密林のようなダルマ

ダルマはとても深遠な意味をもつ言葉です。インドの言葉ですが、他の言語に翻訳することが非常に難しい言葉です。お釈迦様は「法に帰依し奉る」とおっしゃいましたが、この法はもともとダルマという言葉でした。法といえば、仏法や法律を思い浮かべます。それらと意味が重なる部分もありますが、それ以上のさまざまな意味を含んだ言葉がダルマです。

 一言で語ることのできない言葉ですが、私の理解では、ダルマとはその場その場に応じた人間の振る舞いを方向づけるもののことです。自分を親と意識するときには親としての正しく振舞うこと、夫と意識するときは夫として正しく振舞うこと、子と意識するときは子として正しく振舞うこと、自分を会社の一社員と意識するときには一社員として正しく振舞うこと、このようなことがダルマです。現代日本の言葉では倫理という言葉がそれに近いかも知れないです。

 ダルマのもとはヴェーダです。ヴェーダはこの世界を創造した神の呼吸とされるもので、心の清らかな聖者が宇宙に充満する音を感知したものです。聖書にも「初めに言葉ありき」と宣言されていますが、その言葉がヴェーダです。そのヴェーダ=音を熟考して行動の指針にしたものがダルマです。

 「サティヤムヴァダ、ダルマムチャラ」(真実を語りなさい、ダルマを行いなさい)とのヴェーダの句がありますが、これを実践することはダルマです。
 「マトルデーヴォーバヴァ、ピトルデーヴォーバヴァ、アーチャーリヤデーヴォーバヴァ、アティティデーヴォーバヴァ」(母を神として崇めなさい、父を神として崇めなさい、師を神として崇めなさい、客を神として崇めなさい)との句もありますが、これを実践することはダルマです。
 「ナマシヴァーヤチャ シヴァタラーヤチャ」(吉兆なるお方(シヴァ)、何よりも吉兆なるお方に帰命し奉る)との句もありますが、これを実践することはダルマです。

 無限であると言われるヴェーダが太古から伝えられ、多くの聖者や求道者たちがヴェーダを瞑想し、その意味を汲み取りながら生活で実践してきました。インド文化はそういうもので、インドが太古から卓越した地位にあったことによりそれが世界に広まりました。

 しかし現代では、真実を語ること一つとっても、人はさまざまに都合のいいように解釈します。私は真実を語ることに努めてきましたが、例えばある人にはあることを言って、また別な人には別のことを言って、それぞれの相手に対してはふさわしいことを言ったのですが、二つの言葉が矛盾してしまうことがあります。他にも、真実を語らなければならないが、状況により、そのままを語ることがふさわしくないケースもあり、時に抽象的な言葉である種ごまかしてしまうことがあります。

 母を神として崇めなさいと言われても、現代の教育を受けた人には神として崇めるどころか、ほんのちょっとした感謝の気持ちを表すことができない人もいます。親が問題を抱えていることもあります。虐待を繰り返す親を神として崇めるのは心理的に難しくもあります。

 太古のインドの人々は誠実に注意を払ってヴェーダの教えを実践してきましたが、年の経過を経て、人々は自分勝手に解釈しだしました。それ(ダルマ)は手入れの行き届かない里山のように荒れてきました。法律の抜け道を探し出す悪徳弁護士や悪徳政治家のような人が多くいます。

 仏教やキリスト教イスラム教でも、聖典を自分勝手に理解し、たとえば暴力を肯定する人がいます。聖典が作られたときの本来の意味が大きく歪んできています。あたかも枝がきちんと整えられていない木のようです。

 荒れ果てたダルマを元の姿に戻すことが可能なのかどうかわかりませんが、私は太古から受け継がれてきた聖典を素直に理解するように心がけています。