バターとバターミルク

 

今日も先週に引き続きNine Gems(手紙集)の中から心に訴えかける言葉を取り上げたいと思います。

 

Out of long churning (of) this milk of the world comes butter and the butter is ... GOD. Men of heart get the butter, and the buttermilk is left for the intellectual.
(世界というこのミルクを長い間かき混ぜているとバターが生じます。そしてそのバターこそが神です。ハート(心)の人はバターを得、(途中の過程で得られた)バターミルクは知的な人たちへ差し出されます。)

 

is left forを上のように受け取ったのですが、正直いいますと誤解しているかもしれません。間違いがある場合、以後の考察全体に影響が出てきますが、どうぞお許しください。

 

私はバターを実際に作ったことはありません。しかしヨーグルトは作ったことがあって、ヨーグルトの場合ヨーグルトと半透明の液体ができることは知っています。バターも似ていて、生クリームを撹拌するとバターとバターミルクができるようです。生クリームがバターと液体のバターミルクに分離するということです。生クリームはバターとバターミルクに分離しますが、バターとバターミルクから生クリームはできません。

 

「私たちが生きているこの世界をかき混ぜる」をどのように受け取るかが第一の問題ですが、私は「ハート(心)を開いて一生懸命この世界で生きていくこと」と理解しています。自らのハートを開かなければこの世界で生きることの意味はかなり減少するでしょうが、それが非常に大変であることも私は理解しています。愛がそれを支えてくれます。心(ハート)を開いて長い間生きているとバターが生じるとあります。私は自分なりに心(ハート)を開いて50年以上生きてきましたが、その私の実感としては、自らの身体を貫通して「存在そのもの」がそこに常にあるのを感じています。この存在を自分といってもいいのかもしれませんが、上の引用した言葉の通りそれはGOD(神)と受け取ることも可能なのかもしれません。自分と呼ぼうと神と呼ぼうとどちらでもいいのですが、存在が確かにあるのは感じています。これは私が懸命に生きてきて生じたバターの可能性はあると思います。「ハート(心)の人はバターを得」というのは心を開いて生きている人はバターを得ると理解できるでしょうし、あるいは愛や慈悲や共感に生きる人はバターを得ると理解することもできるでしょう。バターミルクはバター以外の得たものすべてと理解しています。

 

バターミルクにも栄養があるので捨ててはなりませんが、バターミルクはバターを作る過程で余分に生じたものです。大切なのは第一にバターです。バターが神であるならば、他のものは一切必要ないものといって差し支えありません。そしてバター以外の一切のものは知的な人たちへと差し出されます。宗教を語る学者には宗教的ではなく知的な人が多いのですが、彼らは例えばお釈迦様が残された聖典やイエス様の残された聖書などを知性の対象として研究します。しかしお釈迦様やイエス様方がどういう状態でいたのかについては無知です。バターミルクしか手にしていない知的な人たちはバターを知りません。バターを得た聖者方とバターミルクしか手にしていない学者との距離は非常に大きいといえます。人は聖者方の体験(バター)を手に入れようとするべきで、単に聖典バターミルク)を研究するだけでは不十分です。

 

この世に生きる人のすべてはバターを得る資格があるでしょうし、それが実際に可能であろうと思われます。

 

マントラプシパンというヴェーダの一節に次のようなものがあります。
ヨ-パーン プシパン ヴェーダ プシパヴァーン プラジャーヴァーン パシュマーン バヴァティ
チャンドラマー ヴァー アパーン プシパーン プシパヴァーン プラジャーヴァーン パシュマーン バヴァティ
(水と花を知るとき、ハートは花開き、子孫と家畜に恵まれる。
月と水と花を知るとき、ハートは花開き、子孫と家畜に恵まれる。)

 

アーパは水で愛を意味しているとされます。プシパンは花でハートを意味しているとされます。プラジャーは子孫でパシュは家畜で富を表します。チャンドラマーは月でマインド(頭)を表します。つまり「愛とハートを知る人のハートは開き、愛とハートに従って生きる人は子孫と富に恵まれる。頭と愛とハートを知る人のハートは開き、頭と愛とハートに従って生きる人は子孫と富に恵まれる。」と理解することができます。私が今ここで強調したいのは、頭(マインド、月)があろうとなかろうと、水と花つまり愛とハートさえあれば豊かな人生を送ることができるということです。バターという神を得るのに月(マインド、頭脳)は必要条件ではないということです。愛の人、ハートを開いて生きる人こそが人生を成就することができるということです。もちろん頭脳はないよりはあったほうがいいのかもしれませんが、それほどの重要性を与えないように気をつけたいものです。頭の活動が強すぎると、もしかしたらバターではなくバターミルクを求めてしまう恐れがあります。

 

頭がよかろうとあまり頭脳明晰でなくても、世の中には人がいい人というのは確かにいます。私自身もそういう人でありたいですし、関わるならそういう人と関わりをもちたいものです。それがいわゆるよき仲間(サットサング)といわれる人のことです。