3-1=1

 

一般的には3-1=2です。しかし3-1=1なる方程式が存在します。3つのものがあります。実体と鏡と鏡に写った映像の3つです。この3つの内鏡を取り去ると鏡に写った映像もなくなり、実体だけが残ります。それが3-1=1の意味です。この方程式はサイババが取り上げていました。

 

今私というものが何なのかはさておき、一つ私というものがあります。これが実体です。さて実体の前に鏡を置きます。今取り上げる鏡は朝晩に顔をのぞき込む鏡のことではありません。銀箔の上にガラスを置いた鏡は肉体を映し出すだけです。肉体だけではなく心や魂も映し出す鏡を考えます。それはこの世界です。もう少し具体的にいえば、感覚されるもののことです。目で見えるもの、耳で聞くことのできるもの、触れることのできるもの、匂い、味覚です。それにさらに付け加えれば仏教では以上の五感に加えて心を加えて六識といいますので、心の痛みや喜びも含めることもできます。つまりこれらすべての感覚されるものが鏡です。

 

目で何かを見ます。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。耳で何かを聞きます。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。私たちは心と体で何かを体験します。それに対して私たちは何かを考えたり行うことがあります。感覚されたものに対してその反映、反響、反動はこの世界=感覚されるものに映し出された「私」です。この世界に生きる私たちは四方八方を鏡で覆われた部屋にいるといえます。ある種の動物や鳥は全面鏡で覆われた部屋に入れられると、自らの姿を見て攻撃を始めるといいます。人間の中にもこの世界でやたら攻撃的な人はいます。あるいは全面鏡で覆われた人の中には落ち着きを失ってしまう人もいるでしょう。あるいはそれがすべて単なる映像だと知って穏やかな人もいます。

 

私たちは生まれたとき、つまりこの世に放り込まれた瞬間から心が活動し始めます。この世界を見て(知覚して)心はそれに反応し、心は何物かを作り続けます。たとえば科学というものは、何かを見て想像力が喚起されてその想像の領域を数式や論理で補強したものが基盤です。誰かと付き合います。長年付き合えば、その人はこういう人だというその人の像ができあがります。家事を長年やっていると、手を抜いていい部分ときちんとしておきたい部分を分けて対処することがあります。その人なりの「家事」ができあがります。私の見解では、このようにこの世界を見て(知覚して)心は自らにとっての存在(existence)を作り上げます。「私」というものが鏡なるこの世界に映し出され、映し出されたそれを少しばかり修正した「自己像」というものができあがります。確か西洋哲学では語られるものが存在するものだといわれていたと思います。私たちが馴染んだものについて私たちはある程度語ることができ、それが「私」であるとされます。

 

おそらくですが、人間が死んだときにもっていけるのはこの「自己像」です。富も家族も地位も名声も肉体ももっていくことはできません。ソウルメイキング(魂の形成)という言葉がありますが、「自己像」の形成は魂の形成であり、魂とそれに関わりがあって魂に溶け込んだ思考(心の断片)こそが私のすべて、あるいは輪廻するものです。魂というものはこのように考えれば存在するものです。

 

存在(existence)、真理(truth)、現実(reality)などの言葉があります。これらの言葉はなかなか区別し難く、他文化ではどう区別しているのかよく知りませんが、私は存在は上記のように受け取り、真理truthは時間や空間によって変化しないもののことと受け取り、現実realityは先週のべたように夢dreamと対比されるもの、真理の所在地のことと今は受け取っています。

 

クリシュナムルティに次のような言葉があるようです。
「自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです。」
ここにも「私」と「鏡」と「私の姿」という3つが出てきます。強いていえばここでは自らの心や魂を観察しているのですが、それすらも幻であると理解したならば、私たちは進化の終着点に到着することになるのかもしれません。

self realization(自己実現)

 

self realization(自己実現)にはいろいろな解釈があります。ほとんどの人がそれを達成していないので、それにまつわる推測しか耳にすることはありません。私がself realizationの定義としているのは、experiencing of the Atma as Reality(アートマを現実として体験すること)です。self realizationに関して最も不満なのはそれが自己の悟りと訳されることがある点です。それが間違っているとはいわないけれども、小悟と大悟がごちゃまぜになったり、単なる知識と混同されてしまうのではないかという心配をしてしまいます。この意味でself knowledgeならば自己の悟りと訳してもいいのではないかと思いますけれども。強いていえば、自己の悟りを得たとして、その気付きが単なる一時的なものではなく24時間維持して生きることが真の自己実現といえるものではないでしょうか?

 

歴史的にself realizationが多くの探求者をひきつけてきたのですが、一方他のrealizationというものも考えられます。たとえば私はサイババを師としているつもりですけれども、自らの生活の中で可能な限りサイババの御教えを取り入れようとしています。彼の御教えは非常に多いので、特に私の宗教である真宗の御教えに関連の高いものを中心に取り入れています。そんな中で、たとえばサイババの御教えを24時間実践するとなると、それはsai realization(サイババの実現)といえなくもありません。いえもしお釈迦様の御教えを24時間実践するとなるとそれはbuddha realizationで、イエス様の御教えを24時間実践するとなるとjesus realizationといえるものでしょう。それが真の宗教であるならば、その御教えを24時間実践するならば、効果としてself realizationと同じものが得られる、つまり人生の目的を成就することができるはずなのです。

 

近代インドの聖者であるラーマクリシュナパラマハンサは、ヒンドゥー教の聖者でありヒンドゥー教の教えに従ってサマディ(三昧、涅槃)に達した方ですが、彼はイエスの御教えも試しており、イエスの御教えを実践することで等しくサマディ(三昧、涅槃)の境地に達することができると実際に体験しています。私はラーマクリシュナのような器用さも霊的卓越性もないのでさまざまな御教えをいろいろ試す余裕はないのですが、彼の体験が示唆するものは大きいと思うのです。

