帰依者のあるべき姿

 

霊性の道は大きく分けて3つあります。行為の道、帰依の道、英知の道です。最も簡単で最も効果があるのが帰依の道です。行為の道は自助努力によって人生を切り開いていくことや奉仕の道です。英知の道は知恵を高めて目的に達することです。人には適性があるので、自らが好む道を歩めばいいのですが、多くの人に勧められるのが帰依の道です。帰依の道は愛するお方(神)を思って生きること、その愛するお方との関係で世界を捉えることです。愛するお方のことを思ってさえいればいいのですから、最も苦労の少ない道です。

 

次の映像を見て下さい。

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サイババに一人の帰依者が寄り添っています。サイババが歩き出せばその人も歩き、サイババが立ち止まればその人も立ち止まります。進む方向はサイババの意志次第で、寄り添う帰依者の意志は感じられません。誰の手紙を受け取るかはサイババ次第で、ときにサイババが受け取ろうとした手紙をサイババに代わって受け取ることがあります。誰かがサイババと話をするとき、サイババの方に傾くと、サイババが怪我をしないように手を出してその人が倒れないようにしています。サイババがヴィブーティを出すと、手を拭くためのハンカチをすぐに出します。サイババに寄り添う帰依者はサイババだけに集中していて、サイババの動きに細心の注意を払っています。この帰依者はおそらくほとんどの日本人がかなわないほど知的に優れていて、技能(スキル)を身に着けていて、人格的に卓越していますが、そんなことは感じさせず、サイババのことだけを考えています。これが帰依者があるべき姿です。

 

帰依者にはおそらく自らの意志といえるものはないのでしょう。愛するお方とその意志に注意をはらい、愛するお方に寄り添い、もしかしたらわずかばかり愛するお方の手足となる。サイババは肉体をもっていますが、一般に神を愛する人は偶像や絵などで形を思い浮かべるにしろ、その愛するお方の意志はなかなかわかりにくくはあります。しかしその愛するお方の意志が何となくでも感受できるならば、私にとっては「なるようにしかならない。起こるべきことはすべて起こる。」というのが神の意志のように感じられますが、その愛するお方の意志に対して徹底的に寄り添うこと、これが帰依者のなすべきすべてです。楽といえばこれ以上楽なことはありません。それで人生の最高の目的を成就することができるでしょう。

 

映像に戻りますが、サイババには意志が感じられます。一方サイババに寄り添う帰依者はサイババに集中していますが、自らの意志といえるものは感じられず、自らの存在をサイババの意志に溶け込ませようとしています。サイババには選択の余地があるかもしれません。しかし寄り添う帰依者には選択の余地は感じられません。「選択する人は混乱しているのです。」というクリシュナムルティの有名な言葉がありますが、まさに寄り添う帰依者にはわずかばかりの混乱も感じられません。まったき集中です。

 

「24時間神を思っていなさい」とサイババは帰依者に勧めますが、世事に追われていると少し難しい面はあります。もしそれができているならば、その人は霊的にかなり高いレベルにいる人です。神を思う人は神になるといわれますが、24時間神を思っている人は神のすぐ近くにいる人で人生の成就はかなり確実でしょう。知恵は必要ありません。多くの仕事も必要ありません。ただ神を思っているだけです。神を思っている人は神に溶け込み、神以外のクズを思っている人は再び生まれ変わってくるとされます。

世界観を育む

 

世界観、歴史観、自然観。何でもそうですが、こういうものは大切です。人間にとって世界や歴史や自然というものは最初は曖昧で素朴なものです。人生を重ねていく中で熟考、考察を繰り返し、少しずつ世界とはこういうもの、歴史はこういうもの、自然はこういうものというものの見方(観)が形成されます。意識してそうしなければ歳をとっても曖昧なままでしょう。先週は金剛心について語る中で「一つであること」を取り上げました。観念としては一つであって、しかしそれが具体的にどういうものであるか人によって多少異なるのは当然です。一つの白い画用紙があって、それは一つなのですが、そこに描かれる人間の姿はさまざまです。大切なのは一つであることがずっと保たれていることです。

 

日本語でいうところの世界観を英語で何というのか知りませんが、今はuniversal outlookと表現しておきます。世界を概観する地図のようなものでもあり、これからの行く末を示唆する要素を含んだ言葉です。地球は一つですが、私たちは地球儀や世界地図でその絵を思い浮かべることが多いはずです。また地理的条件を考慮して未来を考察することもあります。universalという言葉は、世界だけでなく宇宙や自然という意味も含んでいるでしょう。私たちが今生息しているこの世に関する見取り図です。この世に関することですから、あの世との関係も考慮されてしかるべきです。私はこの世に関する見取り図(universal outlook)は各人が少しずつ育むべきもので、それもすべてが一つであることを念頭に置いておくのが非常に好ましいと思っています。かつては宗教がこの世界観を提示してきたのですが、現代では天国や浄土などは単なる観念だと受け取っている人が多く、それを自然に信じることができる人はそれでもちろんいいのですが、納得がいかない人は納得がいくような見解を欲するでしょう。かつてはこの天国や浄土との対比でこの世の生活に文脈が与えられてきました。現代もいくつかの文化圏ではそれが現実だと思います。

 

ちなみに私の世界観の大雑把なところを述べておきます。私はインドのユガ思想を信じることができて、これは現代日本では末法という言葉にその片鱗があるのですが、何千年か何万年かごとに世界が荒れたり平穏になったりするという思想です。今は末法あるいはカリユガ(闘争の時代)です。そして末法のあとには黄金時代がやってくるとされます。いつやってくるのかの受け取り方はさまざまでしょうが、私は21世紀の今は末法が折り返し地点を過ぎたところでこれから何千年か後に世界はまったき黄金時代になると受け取っています。オカルトっぽくもあり、スピリチュアルっぽくはありますが、インドにはそれなりの文献の裏付けはあります。

