基準について

 

仏教とヒンズー教の間には一つ大きな溝があるようです。私が理解している範囲では、それは無か有かということに関してです。仏教の空が無を意味しているのか知りませんが、仏教では最終的に無に行き着き、ヒンズー教においては存在=サット=アートマンがあるとします。この見解の違いが時に問題になっているように見受けられるのですが、私は私なりにこれに対する意見をもっています。私が日本語で書かれた仏教の本を読む限り、お釈迦様は無を主張されているのではなく、究極の存在に対してそれをはかる基準がないと主張されているように見受けられます。基準がないので有無を断言できないということで、一つの超越論です。サイババの著書などを読む範囲では、お釈迦様は有神論者であり、お釈迦様は神の存在について言及してはいませんでしたが、常に神への愛に満たされていたようです。ただ語らなかったということです。語っても人にそれを納得させる証拠というものはないということです。

 

少し前におもしろいツイートを見かけました。
― 私達は白ご飯が清らかさの象徴、「きれいにする」という文化を持っていた。これが基本。時代は変わり栄養的観点から「玄米がよい」.「澄むまで洗わない」こともするようになった。どっちが良い、正しい、古い新しいではなく、いつの時代にも先人の知恵はゆるぎない『基準』です。基準を持つ幸せです。
基準があるから、考えられる。他者の気持ちがわかる。話しあえる。・・・・と思う。(土井善晴) ―

 

土井氏は著名な料理研究家ですが、常々その見解に感銘を受けています。上のツイートもそうです。先人の知恵は思考の基準であるということです。ひいては伝統は思考や判断の基準を提供するものということでしょう。この世は絶えず移り変わるのですから、私はこの世に関することで絶対的な真理はないと思っているのですが、伝統もそうです。伝統だから絶対視するということは私はしません。ただ人はあらゆることに関して思考したり吟味することはできないので、私はおおむね伝統に従っていて、尊重はしています。現代に生きる者にとって伝統というのは現在における判断のたたき台を提供していると受け取るのは一つの態度です。

 

私たちの身の回りには多くの単位があります。メートル、キログラム、温度の℃などなどです。これらも便宜的に決められているわけです。単位は時代や地域によって異なる相対的なものです。そうではあっても、その存在は貴重です。この世の基準は単位と一緒で、相対的、便宜的なものしかないというのが私の受け取りです。

 

基準が相対的なものであっても、人に絶対的なものを求める性向があるのは確かだと思います。それは信仰の領域に入ってくると思います。基準や証拠がなくても人は腑に落ちる形で何かを信じることはできます。あるいは信仰ではなく美の領域にそれを求める人もいるかも知れません。哲学的には超越論になります。私は学生の頃数学を学んでいたので、ゲーデル不完全性定理が頭に浮かびます。論理的に真偽を確定することは決してできないけれども、直感的には明らかに真である命題をゲーデルは構成しました。これも基準はないけれども何かを受け入れることができる一例です。私はゲーデル不完全性定理を真実の領域の問題と受け止めてきましたが、美の領域に関するものと受け止めることもできます。絶対的なものに関する感性の問題といえるかもしれません。あるいは論理や基準の相対性の問題、限界に関する定理なのかもしれません。

 

基準というのは、池や小川を渡るための飛び石のようなものなのでしょう。その配置はさまざまに可能です。その配置は文化の特徴の一つです。無限を有限で表現する試みでもあります。此岸から彼岸への踏み石なのかもしれません。また基準自体が存在しないあるいは適用できない領域があるということも受け入れていいわけです。私の日常的な思考や日々の活動はこれらの基準を当然のように前提としるのは確かです。基準にまつわることは文化です。

覚者

 

このブログでもそうですが、私はあまり覚者という言葉は用いてきませんでした。何となく手垢がついた言葉で、私がこの言葉を用いる文脈に気をつけても、それを無視した意味を読み手に与えそうだからです。覚者の覚には悟るという意味がありますが、悟りに至っていない人たちが勝手な意味をこの言葉に込めているのがなかなか受け入れられませんでした。体験のない言葉はときに世の中を害するものです。そんな言葉ですので私が覚者について述べるのも大変おかしなことではあるのですが、人が文脈を無視して勝手な意味を込めることをなかば受け入れた上で、この言葉について少し書いてみます。そういう気になったからです。覚者という言葉を少しばかり私なりに再定義するつもりです。

 

一般的に覚者というとき世間の人はどういう人のことを念頭に置いているのでしょうか? たとえばお釈迦様は覚者とされるのでしょうか? イエス・キリストはどうなのでしょうか? 日本の空海道元、その他宗派の開祖がいますが、こういう方々は覚者に分類されるのでしょうか? 書店のスピリチュアルコーナーや宗教コーナーにある書物では、これらの方々よりも日本人になじみのない人が覚者とされているケースがあります。現代にお釈迦様やイエス様より優れた方がどのくらいいるのか、私にはわかりません。もしかしたらいるかもしれませんが、私にはわからないのです。

 