 

一般にself realization(自己実現)を求めるのは英知の道を歩む人であるかもしれませんし、一方私が上に書いたsai realizationやbuddha realizationやjesus realizationは帰依の道といえるでしょう。しかしながらたどり着くのは内なる神性のrealizationつまり内なる神性がリアルなものとして体験されるということです。神性divinityがselfと呼ばれたり、saiと呼ばれたり、buddhaと呼ばれたり、jesusと呼ばれたりするだけのことです。buddhaと呼ばれたものが日本では仏性とされるものです。

 

たとえばsai realizationのことを語れば、saiの御教えを実践するということはsaiの性質を自分の一部とする試みなわけで、それを24時間何十年も実行し続けることができたならば、私の本性とsaiの本性は似てくるのは間違いないでしょう。buddhaやjesusについても同じことがいえるわけです。なので私はself realizationだけにこだわらず、sai realizationやbuddha realization、jesus realizationも同じように世間に広まればいいと思うのです。すべては同じ実現です。つまりリアルなものとして体験することです。「名は多くても実現は一つ」といえます。

 

realizationというものを考える上で、何がreal(現実)なのかが大切です。普通の人には私たちが知覚する外界、この世界がリアルなものとして受け取られます。しかしたとえばself realizationという観点からは、self(自己)が現実でこの世は夢です。眠っているときに見る夢がnight dreamであるのに対して、起きているときに見ている外界はday dreamです。realizationはdream(夢)との対比で考えたときに意味をもちます。問いとなるのはselfとこの世界のどちらが現実かということです。

横超

 

先週書いたことに関連して、仏教特に浄土真宗で用いられる横超という言葉に関して今日は書いておきます。なかなか難しい言葉ですが、素人であるがゆえに書けることもあるでしょう。親鸞聖人が強調されたことから一般に真宗では横超という言葉が竪超という言葉に対して用いられます。竪超は真宗以外の宗派のあり様を指すことが多いようですが、合理的に道筋を立てて漸進的に問題に対処することのようです。それに対して横超は理論や段階と関わりなく問題を超えていくという意味合いのようです。親鸞聖人にとっては、阿弥陀様にゆだねたらどんな人でもすでにすべての問題は解決されたことになります。私個人は、ゆだねるべきものにゆだねさえすれば、すべては解決されたも同然という点に関しては同意できます。ある意味真宗が頓教(たちまち成就する教え)であるのは確かです。しかしながら私のわずかばかりの体験に従えば、ゆだねた後でさえも「油断」せずに日々の生活において地道な努力をする必要があり、漸教(少しずつ成長し成就へ向かう教え)の側面はあります。

 

先週次のように私は書きました。
「神への愛とは神へ向かって歩むことであり、神へ向かって歩むことは人間社会(人間関係)から少しずつ離れていくことを意味します。一方で人間は本来社会的存在です。人間社会から離れることは多少なりとも不安を伴います。それを補うのが祈りということになります。」
神への愛は帰依であり、日本の仏教宗派の中では帰依の側面を最も強調するのが真宗です。帰依は全託(すべてをゆだねること)によって成就します。

 

詳しく学んだことはないのですが、西洋と西洋の影響を強く受けた地域では弁証法が強調されます。ヘーゲルの名が有名です。ある命題とそれに矛盾する命題がその2つを止揚した(本質的に統合した)命題に置き換えられることといっていいのでしょうか?これが正確な理解かわかりませんが、思考によって真理を探求する一つの手法なのでしょう。この弁証法仏教用語でいうところの竪超といっていいものです。他国は知りませんが、現代日本ではこの竪超が幅を利かせています。一方先週の私の言葉にあるように、神への愛に従って人間社会から少しずつ離れていくことは、ある意味理屈を超えたことであり、横超といえそうです。

 

コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』の日本語訳が発売されたのが1988年のようですが、私は多分これが発売されてすぐに読んでいます。ニーチェなどはアウトサイダーらしい人ですが、プラトンアウトサイダーとして扱われていたかもしれません。この本に取り上げられたアウトサイダーたちは際どい人が多いですが、帰依の道を歩み社会から少し距離を取る人もある意味アウトサイダーです。ただし心の中は至って平穏で社会人としてはごく常識的な人が多いのですが。コリン・ウィルソンはその本で西洋の弁証法的なあり様=竪超に異議を唱えたかったのかもしれません。

 

親鸞聖人はある意味アウトサイダーだったのでしょう。中心的な社会関係の外部にいるものは、内部にいるものと社会との関係が異なります。内部にいる人たち同士の関係はある意味互酬(お互いにやり取りする)でしょう。外部にいるもの、今は神を愛するもの=帰依者たちのことを取り上げますが、彼らは社会とどう関わるのでしょうか?私の見解では、帰依者たちは義務によって社会とつながるのです。ただ義務を果たすことが主眼になります。実際のところ、すべての行為は捧げものとして行われています。それによってどのような人生が待ち受けているか? いえその人はすべてを委ねるだけです。また、先週取り上げた祈り-言葉-行為の三つ組は横超の生活原理といえます。

 

現代は竪超に嫌気を感じ、竪超とは別の生き方を探している人がまあいると思います。それに対して横超という生き方は一つのモデルになるでしょう。私はそこに可能性があると思うのです。今日取り上げたのは、私独自の横超の解釈ではありますが。

河合隼雄氏3

 

前回、前々回に引き続き、河合隼雄氏の講演集『「日本人」という病』から題材をとって少し書いてみます。今日は第2章の性を生きるから、ロマンチック・ラブに関する引用をしたいと思います。

 