 

世界があってそれにどう対処するかは、結局のところ自らの世界観を通じてです。リアルなものとしての世界の前では私たちはたたずむしかないのですが、想像的なものとしての世界観が私たちが世界にコミットしたり、貢献することを可能にしてくれます。世界が信頼できると思っている人と、世界が信頼できないと思っている人とでは世界に対する態度は異なりますが、人が世界をどう思おうと世界はリアルなものとしてそこに存在しています。そしておそらくは世界は私たちの世界に対する態度に忠実に反応します。また私たちの世界観が変わるということが世界が変わるということの内実でもあります。

 

日本人が無宗教であるということの実態は、日本人が世界観をもっていないということです。日本人は世界はこういうものであるという他文化に影響されにくいそういう世界観をもっていません。今日本にあるのはアメリカを通しての世界観や新興宗教、カルト宗教を通しての世界観です。日本に世界観が欠けていると認識している一部の人たちは、自ら地道にそれを育むべきところを、他文化やカルトのものの見方を借り物としてそのまま受け入れています。世界観は日本はこういう国だという日本観ではありません。世界の他の国々、宇宙、自然、あの世も含めたものであり、近視眼的に日本のことだけを考えても今の時代はそれが世界観だと主張することは非常に困難です。

 

私はグローカルが大切だと思うのです。グローバリズムは国境を無視して地球を1つとして考える態度ですが、私は国境が必要だと考えるインターナショナリストです。さらに地域(ローカル)で生きて活動していく上で、それが世界(グローバル)の中でどういう意味をもつのか日本人は考えるべきだと思っています。たとえば商売をする際にも、地方の一中小企業であっても、市場を国内だけでなく国外に求めて企業活動をするのがいいと思っています。あるいは日本の里山は日本では無視されていますが、世界的に見えれば人間社会と自然がうまく調和したある種理想に近い環境なわけで、そういう視点で里山を見ることが大切に思います。NTTはグローカルに焦点を当てた企業経営を目指しているところがありますが、つまりはそういうのが大切です。

 

日本は今まで通りでいいと思っている人はたくさんいるでしょう。しかし本来国とは世界に貢献するためにあるのであって、世界観の欠如は国の存在意義にかかわるものです。政治においても本来は世界観を共有する人たちが集まってそれぞれの政党を作るのがいいと思います。世界の人口が増加し、日本の人口が減少し、日本の世界における存在感が低下していくのは仕方ないことですが、しかしその中で生き残っていくためには、一人でも多くの日本人が適切な世界観を育んでいかなくてはならない、というのが私の考えです。

金剛心

 

今日は金剛心について書きたいと思います。金剛とはダイヤモンドのことで、金剛心とはダイヤモンドのように硬い心のこととされます。私などは最初この言葉を聞いたとき何となく頑なな心のように思えましたが、しかし今日は安定した心という意味で金剛心について述べるつもりです。大辞泉では「金剛のように堅固不動な菩薩の心。真宗では、他力回向の真実信心をいう。」とあります。もともと仏教の言葉です。

 

The mind fixed in the awareness of the One is like a rock - stable and secured and unaffected by doubt.  - SriSathyaSaiBaba
(唯一者を意識している状態に定まっている心は岩のようです。安定していて安全が確保され、疑いに影響されません。 サティヤ・サイ・ババ
というツイートをツイッターで見かけました。私はこれを引用して、―「(この宇宙、世界の)すべては一つ」。最初は信念なのでしょうが、これこそが人の心を安定させ、揺らぐことのないものにする。いわゆる金剛心だと思います。― とツイートしました。唯一者に気づいている状態とすべてが一つであることを意識している状態は厳密には異なるでしょう。浄土真宗では阿弥陀様から与えられた信心を金剛心と呼びますが、これは阿弥陀様の働きかけが我が身に働いているのを自覚しているのを前提にしている、つまり阿弥陀様を意識しているわけです。他方私はよく知らないのですが、仏教の他の宗派では因縁によって世界のすべてが一つにつながっていることの自覚を説くようです。唯一者を自覚することとその具現であるこの世界のすべてが一つであることは観点は異なりますが、重なるところがあります。

 

私は「ソーハム(私アハムはそれソーである)」というマントラを唱えることがありますが、ソー(それ)とは超越者、唯一者、神のことです。また因果の原理、縁起(因縁生起)を受け入れています。それらの影響もあって、私はすべてが一つであることの意識が他の人より強いことでしょう。その分おそらく心が安定しているように思います。サティヤ・サイ・ババのツイートも私自身のツイートも私の体験の裏付けが少しはあります。これが私の金剛心の受け取りです。かつて思っていたような頑なな心ではなく、広い空が誰からも破壊されないように、広い心は何事によっても破壊されにくい、そういうところがあります。

 

「すべてが一つ」。これを単なる哲学にとどめず、生活において実践しなければなりませんが、具体的にはどうすればいいのでしょうか? 私は目の前の義務に誠実に取り組むことがそれに当たるのではないかと思っています。世界は一つ。世界の中で私たちは互いに支えながら生きているのですが、世界の課題は私という個人に義務という形で届いてきます。私がその義務に取り組むことが私が世界の課題に取り組む最も有効な方法であると思います。このことの根拠は特にないですが、長年の実感としてそんな気がしています。例えば子が病気になればまず第一に親が子のことを気にかけなくてはならないでしょう。他所の人に全部任せることはふつうしません。家事は基本的に家族で対応するものでしょう。それが一般的だと思います。自分のことはできるだけ自分でし、家族のことは家族でできるだけし、余裕ができてきたらできる範囲で社会に貢献し、社会が豊かになれば国全体がよくなります。最終的にそれは世界の平和につながっていきます。