私はあえて覚者という言葉を用いるならば、自分自身への自覚度が高い人のことを指して用いたいと思っています。自らの思いや言葉や行為への自覚度です。嵐のように思い、想念が頭の中を巡っている人にとっては、一つ一つの想念の内容に気持ちが行き届かないでしょうが、心穏やかな人であれば今自分が何を考えているかよく理解しているでしょう。よい思いを抱いているときは平安でしょうし、よくない思いを抱いているときは落ち着かないでしょう。一つ一つの思いに責任をとり得るならば、その人は思いへの自覚度が高いといえます。言葉に関しても同様です。自らの用いる言葉が思いを反映したものであるのか? 用いようとするその言葉がその言葉の受け手へ与える影響をある程度理解しているのか? 言葉は快く真実を伝えているか? などに関して自覚しているかどうかが大切です。行為についても同様です。それは衝動的で何を意図しているか自分でわかっているのか? 貴重な人生の時間を無駄にする行為ではないのか? 人を傷つけたり、嫌な思いをさせる行為ではないか? 捧げ物としていいような清らかな行為か? などです。自分が何をしているか理解しているかが大切です。思いにしろ、言葉にしろ、行為にしろ、スローモーションであるかのようにそれらを意識でモニターできていれば、自覚度が高いといえます。そういう人は自らの言動を後悔することがほとんどないでしょう。これらの人をあえて覚者と呼ぶことはできるかもしれません。

 

自らの言動以外の霊性に関することも、単に自覚の問題といえるケースがあるでしょう。たとえば真宗における救済の問題なんかはそうです。真宗は他力で、阿弥陀様のお働きが自分に作用すると受け取ります。阿弥陀様のどういうお働きが自分に作用していると受け取っているかは、門徒の方にとってはさまざまかもしれませんが、阿弥陀様の何かのお働きを感じているのは自覚の問題ではないかと思うのです。その自覚さえあれば、その自覚を維持しさえすればその人にとって救済は確かに思えるでしょう。

 

私は御名を唱えます。その意味を知らずに唱えるのはテープレコーダーで音を流すのと一緒です。テープレコーダーは多分御名を流すその恩恵を得ることはないと思います。同じように人間も御名の意味を知らずに口にしてもあまり効果はないでしょう。御名には多くの意味が含まれていますが、少なくとも1つはその意味を理解して唱えていれば、恩恵を得られます。これも自覚の問題です。

 

霊性に関することでなくても自覚は大切です。歯を磨くのは歯の汚れを落として、口の中を清潔に保つためです。このことを理解しているならば、子どもが歯磨きを習慣にするのはよりたやすいでしょう。

 

人が自らにまつわるすべてのことを自覚しているということは、その人の存在に影がないということです。その人の存在が汚れていないということです。これはおそらく霊的に高い地位にあるということをも意味しているでしょう。つまり従来の覚者という言葉の意味に通じるところがあるということです。悟りをもとめるというとなかなか大変ですが、自らにまつわることに関して自覚度を高めることは、誰にでも取りかかれるように思っています。自らに関することすべてを自覚しているならば、それは自己が実現されている、selfがrealize(現実化)されているということだと思うのですが、どうでしょうか?

エデュケアとエデュケーション2

 

約1年1ヶ月ほど前にエデュケアとエデュケーションについて書きました。その時はエデュケアを「内から引き出すこと」と定義しました。それは間違いはありません。今日はそれにもう一つ意味を付け加えたいと思います。

 

エデュケーションは日本語の教育で、つまりいわゆる日本いえ世界中で行われている教育のことです。本に書かれていることや外界に関係することを対象としています。エデュケアとは「価値を与えること」とも定義できます。私たちが学校などで学んでいることに価値を与えることがエデュケアです。しかしながら実際のところは自らに価値がなければ果たして自ら以外のものに価値を与えることが可能でしょうか? 富をもっていないものに富を分け与えること(慈善)は可能でしょうか? 自らが知識をもっていないものが他の人に知識を与えることができるでしょうか? それと同じでまず自分に価値がなければそれ以外のものに価値を与えることはできません。自分以外のものに価値を与えることができるのに自分に価値を与えることができないということははたしてありうるでしょうか? それは単に言葉遊びのようなものであり、自らに価値があってこそそれ以外のものに価値を与えることができるのです。

 

自らに価値を与えるとはどういうことでしょうか? まずはそれが出発点です。私の見解では、自らに価値を与えるとは、自ら(人間)の構成要素を理解し、それを正しく適切に用いることです。人間は身体と心と存在から成り立っています。5つの行動器官と5つの感覚器官を備え、生気(呼吸など)によって日々の活動が維持されています。心はエゴや記憶、知性、思考などから成り立っています。知る力、行動する力、意志の力なども備えています。これらを正しく用いることが人間(自ら)に価値を与えるということです。例えば金(きん)があったとします。それを石ころのように庭に捨てて雨にさらしておくでしょうか? 例えば食物があります。買ってきた食物の半分でもゴミに捨てることがあるでしょうか? 例えば靴があります。靴を頭の上において歩くでしょうか? それと同じように、人間の構成要素も適切に用いるようにできています。適切な思いを抱くことが心の正しい用い方であり、優しく真実を語ることが舌の正しい用い方であり、義務を果たすことが体の正しい用い方です。お釈迦様は八正道によって、人間の構成要素を正しく用いるよう弟子たちに勧めました。