やはりエロスというのはすごい情熱ですから、ものすごい迫力を神に向けて神と合一するような方向にまで高めていくことはできないだろうかと考えて出てきたものが、西洋のロマンチック・ラブというものです。(静山社文庫p81)
西洋ではキリスト教が非常に大事なものであったのですが、自然科学がだんだん発達してきて、単純に神の存在を前提とした神との一体感というものが薄れてくる。そういう宗教体験が薄れてくるにつれ、ロマンチック・ラブの株が上がってきたというのです。これはなかなかおもしろい意見です。ずーっと前は、恋愛なんてそんなに至上のものではなかったわけです。至上のものは、やっぱり神の問題です。人と神の関係が一番大事だったわけです。(静山社文庫p116)

 

河合隼雄氏は上に引用したようなことを書かれています。ロマンチック・ラブは本来神と人間との間のものだったのが、その不可能性を前提とするようになり、それが人間同士の間の関係にもちこまれ、人間同士の合一に至上の価値が与えられるようになったとのことです。詳しいことに関心のある方は本を読まれて下さい。私は西洋の文化をほぼ知らない人間なので、河合氏がおっしゃられているのが適切な理解なのかは知りません。

 

人間が他者、多くの場合異性に惹かれる思いが強烈であることは私なりに理解しているつもりですが、日本人だからでしょうか私はロマンチック・ラブというものをあまり意識したことはありません。恋愛至上主義者でもありません。恋愛結婚の人より見合い結婚の人のほうがより幸せになるというデータもあります。(「選択の科学」という本でかつてそれを目にしました。)異性同士が多数派でしょうが二人の人間が惹かれるその状態をオブラートで包んで表現したものの一つというふうにロマンチック・ラブを受け取っています。

 

しかし引用した河合氏の言葉には興味を引く記述があります。「エロスというのはすごい情熱ですから、ものすごい迫力を神に向けて神と合一するような方向にまで高めていくことはできないだろうか」の部分です。西洋人の多くはそれは不可能ではないかという理解をしたようです。一方で、インドでは神との合一のことをヨーガといいますが、その最も簡単なものがバクティ・ヨーガだとされます。バクティとは神への愛のことで、神をひたすら愛することが最も簡単に神と合一する方法だということです。インドでは神を愛することが最も簡単な道だとされる一方、西洋ではそれは不可能だと受け取られるほど困難だとされたわけです。インドでいうところのバクティ(神への愛)にエロスの要素がどれだけ含まれているのかは定かではありませんが、愛は愛です。フロイトが性のエネルギーが創造のエネルギーだと述べたように、バクティを支えるエネルギーにそういう類のエネルギーが少しばかり混じっていても不思議ではありません。インドでは長年にわたる神への愛は最終的に純粋で普遍的な愛へと昇華されると受け止めている、ような気はしています。

 

神への愛とは神へ向かって歩むことであり、神へ向かって歩むことは人間社会(人間関係)から少しずつ離れていくことを意味します。一方で人間は本来社会的存在です。人間社会から離れることは多少なりとも不安を伴います。それを補うのが祈りということになります。
The words you utter, the deeds you do, the prayers you make must all be directed along the same path  - SriSathyaSaiBaba
(あなたが発する言葉、あなたが行う行為、あなたがなす祈りはすべて同じ道筋に沿って方向づけられているべきです。)
という言葉があります。私の見解では出発点は祈りです。真摯な態度で祈るとき、自らの心を満たす純粋な思いに気づくことができます。そしてそこから言葉が派生し、言葉と調和のある行為がなされます。人間とは結局のところ思いと言葉と行為の調和のことですが、神へ向かって歩むことを始めた人こそが祈りを習慣とすることができるのならば、神へ向かって歩み始めること、つまり神を愛することが人間としての生の始まりです。

 

このように河合氏が解説するところの西洋の愛(ロマンチック・ラブ)と私が現時点で理解している神への愛(バクティ)とはかなり様相を異にするものです。近現代日本は西洋以外の文化に目を閉ざしてきましたから、愛に関する視野が制限されているのは仕方ありません。愛に関してもインドから多くを学ぶことができることを日本人に知ってほしいという思いはあります。また西洋的な受け取りでもインド的な受け取りでもなく、愛が心にきざしたときまずそれに自ら誠実に向き合う態度はあっていいでしょう。私個人は日本人の伝統的な愛の受け取りはインドに近いような気はしています。

河合隼雄氏2

 

今日も河合隼雄氏について少しばかり触れます。河合氏はさまざまな仕事をなし、多様な側面をおもちであって、直接お会いしたこともないので、先週取り上げた本『「日本人」という病』の紹介をもう少しさせていただくだけです。この本は第1章 日本人を生きる 第2章 性を生きる 第3章 自分を生きる 第4章 死を生きる の4章からなり、私は第1章と第4章が特におもしろかったです。先週は第1章から引用しましたので、今日は第4章から引用しましょう。

 

「一方で自然科学の知というものは非常に大事で、我々はこれなしでは生きていけない。しかし、実はそれだけではなくて、神話の知、たとえばギリシャであれば四頭立ての馬車に英雄が乗って現れてくる太陽の姿のようなものが必要なのです。
 その際、重要なことは、ギリシャ人は太陽に関する神話をすごく喜んで話しているから太陽が丸いことを知らないのかというと、ちゃんと知っているということです。しかし、自分の内的体験を語るときには神話のほうがよっぽどピッタリくるわけです。」(静山社文庫p243)

 