 

サイババの言葉をさらに引用すれば、「神への愛、罪への恐れ、社会での道徳」の3つが大切だとされます。この内のどれか1つがあれば他の2つはくっついてくるといいます。唯一者を意識していること、意識が絶えずそこに向いていればそれは唯一者つまり神への愛です。罪とは一つであるところに多を見ることであるという見解があります。例えば誰か他の人に暴力を振るうのはその人を自分とは別の人と見ているからですが、それは罪であるとされます。罪を恐れるとは「すべてが一つ」であることを否定しないように努めることです。社会での道徳は、各自が義務を意識して生きることでもあると思うのです。

 

お釈迦様は神性は語れるものではないとして神について語ってきませんでしたが、実は神性には姿があると示しています。それは真理とダルマと非暴力の3つであると宣言しました。つまり仏教は神学ではなく、道徳論を強調しています。お釈迦様は不二一元を道徳的に語りました。真理は神に対応し、ダルマは義務に対応し、非暴力は罪を避けることに対応します。

 

すべてが一つであることは、最初は信念かもしれませんが、その内それが実感されだすときがいづれくると思います。それは不動の心、金剛心をもたらしますが、心が安定している時に、人は人生を適切に歩むことができます。すべてが一つであることは人によってさまざまに表現可能でしょうが、人が真に深いものに根ざしているならば、間違いは少なく、人生は有意義なものになることでしょう。

新しい経済

 

今日は少しばかり経済に関して最近思ったことを書きたいと思います。経済に関してはほぼ素人でわからないことが多すぎるのですが、それでも経済の現状を疑問に思うことがたくさんあって、時々本を読んでは思索を重ねてきました。経済には30年ほど前から関心はあって、専門的で学術的な本ではなく、さまざまな企業を取り上げた本、経済を企業から見た本を多く読んできたと思います。また哲学的に経済について述べた本も何冊か手に取りました。またこの10年は投資信託や株を購入しているのもあって、優れた経営者に関する本や投資(企業評価)に関する本も何冊か読んでいます。ちなみに私は企業の株式公開業務に携わったこともあり、資本主義のど真ん中に近い部分もわずかばかり知っています。

 

なぜ経済に関心があるかというと、私が少しばかりお金に苦労しているというのもありますが、何というか資本主義の負の面が気になるというのが正直なところです。以前ウェーバーが語った資本主義に関するエートスについて少しばかりこのブログで書いたことがあると思いますが、資本主義は暴走しだすとなかなか止まらないところがあって、幾度もバブルが崩壊しましたが、そのたびに人々の欲望を新たに駆り立て拡大してきたところがあります。資本主義が物質的に世界を豊かにしたのは間違いないのですが、労働者の疎外の問題や環境破壊の問題、格差の拡大の問題などは十分に配慮されていないような気がしています。さまざまな論者がさまざまに資本主義について語っており、多くを読んだわけではありませんが、どの論考にも一理あります。少しばかり読んだ範囲では、アダム・スミスに始まって経済学が発展してきたのですが、シカゴ学派といわれるものによって経済学は少し変質したように受け止めています。2020年代の経済はこのシカゴ学派の影響が色濃いようで、市場=マーケットの位置づけが特異だということです。

 

資本主義に対するものとして共産主義がありましたし、日本でよく研究されていた経済学者にマルクスがいますが、人によっては共産主義は資本主義の亜種、つまり国家資本主義だという人がいます。この観点にたてば共産主義は必ずしも資本主義の代替になりそうもないわけです。ならば資本主義とは何なのか? あるいはどこに新たな経済の可能性があるのかが問題になります。新たな経済を必要としていない人は大勢いるでしょうが、違った形の経済を望んでいる人たちも一方でいるわけです。私は日本は経済成長を求めたほうがいいと考えていますが、経済成長を手放せという論者はたくさんいます。彼らのほとんどは資本主義に批判的でしょう。

 

少し前になりますが、『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』という本を読みました。この本を読んでいるとアダム・スミスの経済学(自由放任主義)があって、他方その後のシカゴ学派新自由主義)はマーケットを重視しながらも自由放任でないのが伝わってきます。アダム・スミスとしばらくの間は交換が重要であったのが、シカゴ学派以後は競争が重要になったとあります。また多くの人が批判しているのは経済人の概念です。経済学は経済において合理的な人たちの存在をそもそも前提としています。この前提が間違っていたならば、経済学は作り物にすぎないことになりますが、経済学が曲がりなりにも機能してきたようにみえることからこの前提には多くの人が目をつぶっています。この経済人という前提がまずおかしいのですが、それをごまかしつくろうために政治が市場を支援するための多くの物語のバリエーション(フィクション)を作り出してきたというのが、一つの見立てでしょう。経済学は少なくとも一部分は科学であることを放棄しているようです。

 

経済とは何かという定義は大切です。経済学が物語ならば、日本式に経済を経世済民と定義した上での物語の展開は可能です。もちろん他国には他国の経済があって、中国はそれを追求している一つの例です。やり取り(give and take)が行われているところが市場=マーケットであるのですから、市場というもの自体はこの世からなくなることはありません。また経済活動を記録する手段としての簿記もなくならないでしょう。

 

