無執着の実践

 

先週の記事の題はLife is a journey, walk it! でしたが、記事の内容からみて、Life is a long trail, walk it! (人生はロングトレイルです、歩きなさい。)でもよかったかもしれません。ロングトレイルは山道を多く含んでいますが、山道でないトレイルもあります。トレイルには(荒野などの)踏みならされてできた道、 (山中などの)小道という意味があるようです。

 

今日のテーマです。今日は無執着について少し触れてみます。最後まで読んでいただければわかりますが、先週の話と関わりがあります。さて字面の通り無執着とは執着がないことです。無執着について最もわかりやすい例えをあげますと、例えば小学校の校長先生は校長室でイスに座り机に向かって仕事をします。書棚も使っているでしょう。しかしながら他校に転任になったとき、それらを手放していかなければなりません。元々それ(机やイス、書棚)は校長先生のものではなく、一時的に活用することが許されただけだったのです。銀行員が多額の現金を数えたり、出し入れしています。銀行員は日常的にそれらを扱っているにしろ、それらは銀行員のものではありません。家に帰るときや仕事を辞める時には1円たりとも持ち出すことはできません。銀行員はお金の管理を一時的に任されていただけだったのです。校長先生や銀行員が自らが用いたり管理しているものに執着をもてば、とんでもないことになります。彼らに求められているのは無執着です。

 

同じように、私たちがこの人生で扱うものはすべて一時的なものです。私たちは裸で何ももたずに生まれてきますし、死ぬときも砂粒一つもっていくことはできません。この世界のものや人で私のものといえるものは何一つありません。一時的に活用することや管理することが許されているだけです。あるいは人生の伴侶として苦楽をともにわかち合ったり、養育を任されているだけの人を家族といっているわけです。どんなに親密であろうとも関係には一定の節度が求められ、執着を育んでもそれは後々精神的な苦痛を引き起こすだけです。

 

日本語にバカという言葉があります。一説によればバカの語源はサンスクリット語のモーハという言葉らしいです。そしてこのモーハは執着を意味します。私のものでないものを私のものと思って必要のない妄想を育んだ人のこと、そしてそれによりおかしな振る舞いをしたり苦痛を味わっている人のこと、それがバカなのでしょう。ちなみに解脱はサンスクリット語でモクシャといいますが、モクシャとはモーハ+クシャヤ(モーハを破壊した)結果としての解放を意味するようです。この定義によれば、この世に生きる人は皆解脱していない人なのですから、私を含めてバカの集まりということになります。

 

人生は川の一方の岸からもう一方の岸に向かって橋を歩くようなものともいわれます。ゆっくり橋を渡ることはできますが、橋の上に家を建ててそこで生活することはしません。つまりこの世は通り過ぎる場であり、定住する場ではないのです。私は20歳過ぎの甥に「コツコツ努力をしなさい。休むのは死んだあとです。」とアドバイスをしたことがあります。20過ぎの甥はもしかしたらあと80年は生きるかもしれません。80年も努力し続けるあるいは歩み続けるのは気の遠くなることかもしれません。甥に過大な要求をしているかもしれないという思いはあります。しかし私も50数年ゆっくりとですが歩み続けてきて、そしてこれからあと仮に30年前後の人生が残っているとして、やはり歩み続けるつもりでいます。自分がしてきていないことを甥に要求してはいません。(私に子がおらず、さまざまな事情で甥は家を継ぐものです。少しばかりアドバイスをする機会があったのです。)

 

しかしながら少なくない人は、この世が安住の地であると思って、この世に家を建てこの世にずっと住むつもりでいます。その人が今置かれている状況というのはほんの一時的であるにも関わらず、橋の上に家を建てている人がいます。これは私からいえばバカ、つまりこの世の何かに大きな執着を育んだ人です。執着のない人は橋を渡りきるまで歩き続けるのみです。それが無執着の実践です。若いときはまだしも年を重ねた人が歩き続けるのはある意味大変であることは理解します。しかしそれでも人はゆっくりとでも歩き続けるべきだと私は思うのです。それは人生に対する誠実さであり、霊的であることの一つの意味でしょう。

Life is a journey, walk it!

 

人生はしばしば旅に例えられます。英語には旅を意味する言葉がいくつかあります。travel、trip、journey、tour、voyageなどなどです。今私の個人的な語感としてjourneyを用いたいと思います。journeyは通例かなり長い,時として骨の折れる旅で,必ずしも帰ってくることは意味しない(by weblio)ものを意味するようです。人生というものはそれなりに長いものであり、時として骨が折れます。そして本来帰ってくることを目的としません。さらにjourneyは主に陸上の旅であることが多いようです。人生は自らの足で歩むものであるという気持ちを込めて、walk it! というフレーズを取り上げました。

 

私は時々里山歩きをしています。滅多にないのですが、道のはっきりしている里山だけでなく道がないような里山も歩きます。山歩きに限らないのですが、旅をするときには一般的に地図とコンパスが必要です。人生においては常に新たな局面に出くわしますので、人生の旅は見知らぬ土地、見知らぬ山を歩くに似ています。地図とコンパスは必携です。山歩きを始める時によくいわれるのは、まず登山靴とレインウェアとリュックサックをそろえなさいということです。私のように低山里山しかほとんど歩かない人間でしたら、あまり高価な装備は必要ではありませんが、そうはいってもこの3つは必要です。これらは人生という旅においては最低限必要な日用必需品や住む家などにあたります。そして実際に山を歩くとなると、最近はスマホGPS機能を用いた登山用アプリがあるにしろ、私は地図とコンパスは活用していますし、それに行動食を含めた飲水、食事が必要です。登山口までは車で荷物を運べますが、登山をする際には必要な荷物はすべて自分で背負います。必要なものはリュックサックに入れますが、できるだけ荷物が軽くなるように皆心がけています。人生という旅においても、自分で背負えるだけの荷物=客観的な欲望がどれくらいなのかに配慮しなければなりません。