よくいわれることですが、自然科学は観察者(人間)がいるのですが、観察者(人間)を排除した理論を作り上げます。科学万能時代における人間の疎外の問題がここから生じてきます。私はこのブログで何回か科学の問題を取り上げていて、繰り返す必要はないのですが、科学というものは結局のところ想像上のものです。想像上のものではありますが、よく作り上げられた科学理論は知覚できる現象をことのほかうまく説明するので科学理論が真実のように見えてしまいます。科学理論というものはあくまでも仮象です。科学は想像と概念と現象の一致するところのものです。

 

科学が人間を疎外するのに対して、観察者である人間を含んだ外界(現象世界)の記述をしようとするならば、それは往々にして河合先生のいわれるところの神話の知となります。神話の知では、太陽が昇るときの状況を四頭建ての馬車に英雄が乗ってくる姿で表現します。太陽が昇る瞬間を見る人間の心に生じる「内的体験」が語られていると河合先生はいいます。つまり自然現象(太陽)と神格(太陽神)と人間の内的体験(太陽神が馬車に乗った英雄と受け止められること)の3つの間(はざま)で生じたものが神話というわけです。世界各地に神話があり、今現在でさえも、それを神話といっていいのかはわかりませんが人間の内的体験に焦点を当てた世界の記述というものはあります。このような知は、人間を疎外せず人間の内的体験を尊重するという意味では価値のある知ですが、河合氏も本の中でおっしゃっているように、個人によって受け入れることのできるものとそうでないものの幅がいろいろです。何はともあれ河合氏は人間を相手にカウンセリングを行ってきて、人間の内的体験を無視できないことをひしひしと感じてこられ、それが神話の知の再評価へとつながったと考えられます。河合先生が一生を通じてなさったことはある意味人間学といっていいものです。

 

話は我田引水ぽくなるかもしれませんが、少しだけ河合氏の見解を別の側面から見てみます。インドにヴェーダがあります。インド文化はヴェーダの上に築かれたものです。日本人のほとんどはヴェーダに馴染みがないので私の述べることがあまり理解できないでしょうが、お許し下さい。

 

ヴェーダにはAdhibhautika, adhidaivika, ādhyātmikaの3つの側面があるといいます。ヴェーダはいってしまえば詩なのですが、その各詩節は自然(外界)の記述Adhibhautikaと神格の記述adhidaivikaと人間のとっての内的体験・内的真実ādhyātmikaの三通りの解釈が可能であると古来からいわれ、その中で最も大切なのはādhyātmika=人間の内的体験・内的真実だとされます。ヴェーダとは聖者の内的体験であって、ヴェーダマントラを瞑想するとはそのヴェーダの啓示を受けた聖者の体験を追体験することだとされます。この点でヴェーダと河合氏による神話の解釈は一致します。私の個人的意見ですが、神話はあくまでも(ほどほどの人によって)作られたものですが、ヴェーダは極めて心が浄化された聖者の人生体験を裏打ちする啓示(聞かれたもの)です。しかしその構造は似ています。私がかつてインド文化を学んだインドの方によれば、古代においてはヴェーダはインドだけでなく世界中にあったということですが、もしかしたら神話の類のことを意味するのかもしれませんし、あるいはインドで古代から継承されてきたヴェーダとまったく同じものなのかもしれません。

 

河合隼雄氏は人間というものに取り憑かれて、納得いく理解を求めて神話や宗教の世界に深く踏み入った方です。私もその一人ですが、人間に関心をもった人は望む望まないに関わらず、いつかは神話や宗教の世界に行き当たってしまうように思います。関心のない人には意味不明なことが神話、宗教、霊性の書に書かれていますが、それらが我流であったとしても理解できるような気がしてくればしめたものです。そこがさらなる探求のきっかけとなります。

河合隼雄氏

 

私は若い頃、そう30歳すぎくらいまではかなり本を読んでいました。当時はインターネットで本を買うことはなく、図書館で借りることも少なく、書店に足を運んでおもしろい本はないかと探しながら数時間過ごすことが結構ありました。私は一冊本を読んでおもしろかった場合、同じ著者の本を手当り次第読むことがありました。また本の後ろにある参考文献から次に読む本を探すこともありました。同じ著者の本を読むことが多かったので、特定の著者のことはまあまあ知っていても、同時代の他の著者のことは全く知らないという状況でした。そして私がその著作を多く読んだ一人に河合隼雄氏がいます。

 

河合隼雄氏は臨床心理学者です。河合氏は何百冊も本を書かれているのではないかと思いますので、そのすべてを読んだわけではないのですが、それでもかなり読んだと思います。心のことに関心があり、他に著作のたくさんある精神科医や心理学者がいたにもかかわらず彼の本を特に読むことになったのは、多分彼が学生時代に数学を学んでいたためであろうと思います。私自身が数学を学んでいたので、なんとなく親近感を覚えていました。たくさん本を読んだのですが、お気に入りの本はほとんどありません。特定の著書が好きというよりは、いろいろ読んでいてたまに強く心に訴えかける文句に出会うのですが、それを楽しみに読んでいました。私は彼が有能な心理療法家であるがゆえに、つまり心の問題を抱えている人を支えるのが上手であるがゆえに尊敬していましたが、しかし彼の日本文化論や物語論にはほとんど関心をもちませんでした。

 

とはいっても彼は日本を代表する心理学者の一人であったことは間違いないように思います。彼はたまたまユング派の心理療法家となりましたが、ユングを日本に紹介した第一人者であったのではないでしょうか? 今日本に臨床心理士という資格があるようですが、この資格の普及に努力された方でもあります。私は一読者として河合氏を語ることしかできませんが、専門の心理療法家や心理学者たちは河合氏を全く別の視点から語ることができるでしょう。彼のことを知る若い一般の人はかつてより少なくなっていると思いますが、もし彼を紹介するならどの本がいいだろうかと、最近彼の本を手にとってみました。今日はその一冊を紹介します。

 