今簿記を取り上げましたが、私は実は資本主義と複式簿記とはほぼ同値(論理的に同じもの)ではないかと思っています。複式簿記は約700年ほど前に生まれたようですが、今複式簿記で記録されているのは、資産、負債、資本、経費、利益などです。もしかしたら資本主義論とは簿記の構成要素の各論を集めたものにすぎないのかもしれません。web3のことを最近良く耳にしますが、このweb3上では経済のありようがこれまでと少し異なっているような印象を受けます。その経済の流れを適切に記録するよう試みれば新たな簿記の発明につながるかもしれません。新たな簿記が発明されたとして、それによって私たちの目の前に現れる経済の姿は資本主義とは異なる可能性はあります。新たは簿記論は新たな経済論につながります。

 

実際のところ私には真実はよくわからないのですが、アメリカではweb3を好まない有力者が多いようです。また中国政府も暗号資産に否定的な態度を取っているようです。一方日本は暗号資産やweb3に関して制度は遅れてはいますが、それほど否定的な態度ではありません。ある意味日本は有利な立場にあるのかもしれません。仮に日本でweb3が花開いたとして、他国から歓迎される一方強硬な圧力を受けて潰される可能性もあります。歴史はどういう道筋をたどるかはわかりませんが、しかし現段階では日本には大きな発展の余地があります。web3自体に可能性があるのか、あるいはそれを契機とした簿記の発明に可能性があるのかはわかりませんが、50年100年先に経済の姿が今と少しばかり異なっていることはありえます。

イニシエーション(通過儀礼)

 

イニシエーションという言葉があります。日本語では通過儀礼という言葉が用いられます。ウィキペディアによれば「人間が出生してから成人し、結婚などを経て死に至るまでの成長過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。」の意味だそうです。現代日本では例えば七五三や成人式などがあります。

 

さて、人は人生において時に自らが最も苦手とする事態に直面することがあります。それが何の苦にもならない人にとっては「何でそんなことで悩むのか?」と思えるようなことであっても、それが当の本人にとってはとてつもなく苦手なこと、苦になることというのがあります。しかし次の段階に進むには必ず通り過ぎなくてはならない人生の課題。本来それはイニシエーションというものとは異なるのかもしれませんが、他に適切な言葉が見つからなかったので、この言葉を使わせていただきます。イニシエーションとして他国で行われているものに、割礼や抜歯、入れ墨などがあるようで、これらは痛みと同時に精神的恐怖も伴うことでしょう。また恐怖に襲われながらある儀礼に招き入れられてみると、当初想像していたものとは異なるてん末が待っていたということもあるでしょう。人生の節目節目でそれに似たことが起こります。

 

具体的なことは書きませんが、私もこの1~2年ときにそういう事態に直面してきました。この20年くらいの間の苦労がある人のわがままともいえる思いつきで一瞬にして台無しになってしまいかねない状況です(まだそれから完全に解放されていません)。ようするに自分の人生のまあ大きな部分が私のことをよく知らない人の言動に依存した状況にあるわけです。私が進んで求めた状況ではなく、ある種の義務を遂行する上でこういうものに巻き込まれたわけです。人生設計をまったく新たにやり直さなければならないかもしれず、気持ちの上で大きな負担になっています。場合によっては20年ばかりの人生をまったく無にしてしまうようなことですから、少し大げさですが人生の部分的死を感じます。こういう状況を意図して乗り越えようとするとどこかでエゴが出てきてしまい、できるだけカルマの負債を作りたくない私はそれを避けたいわけです。ストレスも結構大きなものです。結局は何とかやり過ごすしかないのですが、ある種の死を覚悟してそういう状況に望むのはまさに人生のイニシエーションだなと思ったわけです。これまでにもこれに似たつらい状況に直面し何とか乗り越えてきましたが、何度経験してもつらい気持ちに変わりはありません。人間として成長できたのはこれらの苦難のおかげではあり、またこれらはいつかはやってくる死の予行演習でもあるのでしょうが、まったく先の見えない状況に足を踏み入れることになかなか慣れません。高所恐怖症の人は高いところで足をすくませるでしょう。ヘビが苦手な人はヘビを見て身の毛がよだつでしょう。それと同じように、人生においては何度か世界の終末に直面するかのようにどうしようもなく苦手な場面が目の前にあらわれます。おそらく誰でもでしょう。

 

死を司っている神様がいます。日本では閻魔様のことが思い浮かびます。インドではヤマと呼ばれ、それが日本では閻魔になったのでしょう。またシヴァ神も死に関係します。シヴァ神は墓場にいます。閻魔様にしろ、シヴァ神にしろ、そういう神様のもとで通常の人生の流れから切り離されてテストが行われます。次の段階に進むには必ず通り抜けなければならない関門です。学校でテストに合格しなければ進級できないのに似ています。夜明け前が最も暗い時間帯だといいますが、それにも似ています。現代においては過去に比べ恐怖や痛みを伴う社会儀礼としてのイニシエーションは減ったにしろ、実質それに似た状況には襲われます。必ずそこには学びがあるのでしょうが、必死にならなければ学びは得られない切羽詰まった状況です。私には長期間にわたるストレスにさらされながら不器用に耐える愚鈍さしかないわけですが、これまでの人生においてこういうような状況から逃げてこなかったがゆえに、今の自分があると思っています。精神的に成長するまたとない機会ではあるのですが、どうしても心地よい体験ではありません。それを通過したあとの人生がどうなるかはそれにかかっていて、人生が退屈でないのはうれしいのですが、試練であるのも確かであって、今後も何とかそれらの試練を乗り越えていきたいと思っています。

社会主義

 

