愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

無執着の実践

 

先週の記事の題はLife is a journey, walk it! でしたが、記事の内容からみて、Life is a long trail, walk it! (人生はロングトレイルです、歩きなさい。)でもよかったかもしれません。ロングトレイルは山道を多く含んでいますが、山道でないトレイルもあります。トレイルには(荒野などの)踏みならされてできた道、 (山中などの)小道という意味があるようです。

 

今日のテーマです。今日は無執着について少し触れてみます。最後まで読んでいただければわかりますが、先週の話と関わりがあります。さて字面の通り無執着とは執着がないことです。無執着について最もわかりやすい例えをあげますと、例えば小学校の校長先生は校長室でイスに座り机に向かって仕事をします。書棚も使っているでしょう。しかしながら他校に転任になったとき、それらを手放していかなければなりません。元々それ(机やイス、書棚)は校長先生のものではなく、一時的に活用することが許されただけだったのです。銀行員が多額の現金を数えたり、出し入れしています。銀行員は日常的にそれらを扱っているにしろ、それらは銀行員のものではありません。家に帰るときや仕事を辞める時には1円たりとも持ち出すことはできません。銀行員はお金の管理を一時的に任されていただけだったのです。校長先生や銀行員が自らが用いたり管理しているものに執着をもてば、とんでもないことになります。彼らに求められているのは無執着です。

 

同じように、私たちがこの人生で扱うものはすべて一時的なものです。私たちは裸で何ももたずに生まれてきますし、死ぬときも砂粒一つもっていくことはできません。この世界のものや人で私のものといえるものは何一つありません。一時的に活用することや管理することが許されているだけです。あるいは人生の伴侶として苦楽をともにわかち合ったり、養育を任されているだけの人を家族といっているわけです。どんなに親密であろうとも関係には一定の節度が求められ、執着を育んでもそれは後々精神的な苦痛を引き起こすだけです。

 

日本語にバカという言葉があります。一説によればバカの語源はサンスクリット語のモーハという言葉らしいです。そしてこのモーハは執着を意味します。私のものでないものを私のものと思って必要のない妄想を育んだ人のこと、そしてそれによりおかしな振る舞いをしたり苦痛を味わっている人のこと、それがバカなのでしょう。ちなみに解脱はサンスクリット語でモクシャといいますが、モクシャとはモーハ+クシャヤ(モーハを破壊した)結果としての解放を意味するようです。この定義によれば、この世に生きる人は皆解脱していない人なのですから、私を含めてバカの集まりということになります。

 

人生は川の一方の岸からもう一方の岸に向かって橋を歩くようなものともいわれます。ゆっくり橋を渡ることはできますが、橋の上に家を建ててそこで生活することはしません。つまりこの世は通り過ぎる場であり、定住する場ではないのです。私は20歳過ぎの甥に「コツコツ努力をしなさい。休むのは死んだあとです。」とアドバイスをしたことがあります。20過ぎの甥はもしかしたらあと80年は生きるかもしれません。80年も努力し続けるあるいは歩み続けるのは気の遠くなることかもしれません。甥に過大な要求をしているかもしれないという思いはあります。しかし私も50数年ゆっくりとですが歩み続けてきて、そしてこれからあと仮に30年前後の人生が残っているとして、やはり歩み続けるつもりでいます。自分がしてきていないことを甥に要求してはいません。(私に子がおらず、さまざまな事情で甥は家を継ぐものです。少しばかりアドバイスをする機会があったのです。)

 

しかしながら少なくない人は、この世が安住の地であると思って、この世に家を建てこの世にずっと住むつもりでいます。その人が今置かれている状況というのはほんの一時的であるにも関わらず、橋の上に家を建てている人がいます。これは私からいえばバカ、つまりこの世の何かに大きな執着を育んだ人です。執着のない人は橋を渡りきるまで歩き続けるのみです。それが無執着の実践です。若いときはまだしも年を重ねた人が歩き続けるのはある意味大変であることは理解します。しかしそれでも人はゆっくりとでも歩き続けるべきだと私は思うのです。それは人生に対する誠実さであり、霊的であることの一つの意味でしょう。