 

さて、人生という旅においては地図とコンパスと食料が必要です。つまり今自分がどこにいるかを理解していなければなりません。自分がどちらに進むのかを理解しておかなければなりません。人生を歩んでいくのに必要なエネルギーを得なければなりません。今自分がどこにいるかを知る地図とは何でしょうか?人は今自分が人生のどういう段階にいるかをどうやって知るのでしょうか?また人生の目的とは何かとしばしば問題になりますが、どちらに進めばいいか人はわかっているのでしょうか?人生を前進していくためのエネルギーとして何が必要なのでしょうか?これらの問いに対して各人が自らの回答を持っていなければなりません。私は私なりの地図やコンパス、食料を携えており、今日はそれについて書いておきましょう。

 

まず地図です。自分がどういう状況に置かれているのかをどのように理解しているかです。私の場合は簡単です。御名を唱えるのです。私の素朴な信仰として御名を唱えれば状況は勝手に整うと思っています。毎晩寝付く前に御名を唱えています。目が覚めて起きた時には、課題を含めて適切な明日が準備されていると考えています。朝起きた時の感情や問題意識、客観的な社会環境で自分が今どこにいるかを把握します。

 

次にコンパスです。状況や課題が与えられた時、その中でどういう方向に歩んでいけばいいかです。本当にどうしていいかわからないときは祈りを通じて愛する神仏に問いかけもしますが、愛が促す方向に歩むのが間違いないと思います。山の中で道や方向がわからない時にコンパスを確認するのに似て、大ざぱな方向はそれでわかります。しかし人によっては愛というものがよくわからないこともあるでしょう。私にとって愛とは自分を四六時中支えているもののことでもあります。

 

最後に食料です。山歩きではシャリバテ、つまり食事によるエネルギーが欠けているとバテて歩けなくなります。人生においても疲労に襲われると歩けなくなるものです。そういう時に人に勇気を与え、人生を一歩ずつ歩ませてくれるものは何でしょうか? 私の場合は師の教えに従うことです。例えば人に優しく話しなさいとか、時間を有効に活用しなさいとか、そういうものがちょっとしたきっかけとなります。それは勇気とテクニックを与えてくれます。師の教えに従っていると、人生を歩んでいる実感が得られます。私は普段食事に関しては同じようなものを食べることが多く、そして従う師の教えも似たようなものがほとんどです。でも私はそれで構いません。心がけているのは教えを実行する際の誠実さです。

 

歩行禅について以前書いたことがあると思いますが、歩くことは人の精神にも肉体にもいい影響を与えます。そして人生も急ぎすぎず自らの足で歩むようにゆっくり着実に進むのが、体や心に課題な負荷がかからず、また魂を深めてくれると思っています。人生の旅を新幹線や飛行機で急ぎたくなる人もいるでしょうが、私は徒歩の旅をお勧めます。そもそも山だと徒歩でしか歩けませんけれども。

今年の目標

 

2022年が始まりました。もう今日は11日ですが、まだ年が明けた余韻を感じています。新しい年が皆さまに健康と平安と幸福をもたらしますように。ある程度の年齢になると一年一年が勝負の年になります。一年を無駄にすれば敗北ですし、一年を有意義に過ごすことができればそれは勝利です。人生の残り時間が刻一刻と減っていくと、I am now dying.(私は今死につつある。)という言葉が真実味を帯びてきます。100%時間を活用しきればそれに越したことはありませんが、可能な限り活きた時間を過ごしたいものです。私にとって活きた時間とは愛する神仏を思いつつ過ごす時間のことです。

 

今年も目標を立てました。目標というより今年のテーマです。それは「サーダナクシェートラ」です。サーダナとは霊性修行のことで例えば唱名や瞑想、捧げものとしての奉仕(義務、行為)などのことです。クシェートラは土地、場所、聖地などの意味です。つまりサーダナクシェートラとはサーダナ(霊性修行)を行うクシェートラ(場所)のことです。何がいいたいかといいますと、あらゆる活動の場をサーダナ(霊性修行)の場と意識して過ごしたいということです。これが今年の目標です。

 

私の家の敷地はまあ広いのですが、寒い今の時期は別として暖かくなると草ボウボウになります。そこで定期的に草取りをしなければなりません。私はできるだけ除草剤を使いたくないので、その手間はかなりのものです。暖かい時期は草を抜いても抜いても、少しすると次から次へと生えてきます。今は亡き父は「草が生えたらまた抜けばいい」といっていました。当たり前のことですが、これは心に悪い思いが湧いてきたらその都度抜いていけばいいということも示唆しています。つまり私にとっては草を抜くことは、自分の心の悪い思いを絶えずチェックして取り除くことでもあるのです。単なる草取り、多大なる労力を要する草取りがサーダナになります。

 

部屋の状況はそこに住む人の心のあり様を示しているという人がいます。ならば、部屋を片付け掃除をすることも心の中を片付け、整理、掃除することになります。これもサーダナです。

 

子どもにとってはお小遣いで与えられるお金は親の血のように貴重なものだという人がいます。お金を大切にすることは親の血の一滴一滴を大切にすることであると受け取り、しっかり識別してお金を使うことはサーダナです。血液が循環しなければ身体が病気になるように、お金が適切に循環しなければ社会は病むといいます。このことを踏まえて、適切な領域で奉仕としてお金を用いることもサーダナです。

 

職場などでの仕事も給料に見合った仕事をすることは適切な部類のサーダナです。

 

もちろん瞑想や可能な限り愛する神仏の御名を思い唱え続けることもサーダナです。日常の礼拝もサーダナです。お寺参りや教会、神社などへ足を運ぶこともサーダナです。

 

街頭やショッピングセンターでもサーダナはできます。私の師は街頭に立ってそこで神を見なさいといいました。街頭で目の前を人が通り過ぎていきます。さまざまな建物や機器があります。それらを目の前にしてそこで神を見る努力をすること、これもサーダナです。

