分多くの人がそうなのではないかと思います。人によっては親が亡くなって10年も20年も遺産や遺品の整理に手が付かない人がいるでしょうが、やはり親の存在が大きかったのです(長年連れ添った配偶者の死でもそうかも知れません)。

 

少し前になりますが、気になる文章に出くわしました。

 

Every human being has two bodies: one's own and that of the progeny. The duties of study, teaching, repetition of the name - these assigned tasks are handed down by parent to child at the time of death, and they are carried on by the child as the representative of the parent and on their behalf.(Upanishad Vahini p46)
(すべての人間には2つの体があります。その人自身の体と子孫の体です。学習、教え、御名を繰り返すという義務、これらの割り当てられた仕事は両親から子どもへと死の時に手渡されます。そして子によって親を表すもの、そして代わりとして引き受けられます。)(英語の訳が拙いのは許してください)

 

この文章によれば、私は親の背負っていた義務を親の死の際に引き継いだわけです。私個人の問題なのか、あるいは世間一般でもそうなのかはわかりませんが、親がやり残したことをやってしまわなければならないというような、親の仕事を引き継ぐ感覚が私にはありました。ある種親のカルマを引き継いだわけです。なので自分の人生の重みに加え、それとは別のものを身に引き受けたような感覚が確かにあります。実際、私の祖父母が亡くなった後で、母親も父親も大変な目にあいました。たまたまなのかもしれません。私も両親が共にいなくなって少しばかり大変です。私には妹がいますが、妹の様子を見るに妹も妹なりに大変な目にあっています。私の家族の問題なのであって一般化は必ずしもできないにしろ、他の方の意見を少し聞いてみたい気がします。両親ともに亡くなった後、大変ではなかったかと。

 

あの世にいる人は、この世に生きている時に親しかった人の肉体を通じてこの世界を体験していると、本当かどうかわかりませんが、そういうことも聞いたことがあります。ならば私の親も私や妹の人生をあの世からのぞいているのかもしれません。私はついそういうことを考えてしまいますので、親が亡くなってもすぐそばにいるような気がしており、その意味では寂しさというものは少ないです。

 

今日は親の死に関連して、私の死生観の一端を書いてみました。私のような死生観の人は少ないかもしれませんが、もしかしたらそれなりに多いかもしれません。それはそうと、この記事が公開される11月23日は私が大きな影響を受けたサティヤ・サイババがこの世に来られた日です。1926年のことですから、もう満95年になります。私はサティヤ・サイババがいてくださったおかげで、困難ではあっても幸せな人生を歩むことができ、大きな感謝の念を抱いています。気持ちを新たにこれからも歩んでいきたいと思っています。