『「日本人」という病』という本です。この本は1999年に刊行された彼の講演記録です。彼は1928年に生まれ2007年に80歳を待たずに亡くなりましたが、最晩年とはいわずともそれに近い時期の彼の考えが記されています。第1章 日本人を生きる 第2章 性を生きる 第3章 自分を生きる 第4章 死を生きる の4章からなります。私がこの本でおもしろかったのは第1章と第4章ですが、読む人によっておもしろいと感じる箇所は異なることと思います。彼の著書はもったいぶるというか、私には要点がつかみにくい記述が多いのですが、この講演記録は比較的内容がコンパクトに詰まった印象を受けます。

 

第1章 日本人を生きる から少し言葉を引用してみましょう。以下の引用がこの講演記録の題名になっています。
「ところで自分を振り返って、自分の病気はいったいなんだろうと考えました。ユングの場合は統合失調症で、フロイトの場合はノイローゼと診断されるかもしれませんが、私の病名はなんなのか。日本で臨床心理の経験を積んでいくうちに、それがわかりました。私の病名は「日本人」なのです。日本人であるということは、すごい病気です。これは、私にとっては、という意味です。みなさんにとって、そうでないかもしれません。病原菌と同じで、いくら病原菌が入っても、病気にならない人もいますし、病気になる人もいますが、私は「日本人」というヤツが、とうとう病気になって発症したわけです。」(p24~25)
ユングフロイトも創造的な人でしたが、彼らは統合失調症、ノイローゼを克服することで創造性が増したと評価されることがあるようです。河合氏も心理療法家として優れていたと思いますが、彼に創造性をもたらした病は、彼自身によると「日本人」というものだったようです。何のことかと思われる人がいるかも知れませんが、私には妙に理解できるところがあります。日本人であることは何かの病を抱えているに等しいような気になることがあったからです。簡単にいえば、日本人は抑圧の度合いが比較的強くて、さらにことさらいろいろなことを考える民族で、存在が重苦しいのです。河合氏は2000年頃の日本社会を重度のうつ状態だと評していましたが、そんな感じです。今の日本社会もその傾向があるように思います。日本のリーダー層は欧米特にアメリカに頭が上がらなくて、その分日本の国民を無意識的にでも抑圧しているからではないかと私なんかは素人ながらに思うのです。ペリーの来航以前の日本人は今ほど果たして抑圧、抑うつ的だったのだろうかと疑っています。

 

彼の『「日本人」という病』という本は、彼が生まれて亡くなる間近まで、夏目漱石と同じように日本において日本人として生きることに正面から取り組んだ、その貴重な記録の一つといっていいでしょう。私の若い頃は、河合氏や他の日本人たちの歩みと重なる部分があります。そういう意味で、河合氏の本には、部分的ではありますが、私の過去の一部が含まれているような気がしてなりません。もちろん今はわずかばかりではありますが、当時より少しばかり歩を進めてきたのではないかと思っていますが。

 

河合氏の本には、過去を生きた日本人の精神の一部ではありますが、その貴重な記録が残されているがゆえに、今日紹介した次第です。

体は影

 

今日も「人を解放する心の使い方」について少し触れたいと思います。先週、先々週もこのテーマについて書きましたが、結局のところ、「人を解放する心の使い方」とは外界ではなく内界の促しに沿った心の使い方のことです。内界に関心のない人は内界の世界の豊かさに気づきませんが、実際のところそれは外界と比べてずっと豊かです。少なくとも外界よりは満足をもたらしてくれるものです。ただし慣れないと、真っ暗闇の部屋の中を物にぶつからないように歩くのに似て、多少の困難があるわけです。

 

私は思うのですが、基本的に各宗教が述べようとしているのは、人を束縛するのではなく人を解放に導く心の使い方についてでしょう。しかし現代においては、人を解放に導くべき宗教がテロを正当化するような用いられ方をしています。宗教自体に悪はなく、人がそれを悪の正当化に用いているだけなのですが、嘆かわしいことだと思います。この点、聖職者の責任は重大です。親は子どもがナイフを間違った使い方をしようとしたときにそれを正さなければならないように、聖職者は信者が宗教の教えを間違って用いようとすれば適切に正そうとするのがあるべき姿でしょう。聖職者が自らの説く教えの有効性を知っている場合にのみそれが可能ですが、現状はどうなのでしょうか?

 

先日おもしろい記述を見つけました。

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ある帰依者が神に尋ねました。
「あなたは私の中に、私の上に、私の下にいるとおっしゃいます。それなのに、どうして私を守ってくださらないのですか?」
神は答えました。
「私はいつもあなたの中に、あなたの周りにいます。外面的に私を探してはなりません」
その帰依者は尋ねました。
「あなたは本当に私の後ろにいらっしゃるのですか?」
神は答えました。
「私の影があなたの体です」(1998年4月22日 サティヤ・サイ・ババ

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www.sathyasai.or.jp

https://www.sssbpt.info/ssspeaks/volume31/sss31-16.pdf

 

 

神は遍在しているということです。人間を含めあらゆるものの存在の核であるといえます。私の気を引いたのは「私の影があなたの体です」という箇所です。例えば木が生えているとします。日中晴れていれば当然その木の影ができます。木が風で揺れれば影も揺れます。木が実在で影は実在ではありません。ならば「私(神)の影があなたの体です」という文は何を意味するでしょうか? (人間の)体は実在していないということです。そしてその(人間の)体が動くということは、神が動いているのに体=影が従っているということです。一般の人間の考え方ではこれは受け入れられないことかもしれませんが、もしこれを受け入れたとすれば、影は勝手に動き、それは自ら(エゴ=体が実在だと受け取ること)の企ての結果ではないわけですから、体を動かすことを目的とした人間の思考は急激に減ることでしょう。強いていえば、自らの肉体が影であることをいつも意識する、つまり体が動いているときは本体である神が動いていると理解する。本体と影の間にはなめらかな関係があるはずなので、それを邪魔しないようにする。心にはその程度の仕事だけを与えておけば十分だということです。エゴが全くなくなれば、このようなことも必要なく、ただ影は影として存在するのみでしょう。エゴがある間は、エゴが宗教を自らの正当化に用いないよう注意するのに似て、エゴが体の動きを自らの正当化に用いないよう注意するだけです。