 

内在者が適切に活動できるように身体と心をいい状態に保つこと、つまり健康に配慮することもサーダナです。

 

このように考えていけば、態度次第で24時間がサーダナとなります。つまりどこにいてもサーダナはできますし、これが「サーダナクシェートラ」という言葉で実現したいことです。人生はサーダナであると受け取ることは、人生の目的を達成するのに必要な考え方です。サーダナの目的は心の浄化であり、心の浄化とはエゴの痕跡をなくすことであり、これは人生の目的に直結します。ふとした時に時間があれば、そこはサーダナクシェートラだと考えて今年は過ごすように努めたいです。

一年を振り返って

 

この記事が公開される28日を含め今年は残り4日となります。年末も押し迫ってきました。これが今年最後の記事になりますので、一年を振り返ってみたいと思います。

 

今年のテーマは、-「雑修は雑縁をもたらす」を心に留め置く-でした。そしてサブテーマは「自分の家と周囲の環境を清潔に保ちなさい。あなたと社会に健康と幸福が約束されます。」でした。正直にいいますと、どちらの目標も中途半端な状況に終わりました。本来片付けておきたかったことを片付けることが第一に取り組むべきことだったのですが(詳しいことは今年最初の記事をご覧ください)、それが果たせませんでした。他人の事情が関わってくることだったので仕方ない面はあり、私がどうのこうのできる範囲を超えていました。そして一年中このことが頭の中にありました。この一年の目標達成度は75点というところでしょうか? 

 

掲げたテーマから離れて今年を振り返ってみますと、日々の行為を毎日毎晩捧げてきたので、特に記憶に残ることはあまりなく、しかしながら夏の豪雨の影響を今年は受け、それに関連することであたふたしたことが最も大きな記憶として残っています。記憶に残るほど大変だった分、今年最も大きな学びもその時の経験になるでしょう。つまり今年は神仏から程々のテストを受けた年でありました。なんとか及第点は取れたかもしれませんが、後の人生につながるものとして活かしていきたいです。

 

年を取ると時間がすぎるのが早くなるといわれます。確かに小学生時分に比べるとそうなのですが、20数年前と比べるとそれほど時間が経つのが早くなっているわけではありません。私は比較して経済的、体力的、社会的に恵まれていないので、若い頃より苦労が減っているわけでなく、その大変な分時間が有効に活用されているからかもしれません。これから先数年間もあまり楽ができそうではありません。充実しているといえば充実していますが、大変といえば大変な人生です。

 

私の人生の最も大きな転機は1991年でした。そして2000年前後も転機でした。50を過ぎた今、生活の有りようをガラッと変えてもいいかなと思うことはあり、少しずつ舵を切っていきたいところです。後30年人生が与えられているとして、自分が取り組みたいと思う課題を3つに絞り込めてきました。課題を絞り込めてきたことは今年の成果の一つです。どれも世間的には地味な課題なのですが、自分にとっては挑戦しがいのあることです。

 

今年一年、少しでも私のブログを見てくださった方には感謝しています。ありがとうございます。ブログを書くことで自分の思考が整理され、また表現してみて初めて自分で気づくこともあります。皆様がよき年末年始を迎えられ、また新たに人生に向かっていかれますことを願っています。皆様とご家族が平安で幸せでありますように。次回のブログは少し先になりますが1月11日を予定しています。それでは。

神が働く

 

今日も先週、先々週に引き続きNine Gems(手紙集)の中から心に訴えかける言葉を取り上げたいと思います。

 

Let God work through you, and there will be no more duty.
(神があなたを通じて働くに任せなさい、そうであればそれ以上に義務はありません。)

 

これも言うは易く行うは難しの言葉、理想です。人間の体は動いています。眠っているときにすら寝返りを打ったり、呼吸しています。意識的に行っていることもあれば意識せずに行っていることもあります。神が「私」を通じて働くとはどういうことなのか? 私が日常的に行っている食事や歩行、洗面や仕事、お茶を飲むことなどは一体誰が行っているのか? 自分がしているのではないかとつい思ってしまうでしょう。私は意志が弱い人間と思いますが、それでも何らかの過失で他人に損害を与えたときは、私がその責任を追わなければならないと理解しています。

 

しかしながら少し考えたのですが、例えば次のように考えることもできます。私が日常的に光明瞑想をしていることはこのブログで何度も取り上げましたが、光明瞑想は光を自分の体の各部、そして関わる人たちやすべての存在を光で満たしていき、最後に私が光であり光が私であることを瞑想し、静かな状態でいることです。私の存在すべて、つまり体と心と魂とがすべて光で満たされているならば、自らの存在に闇がないならば、それは神が自分を通じて働いているとみなせないことはないと。光は神なのですから、闇=エゴの余地がないのですから。電化製品に電流が流れれば機能しだすように、自らの全存在が光で満たされているならば、それは光=神によって自らが機能しているとみなすことはできます。

 

このような観点から自分の日常的な行為を観察していると、神が働くといっても特別奇跡的なことや卓越したことを行っているようでもないということに気づきます。少しばかり躊躇するようなことであっても、どこかで踏ん切りをつけて判断を下しています。「私は神である」と見ず知らずの人に向かって主張はしないものの、エゴによって動いているのとも異なります。there will be no more duty. とあるように、ある意味義務的なことが大半であるように見受けられます。少しばかり手を抜いてしまったり、サボってしまいそうなことも、怠けずに行為するよう駆り立てられている気がしなくもありませんが。ありふれた特に難しくもない義務に関しては淡々とこなすことはできるにしろ、たまに決断に困るような難しい局面に出くわすこともあるでしょう。そうした場合には、「光」を選ぶ選択をしなければなりません。

 

