愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

イニシエーション(通過儀礼)

 

イニシエーションという言葉があります。日本語では通過儀礼という言葉が用いられます。ウィキペディアによれば「人間が出生してから成人し、結婚などを経て死に至るまでの成長過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与する儀礼。」の意味だそうです。現代日本では例えば七五三や成人式などがあります。

 

さて、人は人生において時に自らが最も苦手とする事態に直面することがあります。それが何の苦にもならない人にとっては「何でそんなことで悩むのか?」と思えるようなことであっても、それが当の本人にとってはとてつもなく苦手なこと、苦になることというのがあります。しかし次の段階に進むには必ず通り過ぎなくてはならない人生の課題。本来それはイニシエーションというものとは異なるのかもしれませんが、他に適切な言葉が見つからなかったので、この言葉を使わせていただきます。イニシエーションとして他国で行われているものに、割礼や抜歯、入れ墨などがあるようで、これらは痛みと同時に精神的恐怖も伴うことでしょう。また恐怖に襲われながらある儀礼に招き入れられてみると、当初想像していたものとは異なるてん末が待っていたということもあるでしょう。人生の節目節目でそれに似たことが起こります。

 

具体的なことは書きませんが、私もこの1~2年ときにそういう事態に直面してきました。この20年くらいの間の苦労がある人のわがままともいえる思いつきで一瞬にして台無しになってしまいかねない状況です(まだそれから完全に解放されていません)。ようするに自分の人生のまあ大きな部分が私のことをよく知らない人の言動に依存した状況にあるわけです。私が進んで求めた状況ではなく、ある種の義務を遂行する上でこういうものに巻き込まれたわけです。人生設計をまったく新たにやり直さなければならないかもしれず、気持ちの上で大きな負担になっています。場合によっては20年ばかりの人生をまったく無にしてしまうようなことですから、少し大げさですが人生の部分的死を感じます。こういう状況を意図して乗り越えようとするとどこかでエゴが出てきてしまい、できるだけカルマの負債を作りたくない私はそれを避けたいわけです。ストレスも結構大きなものです。結局は何とかやり過ごすしかないのですが、ある種の死を覚悟してそういう状況に望むのはまさに人生のイニシエーションだなと思ったわけです。これまでにもこれに似たつらい状況に直面し何とか乗り越えてきましたが、何度経験してもつらい気持ちに変わりはありません。人間として成長できたのはこれらの苦難のおかげではあり、またこれらはいつかはやってくる死の予行演習でもあるのでしょうが、まったく先の見えない状況に足を踏み入れることになかなか慣れません。高所恐怖症の人は高いところで足をすくませるでしょう。ヘビが苦手な人はヘビを見て身の毛がよだつでしょう。それと同じように、人生においては何度か世界の終末に直面するかのようにどうしようもなく苦手な場面が目の前にあらわれます。おそらく誰でもでしょう。

 

死を司っている神様がいます。日本では閻魔様のことが思い浮かびます。インドではヤマと呼ばれ、それが日本では閻魔になったのでしょう。またシヴァ神も死に関係します。シヴァ神は墓場にいます。閻魔様にしろ、シヴァ神にしろ、そういう神様のもとで通常の人生の流れから切り離されてテストが行われます。次の段階に進むには必ず通り抜けなければならない関門です。学校でテストに合格しなければ進級できないのに似ています。夜明け前が最も暗い時間帯だといいますが、それにも似ています。現代においては過去に比べ恐怖や痛みを伴う社会儀礼としてのイニシエーションは減ったにしろ、実質それに似た状況には襲われます。必ずそこには学びがあるのでしょうが、必死にならなければ学びは得られない切羽詰まった状況です。私には長期間にわたるストレスにさらされながら不器用に耐える愚鈍さしかないわけですが、これまでの人生においてこういうような状況から逃げてこなかったがゆえに、今の自分があると思っています。精神的に成長するまたとない機会ではあるのですが、どうしても心地よい体験ではありません。それを通過したあとの人生がどうなるかはそれにかかっていて、人生が退屈でないのはうれしいのですが、試練であるのも確かであって、今後も何とかそれらの試練を乗り越えていきたいと思っています。