愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

社会主義

 

今日は社会主義について書きたいと思います。とはいっても社会主義の厳密な定義を知りません。ウィキペディアによれば、狭義には資本主義・個人主義自由主義・私有制などの対義語であるとされます。また共産主義社会主義に含まれているという見解もあります。生産手段の社会的共有と管理を目指すものが特に共産主義と呼ばれるようです。私は基本的にism(主義)は何でもあまり好みません。なのでゆるやかな社会主義には多少なりとも検討に値する概念はあるのでしょうが、極端な社会主義あるいは共産主義には先入観としてどうなの?という疑問があります。たとえば、生産手段や富を可能な限り平等にするという考え方があるとします。しかしながら思うに人の欲望というものはそれぞれ異なっているのですから、生産手段や富の活用の仕方は人によってさまざまです。活用の仕方が異なれば、結果も異なります。そこから導かれるのは、格差が必然的に生じるということです。つまり社会主義共産主義が機能するためには、人々の欲望が等しくないといけないという前提が必要ですが、そうではありません。富を平等に振り分けても後々必ず不平等は生じてくるもので、それ(欲望の違いとその結果による富の不平等)を否定することはスターリンなどのような強権的な力の行使を肯定しかねないものです。なので素人から見れば、極端な社会主義あるいは共産主義はうまくいかないのではないかという思いがあります。

 

しかし、上に挙げたことはこの世的な経済に関してです。霊性の世界では様相が少し異なります。人は死に際して、その人の人生の総決算がなされるといいます。一生におけるプラスとマイナス、徳と罪が計算されますが、ほとんどの人は50を平均としたときほんの少しプラスだそうです。51、52、53くらいのものでしょうか。もしかしたらあまりにもひどい人生を歩んだ人はマイナスの人もいるかも知れませんが、多分それでも極端なマイナスではないでしょう。霊的な視点から見たとき人はほとんど平等だということです。

 

シヴォーパーサナマントラーハというヴェーダに「イーシャーナ サルヴァヴィドヤーナーミーシヴァラ サルヴァブーターナーム」(至高なるお方は、すべての知識の支配者であり、全創造物の制御者です。)というマントラがあります。すべての知識、すべての創造物は至高なるお方(神)が支配されているということです。日本では学校で平等に義務教育が行われていますが、人による受け取り方の違いもあって、知識の広がり具合には偏りがあります。ものや生物、人間の分布にも偏りがあります。それらの偏りのすべて、つまり分配具合は神によるものと受け取ることはできます。同じ文章を見ても、人が違えばそこから引き出される結論が異なるのは普通のことです。知識や物の分配に関して人間ができることは一体どのくらいなのでしょうか?また神は人の心に動機を配布するものでもあるようです。私などは意志が弱くて、自ら強い意志を抱くことはほとんどないのですが、ああしよう、こうしようというようなかすかな促しを心に感じることはまああります。そういう動機が神が各人に配布しているものならば、人間は人間の行為にどれほどの責任を伴うのかという問いが生じます。動機だけでなく、義務感をもって果たさなければならないような仕事もどこからか配られているように与えられます。つまり知識や物、人や動機や仕事などは、かなりの部分人間にはよくわからない仕組みによって分配されているように私には見えるのです。ある種の運命論ともいえます。これを受け入れるならば、霊性の世界では(おそらく公平な知性によって)社会主義は実現されているのです。

 

現実社会におけるあまりにも過度な経済的格差を是正することは必要でしょうし、法律に守られている人がいる一方法律の保護のもとにない人もいて、そのあたりの問題は社会正義として解消されるべきでしょうが、霊性の世界においてはそれなりに平等や公平さは保たれているのではないかという思いが私にはあって、なので霊的なものの見方を身につけることも大切に思うのです。私は富や知性やその他の要素において豊かな人はそうでない人を助けるためにそれらを用いるべきだという考えがありますが、多少の格差や偏りはそもそも許容範囲内です。