真宗には往相回向還相回向があります。真宗においては回向は人がするものでなく、阿弥陀様が人に対してするものです。阿弥陀様が信心を与えてくださるのが往相回向だと受け取っていいでしょう。還相回向についてはあまり語られるのを聞いたことはありませんが、私の勝手な解釈では阿弥陀様が自らを通じて働くに任せること、つまりLet God work through you.に重なります。つまりLet God work through you. は私の宗教の実践上の課題といえます。そしてまさに阿弥陀様=不可思議光仏は光の仏様でもありました。真宗に教義においては、往相回向の後に還相回向があるので、信心を与えられた人こそが阿弥陀様に人生を委ねることができます。これがかねがねいっている帰依=帰命というものです。命がそこに帰すのです。

 

人間にとっての義務がこれだけなら、他のことを思い煩わずにすみ、委ね切ることの困難さはあるものの人生がずいぶんシンプルになります。私には非常に魅力的な御教えであるといえます。繰り返しますが、言うは易く行うは難しですが。

バターとバターミルク

 

今日も先週に引き続きNine Gems(手紙集)の中から心に訴えかける言葉を取り上げたいと思います。

 

Out of long churning (of) this milk of the world comes butter and the butter is ... GOD. Men of heart get the butter, and the buttermilk is left for the intellectual.
(世界というこのミルクを長い間かき混ぜているとバターが生じます。そしてそのバターこそが神です。ハート(心)の人はバターを得、(途中の過程で得られた)バターミルクは知的な人たちへ差し出されます。)

 

is left forを上のように受け取ったのですが、正直いいますと誤解しているかもしれません。間違いがある場合、以後の考察全体に影響が出てきますが、どうぞお許しください。

 

私はバターを実際に作ったことはありません。しかしヨーグルトは作ったことがあって、ヨーグルトの場合ヨーグルトと半透明の液体ができることは知っています。バターも似ていて、生クリームを撹拌するとバターとバターミルクができるようです。生クリームがバターと液体のバターミルクに分離するということです。生クリームはバターとバターミルクに分離しますが、バターとバターミルクから生クリームはできません。

 

「私たちが生きているこの世界をかき混ぜる」をどのように受け取るかが第一の問題ですが、私は「ハート(心)を開いて一生懸命この世界で生きていくこと」と理解しています。自らのハートを開かなければこの世界で生きることの意味はかなり減少するでしょうが、それが非常に大変であることも私は理解しています。愛がそれを支えてくれます。心(ハート)を開いて長い間生きているとバターが生じるとあります。私は自分なりに心(ハート)を開いて50年以上生きてきましたが、その私の実感としては、自らの身体を貫通して「存在そのもの」がそこに常にあるのを感じています。この存在を自分といってもいいのかもしれませんが、上の引用した言葉の通りそれはGOD(神)と受け取ることも可能なのかもしれません。自分と呼ぼうと神と呼ぼうとどちらでもいいのですが、存在が確かにあるのは感じています。これは私が懸命に生きてきて生じたバターの可能性はあると思います。「ハート(心)の人はバターを得」というのは心を開いて生きている人はバターを得ると理解できるでしょうし、あるいは愛や慈悲や共感に生きる人はバターを得ると理解することもできるでしょう。バターミルクはバター以外の得たものすべてと理解しています。

 

バターミルクにも栄養があるので捨ててはなりませんが、バターミルクはバターを作る過程で余分に生じたものです。大切なのは第一にバターです。バターが神であるならば、他のものは一切必要ないものといって差し支えありません。そしてバター以外の一切のものは知的な人たちへと差し出されます。宗教を語る学者には宗教的ではなく知的な人が多いのですが、彼らは例えばお釈迦様が残された聖典やイエス様の残された聖書などを知性の対象として研究します。しかしお釈迦様やイエス様方がどういう状態でいたのかについては無知です。バターミルクしか手にしていない知的な人たちはバターを知りません。バターを得た聖者方とバターミルクしか手にしていない学者との距離は非常に大きいといえます。人は聖者方の体験(バター)を手に入れようとするべきで、単に聖典バターミルク)を研究するだけでは不十分です。

 

この世に生きる人のすべてはバターを得る資格があるでしょうし、それが実際に可能であろうと思われます。

 

マントラプシパンというヴェーダの一節に次のようなものがあります。
ヨ-パーン プシパン ヴェーダ プシパヴァーン プラジャーヴァーン パシュマーン バヴァティ
チャンドラマー ヴァー アパーン プシパーン プシパヴァーン プラジャーヴァーン パシュマーン バヴァティ
(水と花を知るとき、ハートは花開き、子孫と家畜に恵まれる。
月と水と花を知るとき、ハートは花開き、子孫と家畜に恵まれる。)

 

アーパは水で愛を意味しているとされます。プシパンは花でハートを意味しているとされます。プラジャーは子孫でパシュは家畜で富を表します。チャンドラマーは月でマインド(頭)を表します。つまり「愛とハートを知る人のハートは開き、愛とハートに従って生きる人は子孫と富に恵まれる。頭と愛とハートを知る人のハートは開き、頭と愛とハートに従って生きる人は子孫と富に恵まれる。」と理解することができます。私が今ここで強調したいのは、頭(マインド、月)があろうとなかろうと、水と花つまり愛とハートさえあれば豊かな人生を送ることができるということです。バターという神を得るのに月(マインド、頭脳)は必要条件ではないということです。愛の人、ハートを開いて生きる人こそが人生を成就することができるということです。もちろん頭脳はないよりはあったほうがいいのかもしれませんが、それほどの重要性を与えないように気をつけたいものです。頭の活動が強すぎると、もしかしたらバターではなくバターミルクを求めてしまう恐れがあります。

 

頭がよかろうとあまり頭脳明晰でなくても、世の中には人がいい人というのは確かにいます。私自身もそういう人でありたいですし、関わるならそういう人と関わりをもちたいものです。それがいわゆるよき仲間(サットサング)といわれる人のことです。