 

思考がなくなるあるいは急激に減れば、お金を稼げなくなるかもしれません。求める地位も得られなくなるかもしれません。人との関係が十分に結べないかもしれません。しかしながら、これは人を解放に導く心の使い方の一つの帰結でしょう。解放というとき、何を解き放つのかということです。解放という言葉は、人が何かにがんじがらめにされていることを前提としています。以前も書きましたが、人をがんじがらめにしている最たるものは心=思考の束のはずです。思考が極めて減っていったとき、自らの人生がどのようなものになるのか? こういう冒険に足を踏み入れる人は極めて稀であります。

愛の道

 

先週は変容について書きましたが、より良い方向に人が変わることは少なくとも停滞ではなく前進でしょう。また。束縛がある人はなかなか変わることができないはずです。変容は人が解放へ向かっていることだと私は受け止めています。そして今日も「人を解放する心の使い方」について述べたいと思います。

 

まずは人間として生まれることについてです。人間として生まれることは稀な恩恵だといろいろな方面から聞きます。私は輪廻転生を普通に何の抵抗もなく受け入れることのできる人間です。舞台上で劇を演じていた人が舞台が終わったあとに楽屋で休憩するように、人は死ねばあの世で休憩するものと思っています。そしてまた生まれてこなければならない魂は再びこの世に生まれてきます。だから私は死ぬことが怖くありません。むしろ再び生まれてこなければならないと考えることのほうが怖いです。この世に生きることはある種の苦痛だからです。この世を卒業したいという気持ちはあります。とはいっても、心の片隅にまだ満たされていないこの世的な欲求が少しでも残っているうちは再び生まれてこざるを得ないのでしょう。

 

生物学における進化論とは別に、輪廻転生においても無機物、植物、動物から人間へと進化していきます。無機物、植物、動物と比べて人間はどういう位置づけなのでしょうか?人間は克服されなければならないといいます。私の理解では人間から神性・仏性へと上昇しなければならないということです。これはどういうことを意味しているのでしょうか?私が思うに、この世つまり地上での生活を謳歌するには無機物、植物、動物に生まれるだけで十分ではないかということです。自然を観察すればわかりますが、植物、動物にはさまざまな種類のものがあり、それぞれの種ごとに生き方が異なります。植物、動物に何度も生まれることでありとあらゆる体験ができそうです。食欲、性欲なども十二分に満たすことができるでしょう。この世的なことに関しては、あくまでも憶測ですが、人間は動物・植物以上に何かを味わえることはないような気がしています。動物・植物でさえ徳を積むといいます。その徳の結果として人間に生まれてくるといいます。それでは人間として生まれることにどのような意義があるのでしょうか?

 

人には欲望、怒り、嫉妬、執着、憎悪、傲慢などなどの悪徳があります。それらも過去動物や植物としての過去生において得られたものでしょう。一方で多少の徳があり、一方で多少の悪徳があります。人間は、それらを完全に取り除くことができるかどうかはわかりませんが、それらの悪徳を乗り越えること、それらの悪徳をある程度無害なものとすること、それらの悪徳を昇華し前進のための踏石とするために存在するのかもしれません。過去の無機物、植物、動物としての生(それは徳と悪徳にあらわれていますが)を総括する、それが人間の人生のように思います。

 

端的にいえば、人はただ愛の道を選択する決意をするだけです。愛をもって思い、愛をもって語り、愛をもって行為する。人生の旅はさまざまな障害に満ちており、与えられた能力、スキル、富を用いれば大抵のものは乗り越えられるのでしょうが、そうであっても人が障害に押しつぶされてしまうのは内なる悪徳のせいでしょう。人が人生の旅、愛の道を歩むのを妨げる最大のものは欲望、怒り、嫉妬、執着、憎悪、傲慢などなどです。愛の道を歩む、人生の旅をするには、自らに与えられた能力、スキル、富などと同時に、種々の悪徳という欠点を理解することが必須です。そのように自らを理解することに心を用い、愛の道を歩む方向に意志を向けること、これは一つの「人を解放する心の使い方」です。

 

欠点といえば欠点なのですが、私は他の人に比べわずかばかり感情が貧しく、あまり愛について語ったり、ことさら意識的に愛の道を歩む努力はしてきていません。しかし多くの人に勧められているのが愛の道です。私がブログで書いているようにいろいろなことを考える必要はありません。愛は究極の目的だとされています。ただし愛とは何だろうくらいは深く考えていいでしょう。この世的な愛執、愛着のことでないことは私ですらわかります。

変容5

 

変容に関してはこれまで時々書いてきました。それらに何か新しく付け加えることができるかどうかわかりませんが、今日は変容について最近思ったことをかきます。先週は人を解放に導く心の使い方があると触れましたが、人の変容はそれに関係します。

 

最近inner personality(内なる人格、パーソナリティ)という言葉に出会いました。確かにパーソナリティには見かけにあらわれ他者から理解される外側のパーソナリティと、他者はほぼ気づくことのできない内側のパーソナリティがあります。内側のパーソナリティとはその人の思いや思考、感情の状況のことといっていいでしょう。ほとんどの人はほぼ絶え間なく内なる会話を繰り返していると聞きますが、そこにその人の人格=パーソナリティが現れます。感情や思考が激しい人がいたり、混乱している人がいたり、何かに駆り立てられているような人がいたり、一方でバランスが取れ穏やかな人や生産的な心的活動が行われている人もいるでしょう。それは自らが自覚しているその人自身の姿なのかもしれません。