今日は社会主義について書きたいと思います。とはいっても社会主義の厳密な定義を知りません。ウィキペディアによれば、狭義には資本主義・個人主義自由主義・私有制などの対義語であるとされます。また共産主義社会主義に含まれているという見解もあります。生産手段の社会的共有と管理を目指すものが特に共産主義と呼ばれるようです。私は基本的にism(主義)は何でもあまり好みません。なのでゆるやかな社会主義には多少なりとも検討に値する概念はあるのでしょうが、極端な社会主義あるいは共産主義には先入観としてどうなの?という疑問があります。たとえば、生産手段や富を可能な限り平等にするという考え方があるとします。しかしながら思うに人の欲望というものはそれぞれ異なっているのですから、生産手段や富の活用の仕方は人によってさまざまです。活用の仕方が異なれば、結果も異なります。そこから導かれるのは、格差が必然的に生じるということです。つまり社会主義共産主義が機能するためには、人々の欲望が等しくないといけないという前提が必要ですが、そうではありません。富を平等に振り分けても後々必ず不平等は生じてくるもので、それ(欲望の違いとその結果による富の不平等)を否定することはスターリンなどのような強権的な力の行使を肯定しかねないものです。なので素人から見れば、極端な社会主義あるいは共産主義はうまくいかないのではないかという思いがあります。

 

しかし、上に挙げたことはこの世的な経済に関してです。霊性の世界では様相が少し異なります。人は死に際して、その人の人生の総決算がなされるといいます。一生におけるプラスとマイナス、徳と罪が計算されますが、ほとんどの人は50を平均としたときほんの少しプラスだそうです。51、52、53くらいのものでしょうか。もしかしたらあまりにもひどい人生を歩んだ人はマイナスの人もいるかも知れませんが、多分それでも極端なマイナスではないでしょう。霊的な視点から見たとき人はほとんど平等だということです。

 

シヴォーパーサナマントラーハというヴェーダに「イーシャーナ サルヴァヴィドヤーナーミーシヴァラ サルヴァブーターナーム」(至高なるお方は、すべての知識の支配者であり、全創造物の制御者です。)というマントラがあります。すべての知識、すべての創造物は至高なるお方(神)が支配されているということです。日本では学校で平等に義務教育が行われていますが、人による受け取り方の違いもあって、知識の広がり具合には偏りがあります。ものや生物、人間の分布にも偏りがあります。それらの偏りのすべて、つまり分配具合は神によるものと受け取ることはできます。同じ文章を見ても、人が違えばそこから引き出される結論が異なるのは普通のことです。知識や物の分配に関して人間ができることは一体どのくらいなのでしょうか?また神は人の心に動機を配布するものでもあるようです。私などは意志が弱くて、自ら強い意志を抱くことはほとんどないのですが、ああしよう、こうしようというようなかすかな促しを心に感じることはまああります。そういう動機が神が各人に配布しているものならば、人間は人間の行為にどれほどの責任を伴うのかという問いが生じます。動機だけでなく、義務感をもって果たさなければならないような仕事もどこからか配られているように与えられます。つまり知識や物、人や動機や仕事などは、かなりの部分人間にはよくわからない仕組みによって分配されているように私には見えるのです。ある種の運命論ともいえます。これを受け入れるならば、霊性の世界では(おそらく公平な知性によって)社会主義は実現されているのです。

 

現実社会におけるあまりにも過度な経済的格差を是正することは必要でしょうし、法律に守られている人がいる一方法律の保護のもとにない人もいて、そのあたりの問題は社会正義として解消されるべきでしょうが、霊性の世界においてはそれなりに平等や公平さは保たれているのではないかという思いが私にはあって、なので霊的なものの見方を身につけることも大切に思うのです。私は富や知性やその他の要素において豊かな人はそうでない人を助けるためにそれらを用いるべきだという考えがありますが、多少の格差や偏りはそもそも許容範囲内です。

存在と記号

 

前々回内なる空間について触れ、そこで自己同一化に触れたエンデの言葉を紹介しました。そこでエンデは自己同一化といっていますが、心理学的に見てこれが投影とどう異なるのか厳密なところは私にはよくわかりません。もしかしたら自己同一化はそのことに対する意識があり、投影は無意識であって他者と自己の混同があるのかもしれません。そのあたりに関する疑問が自分ながら思い浮かんだのですが、詳しく知りたい方は適切な心理学の本を探されるのがいいと思います。

 

さて、内なる空間=空所に関してもう少し述べておくつもりです。この内なる空間の開発は意識の浄化といっていいものですが、一般に霊性修行(サーダナ)と呼ばれるものの目的がこの意識の浄化です。また思いと言葉と行為を調和させるよう努力する時、それらは論理的厳密さをもって一致するというよりも、音楽における和音のような意味での調和であるでしょう。この思いと言葉と行為はカテゴリーが異なっていて、たとえるならば、床と壁と天井のようなものです。これらが調和する時、そこには「空間」が確保されます。シャベルで地面を掘ると空間ができるに似て、ごくごく小さなことでも思いと言葉と行為を一致あるいは調和させるように試みていると、心の内に空間が少しずつ確保されていきます。そして思いと言葉と行為によって確保された領域が人間存在を真に支える役割を担います。この一連の作業は人を少しずつ健康にしていきます。

 

この作業が長期間にわたって続けられると、心の中=内側に何もなくなってきます。少なくとも思いは減っていきます。人間は体と心とアートマの組み合わせですが、心がなくなってくると、あとに残るのは体とアートマです。そしてそのとき、体は単なる仮面あるいは文楽に似た操り人形のようなものになります。つまり一つの記号です。人間は目に見えないアートマにシールが貼られたものに他なりません。あるいは幽霊にたとえられるでしょうか?アートマが存在でシール=体が記号です。