ライオンを求めよ

 

以前似た言葉は目にしたことがあるのですが、最近おもしろい言葉に出会いました。次のような言葉です。
Aim at a lion and miss it rather than hunt a jackal and catch it.
(ライオンを目指してそれを取り逃がすことの方が、ジャッカルを追ってそれを捕まえるより(好ましい))
こちらのページにあるAssert your God-headという手紙の中の言葉です。

http://www.sathyasai.or.jp/mmg_cnt/202112/nine-gems-part-2.pdf

 

これは人によって受け取り方はさまざまかもしれません。要点としては、目標を高くもてというようなことです。ライオンは百獣の王であり、ジャッカルよりもライオンを手にすることを目指しなさいということです。

 

思いつくところでは、例えばライオンはアートマの知識であり、ジャッカルは世間に流布する一般的な知識と受け取ることができます。アートマの知識すなわち真の自己に関する知識は獲得するのがなかなか困難を極めるものであって、それを真摯に求めたとしても獲得できないことはあります。しかしながら、アートマの知識を求めてそれを得られないことの方が、世間にありふれる、そう例えばテレビで解説されるような知識を理解するよりも遥かに好ましいといえます。日本人の99%はアートマの知識といってもその言葉にほとんど馴染みがないでしょう。ましてやそれを求めようとする人はごくごく限られた人です。一方テレビを見るのが習慣の人は山のようにいます。ライオンが百獣の王であるように、アートマの知識は知識の中の王のようなものですが、求めてそれが得られないとしても、それを求める人の方が祝福されていると私は思います。

 

あるいは次のような例えはどうでしょうか? ある宗教の熱心な信者がいるといます。今クリスチャンとしましょう。キリスト教には「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」や「汝の敵を愛せよ」というような御教えがあります。解釈はさまざまあるようですが、普通の人にはなかなかできない御教えだと思います。イエス様を信じる人の中にこれを真摯に実践に移す人もいるでしょうが、最初から無理だと諦める人もいるでしょう。私はクリスチャンでないのでわからないのですが、これらの御教えに真摯に従った人にしか達し得ない境地というものがあるかもしれません。しかし一生懸命実践しようと心がけたにしても、途中で何度も挫折した人はこれまた多いことでしょう。これに比べたらクリスマスの晩にごちそうを買ってきて愉快にお祝いすることはジャッカルを追うようなものです。一方イエス様の御教えに、それがどれほど困難であってもなんとか御教えに真摯に従おうとすることはライオンを目指すに似ています。

 

次のような例えもできます。人生の目的として解脱あるいは束縛からの解放を目指して努力することがライオンを目指すことに似ていれば、少しばかりの富や地位を求めて努力することはジャッカルを追うに似ています。そもそも解脱というものがどういうものか容易にわかりかねるものを求めようとする人が日本にどれだけいるかということです。日本には何万とお寺があり、住職もそれに近い数だけいるでしょうが、私は解脱を目指していると嘘偽りなく宣言できる人は多分少数でしょう。実際のところ夕方になるとテレビの前に座って晩酌を始める住職のほうが多いのではないかと私は少しうがった見方をしています。

 

私個人のことを少し書いておきましょう。私は大学に進学する頃、「科学をぶっ潰したい」というような思いを抱いていました。その意図するところは、科学のせいでさまざまに自然環境が汚染されていたり、さまざまな武器がつくられたり、さまざまに機器がつくられて生活が人工的になっているのがどうにも気に食わなかったのです。それは(自然)科学に対する盲目的な信仰のためであって、そのような盲目的な信仰を世界が改めるようになってほしいというような気持ちでした。私の見るところ、(自然)科学への盲目的な信仰は科学の言語である数学に対する無知が原因でした。世界中の科学者が数学という言語に関してまったくといっていいほど批判精神をもっていないことが信じられませんでした。なので私は数学を学びつつも、数学史や科学哲学なども学び、詳しいことは書きませんが、私は学生の時にこの数学というものに対する見方の革命的変化に立ち会うことができました。当時はごく少数の方としか共有できませんでしたが、その時の変化は30年後の今の世界に広がってきているのを感じています。求めれば得られる可能性は上がるということです。

 

若い人には目標を高くもってほしいと思います。ちょっとニュースを見れば、日本人で宇宙デブリ(ゴミ)の回収を計画している企業体があったりします。汚染された海の浄化に取り組もうとしている人たちもいます。自然科学の分野でなくても、たとえば今の日本で成長と発展の肯定的なサイクルを生み出そうとするような試みも大きなチャレンジです。貧困者や自殺者を可能な限り減らそうとする人たちも大きな目標を掲げています。社会科学の分野だけでなく、人文科学の分野にも大きなチャレンジはあるでしょう。それらの高い目標は達成されない可能性はありますが、しかしほんの少し努力して得られる目標を簡単に得るよりも、大きな目標、理想を追う方が望ましいように私は思います。

 

低い目標は罪であるといいます。私は50を過ぎて残りの人生は少しずつ減ってきていますが、それでも自分なりに可能だろうかという目標は胸にしまっています。仮にそれが達成できないにしても、高い目標があれば人生をずっと前向きに歩み続けることができます。

霊的学習の方法

 

私はこのブログで霊性に関する事柄を取り上げています。広く宗教や哲学を含めた場合、そういうものにあまり馴染みのない人にとってはどういうふうにそれらを学習していけばいいのかわからないこともあるでしょう。学習の方法はいくつかあるのでしょうが、今日は私が馴染んでいる方法を紹介します。

 

私はもう30年近く霊性に関して学び続けているので少しばかりは蓄積があり、その蓄積をもとにある程度自己学習ができます。自分で霊的文献、宗教文献を読んで理解できるようになると、それが自己流であったとしても楽しいものです。他の分野にはない独特のおもしろさがあります。そういうおもしろさを体験したことのある人は、学習を継続していくことでより学びを深めることができるでしょう。しかし一人で学ぶのが少し苦手な人や、一人で学ぶための基礎を固める必要のある人は、グループ学習が役に立ちます。

