愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

家族・家庭2

 もうだいぶ前になりますが、家族、家庭について書きました(こちら)。そのときからほとんど認識は変わっていないのですが、改めて自分で確認する意味でも書いておきたいと思います。

 家庭の役割にはさまざまなものがあります。家業のある家では共に働くこともあるでしょう。子どもをつくり血のつながった家族が共に助け合うという面もあります。食事や娯楽を共にし楽しく過ごすことも大切でしょう。しかし結局のところ家族・家庭は何のためにあるのか?

 核家族化が進み、家族など要らないという人も中にはいます。単身赴任で生活を共にしていない人もいます。家族というものが本当に必要ならばなぜでしょうか? また必ずしも血がつながっている人間同士が家族であるわけでもありません。養子や里親になることで家族となるケースもあります。

 家族・家庭はさまざまです。人に二人と同じ人がいないように、最近はマスメディアのせいで生活様式が均質化してきたとはいえ、二つと同じ家庭はないでしょう。世界中の家族を調べた人によると、これが家族であるという定義をするのは非常に困難だということです。

 これは家族の要素ではない、あれも家族の要素ではないと考えていったとき、最後に残るものは何でしょうか? 

 私の学んだところ、また考えによると、それは静かに神を想うための最小の社会単位です。もしそれが執着であったとしても、家族は他の家族のメンバーのことを思っています。彼・彼女の幸せを心のどこかで願っています。そこには必ず祈りがあると思うのです。

 古代よりインドではある年齢になると子どもは師の家で師と共に暮らします。そしてバランスの取れた人格を形成したあとで、家庭に戻り社会生活を始めます。そのときに与えられる師からの教えが「母を神としなさい。父を神としなさい」です。遍在の神は、(見ようと思えばすべてを神と見ればいいのですが)なかなか理解できません。そのため自分に肉体を与え、言葉を教え、幼いころすべての養育の面倒を見てくれた両親を目に見える神として崇めなさいと教えます。

 少し話がそれるのですが、現代の親の多くは、人間として欠点があったとしても、ほどほどには親の役割を果たしているように見受けられます。中には本当に立派な親もいるでしょう。しかし一方で子どもを虐待する親やいつまでたっても子どもを心理的に抑圧しようとする親がいるのは事実です。そういう親を神としてみることに困難を感じる人もいます。

 私の親もそれほど立派だったとは思いません。反面教師の面もありました。反発もしてきました。しかしそういう境遇が私を霊性の道に導いたこと、神への思いを育んだことも確かであり、結局のところ、神を想う場としての家庭という機能は残っていたのです。どんな親であったとしても、親を通じて神のことを思うきっかけは誰もが与えられるという気がします。

 世の中がこれからどう変化するかはわかりませんが、家族・家庭というものはこれから先もずっと残っていくのではないかという気がしています。人間にとって必要なものだと思うのです。