 

先週も取り上げましたが、チャマカムというマントラがあります。これは人間が願うべき一連のもので構成されているマントラです。人間の構成要素の全体を示しています。その最後のあたりで、「1を与えて下さい、3を与えて下さい、5を与えて下さい、7を与えて下さい、9を与えて下さい、11を与えて下さい、…、4を与えて下さい、8を与えて下さい、…」と数字の羅列が続きます。インドでは1にも3にも4にもそれぞれの数字にはそれなりの文化的意味があるらしく、その文化的意味が指し示しているものを与えて下さいという祈りであるという解釈がとられています。しかしながら、インドの文化的伝統をよく知らない私からしたら、1、3、5、…、4、8、…等の数字は記号の最たるものでして、つまりは私には「私を記号にして下さい」という祈りに聞こえるのです。各人間は一つの記号になることで人生を成就するのかもしれないと、このマントラを唱えていてしばしば感じます。

 

記号はデザイン=design=de+signでもあり、つまり引き算によって記号となるものでして、心を取り除くことで人間は記号あるいは象徴となり人生を終えるのでしょう。記念コインを集めるのが好きな人がいますが、神様も密かに人間が記号=象徴となったところのその象徴を集めて楽しんでいるのかもしれません。

 

 

超越について

 

超越というのは人間にとって一つのテーマではないかと思います。重力に引きずられた肉体とその制限の影響を多分に受けやすい頭脳が所与の条件を超越したいという願望をもつのはある意味自然なことです。今日はこの超越に関して哲学的な方面から書いてみます。

 

私は超越という言葉を考えるとき、カントのことが思い浮かびます。私は西洋的な厳密な学としての哲学の素養が少し欠けているので、カントの議論についていくことは満足にできず、カントの言葉とそれに関する適切と思われる解説を見比べてカントをごくわずかばかり理解してきました。認識のプロセスを明らかにするのが超越論的意識であるという人がいますが(超越論的ということ:カントの純粋理性批判)、今日私が書くのも認識のプロセスに関してです。認識のプロセスに関しては30年前にも書いたことがあるのですが、それとは少しばかり視点を変えたことを述べます。

 

「カント以前のヨーロッパ哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後のヨーロッパ哲学はすべてカントから流れ出した」という人がいるほどヨーロッパ哲学においてカントは欠かすことのできない人です。そのカントの哲学の素晴らしさは経験論と観念論の統合である、と私は聞いたことがあります。経験論とは哲学的真理は経験からもたらされるという説で、観念論は観念からもたらされるという説です。この経験論と観念論が齟齬なく統合されたがゆえにカントは超越について十分に語り得るようになったのだと思うのですが、その一つのバリエーションを私は語ることができます。

 

先週私は内なる空間に関して述べました。その内なる空間=空所は、私の見解によれば経験の産物です。少なくともその純粋さは経験の産物です。人生において内省と試行錯誤を繰り返して生きていると空なる領域が広がっていきます。世事に関する知識を蓄えるのも経験によりますが、より本質的なのは内なる世界=空間の開発こそが経験がもたらす最大のものでしょう。

 

有名なヴェーダマントラにルッドラムがあります。ルッドラ=シヴァ神を称えるヴェーダの一つです。ルッドラムはナマカムとチャマカムの2つからなり、ナマカムはよくないものを手放すことを教え、チャマカムはよいものを願うことを教えるという解釈があります。チャマカムでは人間にとって有益なものが羅列されていて、それは人生の構成要素の全体そのものといえるのですが、つまり私の理解では、ナマカムに従ってこの世への執着を少しずつ手放してゆけば、チャマカムの祈りの結果真の人間として生まれ変わることができるということだと思います。giving up=手放すこととtaking=受け取ることのバランス(give and take)が重要になります。人間は、この世を手放すことで内なる世界=空間に基づいた人生を勝ち得ます。

 

内なる世界=空間におけるさまざまな作業を通じて、人は時に直感=idea=観念を獲得します。適切な心の世界・空間を確保した人=経験を積み重ねた人が観念を獲得してそれを育み、人生に応用し概念化したならば、それは経験論と観念論の統合でしょう。つまりそこに超越の可能性があります。たとえばある哲学の本を読んでいて、自分の心にふさわしい自然な形で一瞬のきらめきのようなアイデア=観念がきざしたならば、それがすぐに理論付けできないとしても、超越的であることが多いものです。

 

私個人の経験からいえば、より重要なのは心=内なる空間・空所の純粋さです。これが確保されているならば、適切なものなら何を読んでも、何を見ても、何を聞いても何らかのアイデアが得られます。小さな誰もが思いつきそうなアイデアから、世界で自分しか気づいていないようなアイデアまでさまざまですが、少なくとも自分のこれまでのありようを超越するきっかけとなるでしょう。これらのアイデア=観念を生活に取り入れることで一層心は深まり、そしてそれがまた次のステップへとつながります。人生の向上の好循環が生まれてきます。人生に誠実に向き合うことを通じて経験を重ね、よき人、よき書籍などと出会うことが大切です。

 

内なる空間

 

内なる世界、内面、心の中、内なる空間などさまざまに表現できますが、今日はそれにまつわることを少し書きたいと思います。

 

「上手な役者はペルソナとなり、仮面となります。まさに、そのことによって初めて、彼は観客に自己同一化を可能にさせるわけです。すなわち、観客は、その仮面の背後の空所を、自分の自我で満たすことができるのです。観客は、その同一化を、いわば外部から体験します。」 (ミヒャエル・エンデ 『ファンタジー神話と現代』)