 

グループ学習の方法について私が知っていることを書いておきましょう。参考文献として『スタディーサークルガイド』を挙げておきます。私は一つしか方法を知りませんが、この本にはいろいろな手法が書かれています。

 

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本の学校で学んできた人には、物事には一つの正解があると思いこんでいる人が多いでしょう。しかし霊的な場では正解は人の数だけあります。つまり霊性に関することはその人の人生と不可分であって、人の人生が他人の人生と異なるがゆえに自分なりの回答を得るように努めなければならないということです。ところが、正解は一つだという刷り込みがあまりにも強すぎるので、霊性に関することに関して思考の迷宮に入り込んでしまう人が多くいます。自分が正しいことをいっているつもりで人にやたら説教をする人がいますが、そういう人もある種同じ病にかかっていることが多いものです。霊性は自分の人生に関係することで、人それぞれ人生は異なるのですから自分の納得を大切にすべきだと、私は思うわけです。少なくとも私はそうしてきて、今の自分があります。

 

あるトピックに関する文章があるとします。まずはそれを読みます。何がトピックでありそのトピックに関して何が述べられているかを理解します。そしてそれが自分の人生とどう関わりがあるかを考えます。5分でも10分でもある程度思考が整理されるまで考えます。場合によっては、いくら考えても理解できないことがあるでしょうが、それはそれで構いません。まずはわからないということも含めて、ある程度思考が整理されるまで考えます。そしてある程度そのトピックに関する自分なりの見解がまとまれば、それが第1段階です。一人で学習している際は一旦ここで終わります。

 

グループで学習している際、それが数人であったり、10人程度であったり、あるいは100人を超える人数の場合もあります。10人程度以下ならば、コーディネーターのもとに、各人がそのトピックに関する自身の見解を述べていきます。10人人がいれば見解は本当にさまざまです。これだけといえばこれだけなのですが、しかしながらこれだけではうまくいかないことが多く、ここでコーディネーターの役割が重要になります。各人が自分の見解を述べている際、コーディネーターは一人ひとりが述べるその見解を注意して聞きます。それがそこにいる参加者皆にとって十分にわかりやすければ何もしなくてもいいのですが、もし聞く人によっては誤解が生じそうな場合は、適切な質問やコメントによって発言者の意図がそこにいる参加者に理解されるように努めます。こうすることで、各人の見解は本人だけでなく参加者全員に理解されます。これで十分です。参加者は、一つのトピックに対して多くの人がさまざまな見解を抱いていることを理解し、しかもその見解の内容自体も理解します。それによって、自らの見解に幅と深みが出てきます。他の人の意見が刺激になりはしますが、大切なのはあくまでも自身の見解です。これが第2段階です。付け加えておきますが、トピックによっては自身の見解をまとめることができない人がいて、そういう人がいた場合にコーディネーターは適切な質問やコメントによってその人が自らの見解を得るのを助けることはできます。

 

非常に人が多くて全員が見解を述べることができない場合にも学習はできます。前提として各人がトピックに関する見解をもっているのが好ましいのは変わりません。たとえば100人で勉強会をする場合、数人が代表して見解を述べたり、彼・彼女らが意見交換をするのを他の人が観察することで、一つのトピックに関して多面的な見解が存在することを理解し、それを通じて自らの見解を深めます。この場合もコーディネーターには代表して見解を述べる数人の人の意見がそこにいる多くの人に理解されるよう適切に関与することが求められます。

 

第3段階は自己学習あるいはグループ学習で得られた自らの見解を自身の人生、生活において実践することです。この実践がなければすべての学習は無意味なものとなります。時間の無駄です。食物は食べて初めて体に力を与えるように、霊性においては学びを実践して初めて生活の力となります。本当にゆっくりではありますが、人間性が向上し人生に深みと味わいが出てきます。

 

人生は生まれたときから始まっているのですから、幼いとき若いときは手法に工夫がいるとしても、霊的学習は若い頃から始めるべきです。私は幸いにも20代の半ばから学びを開始することができて、日本人としては恵まれていたと思います。今も日々学んでいます。私の場合は今一人で学んでいますが、人の書いたさまざまな体験談や霊的トピックに関する話を聞いたり読むことを通じて他者の見解に触れています。私はこのブログで毎週何らかのトピックについて触れていますが、このブログを読んでくださる方にとっては他人の見解に触れる機会になっていることと思います。大切なのは各人自身の人生です。自分なりの理解、見解が大切であって、それを人生に取り入れるきっかけになれば学習は学習の名に値したといえます。他の人の意見はあくまでも参考でいいのです。

両親を亡くして

 

あまりプライベートなことを書く必要はないのですが、一つの区切りに頭をよぎるいくつかのことを書き残しておきたいと思います。私の母は12年前に亡くなり、父は2年前に亡くなりました。私の親は二人ともこの世にいなくなりました。もしかしたら母は生まれ変わってどこかにいる可能性がありますが、そうであったとしても私には確認できないことです。親との関係は人それぞれでしょう。良好な関係である人もいれば、多少なりとも不仲である場合もあります。しかしながらいま両親がいない身となってみれば、親がいい人であるとかあるいはそうでなくとも、親の存在というものは大きいのではないかと思います。母親が亡くなったときにはまだ父がいましたけれども、父がいなくなった今となってしまえば、何というか子である私を雨風から守っていた屋根がなくなったような気がします。親がどのくらい意識していたかはわかりませんが、親は自らの背に重荷を背負い、子の負担を担ってくれていたのは間違いありません。親が亡くなってみれば、親が背負っていたものを自分で背負わなくてはならなくなります。何かそういうものを感じるわけです。

 