 

inner personality(内なる人格、パーソナリティ)の変容を目指すのは好ましい仕事です。私は若い頃は心の中がせわしい人間でしたが、今は昔と比べて随分穏やかです。自分でいうのもなんですが、よく変わったものだと思います。一般に歳を重ねると心が落ち着くことはあるでしょうが、私はかなり努力を重ねました。内なる人格=内なる言葉のありようを変えるのに私がしたことを思いつくままに上げると、御名を唱えること、瞑想、付き合う仲間や接する情報を制限することなどがあります。いわゆるサーダナ(霊性修行)といわれる類のことです。

 

私の家は真宗であったので、御名を唱えたり、書いたりすることは大きな助けになりました。御名を唱えても何年もそれに集中できなかったのですが、20年も続けていたら少しは集中できるようになります。畑に種をまいて水をやれば芽が出てきますが、それに似て御名を唱えることはハートという畑に種をまくようなものです。あるいは牛乳の中にヨーグルトの種菌を混ぜれば全体がヨーグルトになるように、愛を込めて御名を唱えることはハートをその御名があらわす神仏の住処(すみか)とします。御名はハートを発酵させ、ひいてはそれが人格の改善につながります。

 

人の内面が安定すれば、その人の生活も次第に安定してきますし、一人ひとりの生活が安定してくれば、家族や社会も安定するでしょう。家族や社会が安定すれば国家も安定し、国家が安定すれば世界も安定します。

 

私は最近経済・経営に関する本を読むことが多くなりポートフォリオという言葉に接することがあります。ポートフォリオとは金融商品の組み合わせのことです。人は資産を不動産や預金や株などでもちますが、その組み合わせや割合のことです。このポートフォリオという言葉は人間性を考えるのにも便利な言葉です。例えば人は何に価値を置くかということです。人間関係、富、健康、人格、知識、霊性などなどに関して人が違えば何に価値を置くかその割合が異なるものです。人が変わるとは、ある意味その割合・組み合わせつまりポートフォリオが変わるということです。何を人生の規律とするのかに関しても同じことがいえます。規律にはさまざまなものがあります。時間に関する規律、飲食に関する規律、レクリエーションに関する規律、仕事に関する規律などなどですが、人の数ほど規律のあり様は違うでしょう。この規律の組み合わせ、重点の置き方の違い、つまりポートフォリオが変わることが変容でもあります。人間の徳にもさまざまなものがあります。愛、勇気、忍耐、満足、謙虚さ、勤勉さ、着実さ、寛容などなど何十も徳目を上げることはできるでしょうが、どんな徳を大切にするかがその人がどういう人であるかを示すことになります。徳目は人の内なる世界を支える柱のようなものですので、徳の組み合わせがその人であるといってもいいわけです。

 

以上まとめれば、人の変容を導くものは霊性修行や規律や徳の涵養ということになります。そういう方向に沿って心を用いることは長期的に人を解放へ向かわせるでしょう。霊性修行を意識的に行うことやあるいは規律や徳を身につけるために長期間にわたって努力をすることが、後戻りすることのない変容をもたらすと私は考えます。この点に関しては大人が子どもより優れているとはいえません。大人も子どもも共にこれらの努力をするような風潮が広まればいいなと思います。

心(マインド)のOS

 

久しぶりに心(マインド)に関することを書いてみます。過去書いたことをかなり忘れているので重なる部分もあると思います。お許し下さい。

 

心(マインド)が働く場合、今は思考が働くことを想定していますが、成人の場合はだいたいその人の思考パターンというのがあると思います。たとえばこのブログを何回か読んでくださっている方は、私の思考パターンらしきものを理解されているのではないでしょうか? 文体と思考パターンは一致するわけではありませんが、相関はあります。思考からまったく離れた論理の文章はなかなか書けないものです。つまり私にもある程度固定化した思考パターンがあるわけです。

 

自らを振り返ってみるに、多少なりともエゴがなければ思考はできません。私の見解ではエゴのまったくない人は無思考なのです。多少なりとも思いが湧いてくることはあっても、それが思考という体系に至ることはあまりないのではないかと思います。エゴは思考を起動させるものです。一種のOSです。少なくとも私はそうなのです。そして付け加えるならば、その思考パターンというものは常に過去のものです。過去の習慣が蓄積したものです。多分そこに開かれた未来はあまりないと思われます。現代人の行動はその人の思考とその傾向に基づくことが大半です。現代社会の混乱は現代人の思考の混乱を表現したものといってもいいくらいです。思考が適切にコントロールできてないわけです。

 

思考を変えることはできるでしょうか? 過去からの習慣は根強いものです。しかしながら思考のあり様が現代社会に反映しているとするならば、思考を変えなければ社会は変わりません。インドでは、思考(マインド)は束縛の原因でもあり、解放(解脱)の原因でもあるといわれます。エゴに基づいた思考、古くからの思考パターンは基本的に人を束縛します。それはせいぜい過去においては妥当であったとしても、現在においては妥当でないはずなのです。今日は以下2つばかり思考のあり様にわずかでも変化をもたらす可能性のあることを述べます。

 

人はインターネットを見たり、本や新聞を読んだり、テレビを見ます。そういうものを見ていろいろと思いが湧き上がりますが、その湧き上がった思いを思考の材料とします。多少はいいでしょうが、あまり適切ではない思考方法です。それよりは、ある程度長い時間歩いて、その間に整理された思いの方が自らの生活に密着し大切な場合が多いと私は考えます。私はこの過程を歩行禅として大切にしています。思考を他者(諸メディア)に委ねるのは好ましくないわけです。

