私は長年人とのコミュニケーションに悩んだと思います。今でも多少そういうところはありますが、年をとってずいぶん楽になりました。愚鈍ながらコミュニケーションスキルを磨こうとしたことはありますが、世間で喧伝されているような立派なコミュニケーションスキルを身につけることはできていません。しかしながら、今私がコミュニケーションにおいて心がけていることに触れるのも、もしかしたら誰かの役に立つかもしれません。
私の師は、「人と会ったときにはこんにちは、分かれるときにはさようなら、それだけで十分です。」というようなことをいっています。話すことはあいさつと本当に必要な最小限だけで十分だそうです。口数の少ない人間は他の人から見ておもしろみがなく、あまり相手にされることはありませんが、それを補って余りある心の平安と幸福があるといいます。私はそれを実感しています。そもそも私はこれまでの人生で長い間家族からも含めて愚か者扱いでしたし、一人の時間を過ごすことが他の人より多くありました。一人でいることを孤独といいますが、孤独といっても寂しさを感じる孤独lonelinessと一人の時間を楽しむ孤独solitudeがあります。寂しさを感じる孤独しか感じなければどうしても仲間を欲してしまうでしょうが、幸いなことに私は一人の時間を楽しむことのできる人間へと成長することができたので、人に相手にされなくてもそうは気になりません。私はおもしろみのない人間と受け取られていても心は平安です。
人とコミュニケーションをとる時、話す場合は相手の心に届くように言葉を選んで話すように心がけています。表面的な話題に話を合わせることはあまりありません。人の話を聞くときは心で聞くようにしています。頭で考えることはしません。心に伝わってくることだけが私へのメッセージだと思っています。心と心の間にメッセージのやり取りが交わせたかどうかが大切です。それ以外に気を向けることは年をとって億劫になりました。私から相手に伝える際も、相手から私に伝える際も多くのものがこぼれ落ちている可能性はありますが、今はそれでいいと思います。心から心に何かが伝わったときには相手と何らかのつながりが築けているのでしょう。heart to heart feeling(心と心がつながっている感覚)が大切です。何かが伝わっていさえすれば、相手の個性を問うことはあまりありません。
しかしながら、世の中にはいろいろな人がいて、日常的に頻繁にうそをつくことでコミュニケーションを図っている人が私の周辺にも何人かいます。そういう人と関わらざるを得ないことは悲しいことで、腹の立つこともたびたびあります。突然怒り出す人もいます。私に全く否がないとはいわなくても、そんなに怒鳴られることをしたりいったりしたかと悩んだことは幾度もありました。その他、コミュニケーションを取らなければならないのにそれが非常に困難なケースは、私でなくても多くの人が体験しているでしょう。
半年くらい前か忘れましたが、ツイッターを見ているとあるお坊さんの「普通の人から見てなんでそんな振る舞いをするのか理解困難な人がいたら、その人はまだ人間として転生してきた回数が少なくて人間というものに慣れてない可能性があります。」というような言葉が目に止まりました。もしかしたらそういうこともあるかもしれません。私は輪廻転生を信じていますが、今は人類の歴史の上で人間の数が最も多い時期で、これまで動物や植物だった存在が初めて人間として生まれたケースもありそうです。当然人間というものに慣れていないでしょう。お坊さんの言葉になるほどと思ったものです。相手の振る舞いに怒って相手を傷つけず、そして相手を暖かく見守り尊重し、何とかことをやり過ごすための一つの受け取り方です。
正直にいいますと、私はこれまで思う存分自分の思ったことを人と話したことはありません。理解されないからです。一生懸命そんな私を受け入れようとしてくれたのは母親だけだったでしょう。言葉を選ぶと少しばかり理解してくれる人もいましたが、そういう人はこれまで5人もいたかどうかです。そんな私が信仰をもち神仏に語りかけることを習慣とするようになったのはある種の必然といえます。コミュニケーションに悩んでいる人は多くいるでしょうが、信仰をもつことは一つの救いではあります。