子が幼い時に亡くなる親もいて、それに比べれば私の親は私がある程度の年になるまで生きていてくれたので感謝しています。今のような長寿の時代では子が70を過ぎても親が健在なことはあるでしょう。場合によっては子が70を過ぎて死にそうなのに親は元気であることすらあるでしょう。私はほぼ平均的な年齢で親を亡くしました。こういうことをいうのはどうかと思いますが、親より早死することがなく、親を見送ることができただけでも恵まれていたと思います。両親ともにほぼ家で最期を迎えることができ、親の希望に近い形でした。

 

母を見送り、そして父を見送って2年。少しばかり遺産や遺品の整理をし、気持ちも落ち着きを取り戻してきました。「親が死んで3年間は家の風(ふう)を変えるな」と世間でいっているのを私は聞いたことがありますが、親がいるといないとで多少なりとも気の使いようが違い、自分のやり方で何かを行うことはあるにせよ、遺産や遺品の整理をある程度してしまわない内は、家の風(ふう)を変えようという気持ちはわいてきません。多分多くの人がそうなのではないかと思います。人によっては親が亡くなって10年も20年も遺産や遺品の整理に手が付かない人がいるでしょうが、やはり親の存在が大きかったのです(長年連れ添った配偶者の死でもそうかも知れません)。

 

少し前になりますが、気になる文章に出くわしました。

 

Every human being has two bodies: one's own and that of the progeny. The duties of study, teaching, repetition of the name - these assigned tasks are handed down by parent to child at the time of death, and they are carried on by the child as the representative of the parent and on their behalf.(Upanishad Vahini p46)
(すべての人間には2つの体があります。その人自身の体と子孫の体です。学習、教え、御名を繰り返すという義務、これらの割り当てられた仕事は両親から子どもへと死の時に手渡されます。そして子によって親を表すもの、そして代わりとして引き受けられます。)(英語の訳が拙いのは許してください)

 

この文章によれば、私は親の背負っていた義務を親の死の際に引き継いだわけです。私個人の問題なのか、あるいは世間一般でもそうなのかはわかりませんが、親がやり残したことをやってしまわなければならないというような、親の仕事を引き継ぐ感覚が私にはありました。ある種親のカルマを引き継いだわけです。なので自分の人生の重みに加え、それとは別のものを身に引き受けたような感覚が確かにあります。実際、私の祖父母が亡くなった後で、母親も父親も大変な目にあいました。たまたまなのかもしれません。私も両親が共にいなくなって少しばかり大変です。私には妹がいますが、妹の様子を見るに妹も妹なりに大変な目にあっています。私の家族の問題なのであって一般化は必ずしもできないにしろ、他の方の意見を少し聞いてみたい気がします。両親ともに亡くなった後、大変ではなかったかと。

 

あの世にいる人は、この世に生きている時に親しかった人の肉体を通じてこの世界を体験していると、本当かどうかわかりませんが、そういうことも聞いたことがあります。ならば私の親も私や妹の人生をあの世からのぞいているのかもしれません。私はついそういうことを考えてしまいますので、親が亡くなってもすぐそばにいるような気がしており、その意味では寂しさというものは少ないです。

 

今日は親の死に関連して、私の死生観の一端を書いてみました。私のような死生観の人は少ないかもしれませんが、もしかしたらそれなりに多いかもしれません。それはそうと、この記事が公開される11月23日は私が大きな影響を受けたサティヤ・サイババがこの世に来られた日です。1926年のことですから、もう満95年になります。私はサティヤ・サイババがいてくださったおかげで、困難ではあっても幸せな人生を歩むことができ、大きな感謝の念を抱いています。気持ちを新たにこれからも歩んでいきたいと思っています。

神々とブラフマン(あるいはGod)

 

今日はさまざまな神々とブラフマンあるいはGodとされるものについて書きます。今さまざまな神々という言葉で表したいのは、多神教であるインドでしたらインドラ神、ガネーシャ神、ラクシュミー女神などなどのそういう神々のことです。個人的には仏教でいうところの阿弥陀仏や諸菩薩なども含んでいいと思っています。一神教ですとこういう神々は少なくとも建前上いないはずです。多神教的な要素のあるヒンズー教や仏教、あるいは神道も含めていいと思いますが、そういう宗教における神々の考察です。ただ私に十分な理解が備わっているわけではありませんので、あくまでも現時点での私の小さな思考の跡といっていいくらいのものです。

 

私には一神教的な要素があります。基本的にすべては一つであり、神も一つであり、その一つのものをブラフマンといったりGod(神)と呼んで、それを普通に受け入れることのできる人間です。しかしながら一つのものをさまざまな名で呼ぶことができるのもまた真実です。地球には海は唯一つしかありません。しかしその一つの海が太平洋と呼ばれたり、インド洋と呼ばれたり、北極海と呼ばれたり、瀬戸内海と呼ばれたりします。海には無数の名があります。それと同じように、一つであるところのブラフマンあるいはGod(神)がガネーシャ神、ヴィシュヌ神阿弥陀仏、アマテラスなどと呼ばれていると誰かが主張しても私は受け入れることができます。人にはそれぞれ好みの名があり、その好みに他人が口出しする必要なまったくないからです。

 

しかしながらもう少し詳しく書いてみましょう。インドではインドラやヴァーユ、アグニなどの神々は役割であるとの説があります。たとえば日本には総理大臣や外務大臣文部科学大臣などの役職があり、役職をいろいろな人が交代で務めています。それと同じように、インドラやヴァーユという役割を人間の魂のようなものが交代で務めているという説があります。実際のところ、インドラの役割を担うよりも人間として生まれることのほうが尊いという意見があり、神々をそのように受け取ることもできます。

 