 

私は演劇を多くは見たことはありませんし、映画と演劇は異なるとして映画もそれほどは多く観てないでしょう。しかしそうであっても、私は上に取り上げたエンデの言葉の意味はわかります。一般に演劇でなくても、普段の人間関係においても上に書かれているようなこと(自己同一化)を無意識にしている人はいそうです。役者あるいは普段の人間関係において、目の前にいる人の背後が空所である場合があります。いわゆる感情移入ができるとでもいえるのでしょうか?目に見えるものがすべてでかつ十分なケースです。逆に私が私の空所を他人の自我で満たされることもあったと思います。たとえば何でか理由はわからないのですが、笑うべきところでないようなところで私は人に笑われることがあります。

 

柄谷行人氏であっただろうと思うのですが、彼は批評家として知られており、彼は批評家の仕事はある種の交通整理のようなものだといっていたように記憶しています。交通整理は交通量が多いところで行われます。市場は商品がたくさん集まるところですが、交通量が多いところといえば、一つに交差点があるでしょう。多くの人や車、自転車などがそこで行き交います。私はさまざまな意見が表明されている中で、それらを上手に整理することは苦手です。しかしながら私は、私の書いたものを通じて、読む人と誰かあるいは読む人と何かとの出会いがあればいいなと思っています。私の書くものに比較的多く固有名詞が出てくるのにはそういう意図もあります。つまり私は交通整理はできないけれども、一つの交差点のような場を提供したいという思いはあるのです。それはエンデのいうペルソナ、仮面の背後に似て、私の書くものの背後にある空所です。それは実際のところ私の内なる空間と多分そう異なることはないのではないかと思います。誰かと出会い、どこかから来てどこかへと向かう通過点としての場=交差点。

 

適切な何かを観たり、聞いたり、読んだりするとき、人はそれらを経験しながら同時に自らも作業をしているはずです。作業が可能であるならば、与え手と受け手の心は通じているといえます。内なる空間を提供する者が愛で満ちているならば、その場において何かと何かが確実に結びつきます。世界が一つになるプロセスとはこういう地味なことの積み重ねの結果でしかないのかもしれません。心の内といえばその人だけのもののようで、確かにそうではあるのでしょうが、しかしあたかも部屋を貸し出すようにそこを他者に一時的に貸し出すことはできます。私は若い頃そういうように著者の心の中に入り込むようにして文章を読む傾向が強かったので、今でも無意識にそうしているかもしれず、また他の人から自分が書いたものを読まれるとき、それを前提として文章を書きます。大切なのは人の書いたものの内容よりも、その人の心の中=内なる空間で遊んだ記憶なのでしょう。心と心を共有することが遊びの本質だと誰かがいっていましたが、子どもだけでなく大人もそういう遊びを楽しめる内なる空間をどこかに探し求めているのだと思うのです。

八正道

 

今日は八正道について書きたいと思います。お釈迦様の御教えの中心となるものです。ただし日本の仏教宗派においてこの八正道を生活実践の中心においているところはもしかしたら少ないかもしれません。しかしながら仏教を語る上でこの八正道は避けて通れないでしょう。

 

父が読んでいただろう本に『増谷文雄名著選Ⅱ 親鸞の生涯 歎異抄 親鸞の思想』があります。私は親鸞聖人よりもむしろ蓮如上人や妙好人に惹かれるところがあったので、親鸞聖人について書かれた本はそれほどは読んだことがありませんでした。しかしこの増谷氏の本に少し目を通してみて、とてもわかりやすいという印象があり、まだ読んでいる途中ですが、親鸞聖人に関して理解が深まるのは間違いないだろうと思っています。増谷文雄氏のこともまったく知りませんでした。この増谷氏の名著選が面白いので、アマゾンで増谷氏の本を検索し、評価の高かった『仏教百話』も注文しました。こちらも面白いです。増谷氏は阿含経原始仏教、あるいは小乗仏教に関係するよう)と日本仏教の祖師方に関する著作が多いようで、仏教の原像とでもいうものに少しばかり関心がある私も興味深く『仏教百話』を読んでいます。そこにも書かれていましたが、やはりお釈迦様の中心となる教えに八正道があります。

 

八正道はお釈迦様が求道に入られた原因である苦を取り除く解決策です。また実際のところお釈迦様が悟りを開かれたのは苦行を捨てて中道に至ったからなのですが、中道とはすなわち八正道のことでもあるようです。中道は苦行主義と快楽主義のどちらにも偏らない生き方です。八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことです。場合によっては正聞など他の要素が加わることもあるようですが、そのあたりのことは今はおいておきます。この八正道については多くの理解、解釈があることでしょう。私はそれらに精通しているわけではありませんので、今日書くことは私の個人的な理解、見解になります。

 

正見。まずは見ることから始まります。感覚器官による外界の受容です。現代的な用語ではインプットです。外界を見ることでさまざまな思いが起こります。見るものによって思いが異なります。私はかつてこのブログで正見とは色眼鏡なしで裸眼で物を見ることではないかと書いたことがあります。できるだけ偏見なく物事を観察し、そしてできるだけ清らかなものを見ること、これが正見だと思います。そこから思いが生じ、思いから言葉が生じ、思いと言葉から行動が生じます。この3つが正思、正語、正業に関係します。思いと言葉と行動の3つが邪でなく清らかであるならば、正思、正語、正業といえます。正命は正しい生活です。思いと言葉と行動を一致させる生活をしていたならば自ずと生活は適切なものになるでしょう。日々の義務を適切に果たすことも正しい生活でしょう。正精進は原語はサムヤク サーダナ(正しいサーダナ=霊性修行)のようで、つまり正精進は私にとってはサーダナを行うことです。称名、瞑想、奉仕、礼拝などなどです。正念は正しく念じること。これもさまざまな解釈はあるでしょうが、今私は正しく人生の目的を定めそこから思いを離さないことの意味に解釈しておきます。人生の目的には自らが思い定めている神仏の御名や御姿を含みます。そして正定は思い定めている目的地への誠実な歩み、あるいはそこに到達することです。以上が私にとっての八正道です。