 

もう一点。心(マインド)はサンスクリット語でマナスといい、それに関連してマナナムという言葉があります。英語ではrecapitulationと訳されるようです。日本語訳は、要約すること、要点を繰り返すこと、反芻することなどです。私が理解する範囲でわかりやすくいえば、たとえば手紙を受け取り読むときに、相手のいいたいポイントを理解する作業をします。飾りはあまり重要ではありません。それと同じで、例えば何かを聞いたり、読んだり、見たときに、ポイント・要点に集中すること、それがマナナムです。今の時代は頭を使うといえば頭を回転させることと受け取っている人が少なからずいますが、本来の頭(マインド)の機能は要点理解、要点整理ではないかと私は思っています。

 

人を束縛せず解放させるマインド(心)の使い方についても思うことはありますが、長くなるので今日は触れないでおきます。

健康について

 

健康について少しばかり述べておきたいと思います。今は新型コロナウィルスの感染が広まっていますし、感染していない人でもさまざまな制約で何らかのストレスにさらされているでしょうから。

 

私には持病があります。患ってからもう30年が経とうとしています。一生付き合っていかなくてはなりません。あまりよく理解していない医学用語を用いるのもどうかと思いますが、多分寛解といわれる状態です。完全に治癒してはいないのですが、何とかバランスを保てていて、できる範囲内で生活しています。まったくの健康の方ほどには体力・気力はありません。若くして健康を失ったので、健康の大切さは強調してもしきれません。病を得なければ人生はまったく異なるものでしたでしょう。とはいっても、この病を得た人生においてしか達成できなかったこともあったので、これも一つの人生として受け入れています。

 

以下思いつくままに健康について書いてみます。

 

健康を一時的にでも失ったことのない人にはわかりにくいでしょうが、健康は自らの存在を守る敷地の壁、あるいは家のようなものです。人は自らの家の敷地内あるいは家屋の中において安らぐことができるでしょう。夜や嵐の日も家がしっかりした状態であれば、くつろいで安心して過ごせます。健康を失うとは、この安心感を失うということでもあります。人は安心して過ごせる家の中で他に邪魔されることなくさまざまな活動を行うことができます。それと同じように、健康を保っている人の内的世界は健やかです。健康はしっかりと適切に内的道具(思考、識別、知性、記憶などなど)が機能するためのものです。同時に、肉体を用いて人としてふさわしい適切な行為に携わります。健康は心の健やかな機能と適切な行動を保証します。この2つが与えられていれば、人生はおおむねうまくいきます。

 

逆にいえば、心が健やかに機能していなかったり、行動に制限がかかってしまうならば、不健康とみなしえます。実際には何らかの病名のもとに病院通いをしていなくても、絶えず不安な状態にあったり、思う通りに時宜にかなった行動ができないのは、何かが機能していない、つまりある意味病気なわけです。自らが置かれた環境の影響もあるでしょうが、人間が人間として十全に機能していないならばそれは不健康です。そもそも人間が人間として機能している状態が理解できない人は多いのでしょうが。

 

霊的には、肉体は内在する神性を祀る寺院のようなものだとされます。たとえばバガヴァッド・ギータにそう記されています。人が寺院に足を運ぶのは、そこに祀られている神仏を見に行くためであって、普通神仏はきちんとした建物や敷地にしっかりと保護されています。人間の体も内在する神性を保護するためにあり、その内において神性をリアルなものとして生きる、体験する(realization)ためにあるわけです。

 

悪い生活習慣や感染症によってさまざまな臓器が機能しなくなるのとは異なりますが、すぐに影響が出ないとしても強いストレスにさらされ続けていると、いつか突然健康のバランスが崩れてしまいます。なのでストレス管理も健康維持に大切です。私は人生において極度のストレスにさらされたことがいくどとなくありましたが、その分同じ年代の人に比べて多少老化が進んでいます。状況や人間関係次第では避けたくても避けられないのがストレスではあるのですが、義務と関係がないようなら多少の犠牲は払ってでもその状況あるいは人間関係からすぐに離れることをお勧めます。たとえば富を失うよりも健康を失うほうが遥かに深刻な問題だからです。自らの生活習慣がストレスをもたらしていることもあります。見るものや食べるものの影響、娯楽の影響、運動不足などです。不必要なストレスは取り除くべきです。自由な思考ができていないならば、ストレスの影響は多分あるでしょう。今は減ってきましたが、若い頃の私はかなりの心配性で将来の頃をあれこれ考えることが多くありました。起こる可能性が少ないことを心配することで私は自らにストレスをかけたり、エネルギーを消耗したりしていました。こういうことも避けたいものです。

 

あと健康に関して大切なことは予防です。私は現在持病の他に歯科と眼科に定期的に通っています。歯科では3ヶ月毎に歯や歯茎をチェックしてもらっています。眼科に関しては高眼圧症であってそのために通っていますが、それを契機としてさまざまに目のチェックをしてもらっています。口腔衛生は全身の健康と関係が深いと最近よく聞きますし、また目が見えなくなると人生は大きな制限を受けるので、健康な人でも定期的に歯科と眼科に通うといいと思います。もちろん定期的に普通の健康診断を受けて健康チェックもしています。健康が悪化してから苦しむよりも、普段の健康チェックによって、仮によくないところがあっても早めに対応するほうがマシでしょう。医療費もそちらのほうがトータルで削減できます。

 

健康を失ったことのない人にはわからないでしょうが、健康を失うということは人生の半分くらいを失うことです。若い頃から不摂生などを慎み、健やかな心、強健な肉体を維持し、人生の目的を意識した生活を送ってほしいと思います。