ヴェーダにはドゥルガースークタムやガネーシャアタルヴァシールシャムなどのように神々の特徴を記述するマントラがあります。私の理解では、それはブラフマンの性質のうちのごく一部を特徴的に備えているものに特定の神の名が与えられているような感じです。ブラフマンの性質の特定の一群はその神のある種キャラクターのようなものです。それに魂が宿ることでその神が機能するということもあるでしょう。あるいはブラフマンの性質の特定の一群というもの自体が魂のようなもので、それにブラフマンが浸透して機能しているのかもしれません。人間がアートマであるように、神々もアートマであるわけです。なので、私からすると、ブラフマンと人間はかなり異なりますが、人間と神々は意外に近い存在です。

 

神々の実体がどのようなものであるかは別として、とにかく人は自分の好む名と姿の神を崇めます。女神様を愛する人もいれば、太陽神を愛する人もいます。仏教ですと観音様を愛する人もいれば、大日如来愛する人もいます。人が自らが愛し崇拝する対象に祈りを捧げ、崇めるならば、私はその思い自体が崇拝の対象を形作るとさえ思っています。ガネーシャというのは一つの「箱」で人々がガネーシャ神を崇めるその思いはガネーシャ神を満たし、ガネーシャ神が確かに生きたものとなる。そしてガネーシャ神はその特性に従って機能し人間に恩寵を授ける。人間と神々は支え合っているといえます。話が少し世俗的になりますが、それは現世においてブランドが機能するのに似ています。私たちが買う商品の特性を知らずとも、有名ブランドのものは確かなものであると思い、ブランド品はよく売れますが、それは多くの人がそれをブランドとして理解しているからです。その意味で私たちの思いは神々ですら創造するといえるのかもしれません。

 

しかしブラフマンあるいはGod(神)と呼ばれるものはそれとは異なります。ブラフマンからしたら、人間という輪郭はないに等しいようなものです。ブラフマンからすれば人間こそが創造されたものです。これは私が唯一なる者の存在を容易に信じることができるから主張できることです。

 

以上の考えにも関わらず、私は神々を崇拝することとブラフマンを瞑想することにほとんど区別をつけません。何を愛し崇拝しようと、人間の思いに応じて人間はその応答を得ると思っているからです。瀬戸内海を大海だと思わなくても瀬戸内海は海の恵を与えてくれるでしょう。便宜的にブラフマンと神々を区別しましたが、大切なのは人間の真摯な思いです。哲学者は神々とブラフマンあるいはGod(神)を区別して論じてもいいでしょうが、私はそれほどの重要性を感じていないのが正直なところです。

個我と神我

 

個我、神我と「我」という字を用いていますが、エゴのことを取り上げるのではありません。私が読む文献においてジヴァアートマを個我、パラマートマを神我と訳していることが多いので個我、神我という日本語を用いるだけです。アートマは真我selfのことですが、今までこのブログで私がアートマという言葉を用いる際神我(パラマートマ)の意味で用いてきたつもりです。一方先週魂について少し触れましたが、この魂は個我(ジヴァアートマ)といっていいものです。ジヴァアートマ個我はそれ以上分割できない単位としての人間存在individualを指し示す言葉です。一方パラマートマ神我を私はブラフマンと同じ意味で受け取っています。

 

結論からいうと、私の見解としては個我ジヴァアートマ=個人の魂=輪廻するものとは、魂にアートマが浸透しているものです。魂ですらアートマが浸透していなければ物体のように不活性なのではないかと思っています。魂+アートマ=ジヴァアートマです。私が普段用いるアートマはパラマートマ=ブラフマンを意味しているつもりで、これは全宇宙に浸透していて、更にそれを超越するものです。それ以上のことは私の理解の限界を超えています。

 

先週鏡としてのこの世界に映った自己像を魂として考えました。鏡に映るものとして、一般に考えられている人間存在以上のものが考慮されえますが、有名なヴェーダマントラであるナカルマナーには次のような詩節があります。

 

ダフラム ヴィパーパム パラメーシマブータム ヤト プンダリーカム プラ マドヤ サグスタム
(肉体という砦の中に、非常に小さな、非の打ち所のない至高の真我の住まいがある。あたかも都市の中心部にある宮殿(プラ マドヤ サグスタム)のような、心の蓮華の中に真我は宿る。)

 

ここに「都市の中心部にある宮殿」という言葉が出てきます。人間の魂というのは、私は思うのですが、単なる人間を超え、社会や世界を包摂した社会像、世界像なのではないかと。上のマントラでは都市の中の宮殿という表現がされていますが、魂とはそういうものであろうかと想像します。少なくとも私の実感としてはそういうところはあります。そしてそのなかに真我(アートマ)はあるとされます。本来好ましくないことではあるのですが、瞑想中に湧き上がってくる思いにはさまざまなものがあります。それは例えてみれば、ゴミで汚れた都市のようなものであり、一方邪念を含め想念がない瞑想はきれいに掃除された都市のようなものでしょう。私は光明瞑想というものを日常的に行っており、毎日ハートに光を迎え入れ、そこで蓮華が開花する様子を思い浮かべていますので、上のマントラの詩節は個人的にはかなり具体的な表現ではあります。

 

先週は魂ですら幻であると述べましたが、人はある時を境に自らを肉体と同一視しなくなり、また後に自らを心と同一視しなくなり、それと同じようにいつの日にか自らを魂と同一視しなくなる日がくるということです。行為の道は肉体と関係があり、帰依の道は心と関係があり、英知の道は魂と関係があり、行為-帰依-英知を超えたその先に無執着があるといいます。花は青い柿の実をつけ、青い柿は熟れて赤くなり、赤い柿は熟して枝から自然に落ちてしまうように、この無執着の境地は人間の成熟の後に自然の過程としてやってくるものなのでしょう。

 

今の時点で輪廻から解放された人がどういう状態なのかを推測するに、死と生の区別がない状態かもしれないなと思います。人間はいつの日にか肉体を脱ぎ捨てますが、その肉体を脱ぎ捨てる過程において動揺というものが一切なく、死の前後で何ものも変わらない状態。つまりNo birth, No deathの境地です。