 

中道は八正道のことで、中道は苦行主義と快楽主義のどちらにも偏らない生き方だと先に書きましたが、八正道を意識して実践するかどうかは別にしても、しかし多くの人に中道は勧めたいと思います。苦行主義にも快楽主義にもどちらにも弊害があるでしょう。それは仏道においてだけでなく、宗教とは関係なく普通の人の日常生活においてです。苦行主義にも快楽主義にも陥らないように心がけ、しかしそれが困難に感じるときは八正道を思い浮かべればいいのかもしれません。八正道は現代生活を改善するのに適切な方法論を提供すると思います。欧米で禅や瞑想をもとにマインドフルネスが盛んになり、それが日本にやってきましたが、八正道が欧米で見直されて日本にやってくるのを待つのではなく、日本人は自ら八正道を振り返り、現代に取り入れていくことができます。

国の目的

 

国(country、nation)は何のためにあるのでしょうか? 私が生まれた頃から、いえ何千年も前から国というものがあるので、国の存在は人々にとって当然のようなところがあります。現代に生きる一日本人として、あくまでも個人的な印象ですが、国は構成員(主に国民)の利害調整をし、安定的な社会を育み、古くからの文化を維持発展させるためにある、と何となく思います。それほど間違った国家観ではないでしょう。しかしここには他の日本人と同様一つの欠けている視点があります。それは国の外側にあるもの、つまり世界です。

 

キリスト教イスラム教、仏教のような宗教が民族や国家を超えて受け入れられる世界宗教になった理由について、それらの宗教は人々に一つの世界像、世界観を与えたからだという説があります。私たちの通常の素朴な認識の範囲を超えたところはどうなっているのか?そのことに対する答えを与えているから、特定の宗教が世界宗教になったのだとある人は唱えます。私も普通の日本人とそうは変わりませんので、日本の外の世界に関していつも関心をもっているわけではなく、自分の生活のことやせいぜい日本国内のことに関心が限定されがちなのは否めません。しかし国の輪郭を思い描くには、内側からだけでなく外側からも規定される必要があります。

 

サイババの言葉に次のようなものがあります。
「価値は教育のためにあります。教育は人生のためにあるということを、よく覚えておきなさい。人生は愛のためにあり、愛は人間のためにあります。人間は奉仕のためにあり、奉仕は社会のためにあります。社会は科学のためにあり、科学は国家のためにあります。国家は世界のために、世界は平和のためにあります。私たちは、この平和を獲得しなければなりません。」(『真実の探求』(p215~216)
この言葉には多くの意味が含まれていますが、今日は国に関係する部分を取り上げます。

 

「社会は科学のためにあり、科学は国家のためにあります。国家は世界のために、世界は平和のためにあります。」私たちはさまざまな社会的活動を行っています。それらの社会的活動から科学が抽出されます。社会科学や言語活動に基づいた人文科学だけでなく、特定の集団の特定の社会活動が自然科学に寄与していることも知っています。そしてそれらの科学が国家を支えていきます。そして国家の目的は世界のためになることであり、世界は平和を希求している、これがサイババの見解です。

 

国を家族に例えるのは少しばかり問題があるかもしれませんが、家族が家族だけで存在しているわけでなく、家族は家族外の人々と関わることで維持されます。それと同じで、国はおそらく原理的に見ても一国で存在できるものではないと思われます。他国との関わりが不可欠であり、人間が社会的存在であるのに似て、国も”社会的存在”であるといえそうです。家族生活が適切に維持されていてこそ、家族のメンバーは社会的に機能しやすくなるように、国もある程度の自立が確保されていてこそ、他国との関わりが機能します。

 

国が存在する目的は世界に貢献することです。さまざまな貢献の仕方があるでしょう。経済的貢献、文化的貢献、社会的貢献などなど。国の存在を考える際、私にとっては日本が母国ですが、日本が他国とどのように良好な関係を維持し、他国に貢献できているかを私は政治に期待しているところがあります。もちろん、当の日本国民が幸せで有能であってこそこれは可能です。このサイババの言葉に基づく私の観点は少しばかり特殊かもしれません。日本国憲法の前文を見た場合、他国を尊重する旨は書かれていても、他国に貢献することに関しては直接的には書かれていないように思えるからです。

 

世界に貢献するというとき、決して一部の国に見られるように他国の主権に干渉したり、価値の押しつけを念頭に置いているわけではありません。ただ日本人が母国である日本を尊重するように、他国民が母国を尊重するのに状況に従って手を差し伸べることが必要なのではないかというわけです。いわゆる奉仕活動に馴染みのない人が多い日本においては、他者を助けるということがどういうことなのかわかりにくいことがあるかもしれず、従って他国に貢献することについてもピンとこない点があるかもしれません。しかしながら、日本国憲法前文において、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」ならば、日本は世界のためにあるという意志を少しでも確保することは大切でしょう。世界にとって、他国にとって、真の友人であろうと努めることです。こういう観点は今後ますます重要になってくると思うのですが、どうでしょうか?