 

人間がその構成要素を正しく適切に用いることは、人間性や道徳性といわれます。なのでエデュケアつまり人間に価値を与えることは人が道徳的に振る舞うことを促進します。そして人間が道徳的であるとき、その道徳性に沿って知識を活用することが、教育に価値を与えることになります。まずは人間に価値を与え、その上で人間以外のものに価値を与えていきます。人間はまずは自らの力を頼りにしその上で文明の利器を活用するのと同じで、まずは自らに価値を与えその延長上に人間が他のものを活用する上で価値を与えます。エデュケーション(教育)が与えられても、それが活用されなければ(活用法であるエデュケアが身についていなければ)意味がありません。

 

人間の構成要素である身体や心、知性などは自動車に似ています。心(ハンドル)を動かせば、車体(身体)は動きます。心(ハンドル)を動かすためには事前の計画と目的地(知性)がはっきりしていなければなりません。自動車を運転するのに、アクロバティックなことは必要ありません。そんなことをすれば事故が起こり、命が危険にさらされます。安全運転が大切です。同様に、人間が人間として振る舞うのに、アクロバティックなことは必要ありません。適切に正しく生きることが大切です。

 

私の人生は私が生きます。私の人生を生きるということは、自分に価値があり、そして他のものに価値を与えることができるということです。他の人のいうことを聞いても、その人が私が病気になったときに代わりに苦しんでくれたり、死ぬときに代わりに死んでくれるわけではありません。他の人のアドバイスを参考として聞いてもいいですが、他の人の人生を生きてはなりません。思いと言葉と行動の調和は人生の骨格をなします。私が教育を活用します。これがエデュケアです。

 

おそらくここでエデュケアについて書いたようなことは日本ではあまりゆき渡っていません。なので教育エデュケーションはあっても、それが活用されず、死んでしまっています。死んだ教育は心に闇をもたらします。少ない教育であっても実践されるならば、実践されない多くの教育を受けるより好ましいはずです。

内的諸感覚

 

感覚といえば五感すなわち聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚のことを思い浮かべるでしょう。これは肉体に結びついた感覚です。日本にはこれ以外にも感覚と捉えられているものがたくさんありますので、それらの一部について今日は書いてみたいと思います。

 

私は数年前まで経済のことがさっぱりわかりませんでした。もちろん体系的にある程度長い期間にわたって基礎を学習をしていないので当然といえば当然です。日本人は誰もが日本語を話せますが、それに似て大人は誰もが経済活動に何らかの関わりがあって経済のことは皆がわかっているようで、しかし実際はよくわかっていないともいえるように思います。経済について語る自称専門家が多いのですが、正直いって誰が正しいことをいっているのか断言できるだけのものをもっていませんでした。それがこの数年で、大雑把ですが、経済に関して割り切った物の見方ができるようになりました。これが可能になったのは大きな要因としてマーケット感覚が身についてきたためだと思います。マーケット感覚といえば、経済活動に携わっていれば誰もが何らかの感覚があるでしょうが、今取り上げたいのは金融に関するマーケット感覚です。私は15年前くらいに投資信託を買い始め、そうではあってもほぼ10年くらいはあまり金融市場に関心があったわけではありません。ところが5年くらい前から投資信託により深く関心をもつようになり、また株式も購入するようになりました。株式は値動きがあるので、得をすることがある一方変な会社の株を買うと損をします。特別株で儲けようとは思わなかったものの、しかし確実な株を見分けたいとは思っていました。それで株式市場のことを調べたりときに株を買ったりしながら、少しばかり勉強してきました。コロナウィルスの影響で2019年は大きな値動きがありました。また2022年はアメリカの株式市場でベア相場とされる株価の下落がありました。それなりに大きな市場の動きでした。株を買っている身でこういう株式市場の大きな動きを体験することは、それなりに勉強になりました。これらを通して、つたなくもマーケット感覚というものが身についてきました。そして驚いたことに、この金融市場に対するマーケット感覚のお陰でなぜか経済全般に関しての目が少し養われていました。株式の売買で多少の損得をするだけでなく、このマーケット感覚が身についたことは私にとってとても大きなことでした。これは五感とは異なる感覚の一つでしょう。

 

もう一つ別の感覚について取り上げましょう。言語感覚あるいは語感についてです。私は学生時代にどうしても思うことを表現したいという内なる切実な欲求があって、苦心しながら自分なりの文体を身につけてきました。それはこのブログにあるような文体なのですが、この文体を身につけるまでに2年近く苦心したと思います。自分の思っていることをほぼ正確に表現できるという確信、安心感が得られるまで神経が張り詰めていました。そしていつの間にか自分の文体を身につけることができていたのですが、このように自分の文体を身につけることができたことはとても大きなことで、それ以来少なくとも言語表現に関してはもどかしい思いをしていません。この感覚がない人は、自分が十分に表現できないという不全感を感じているかもしれませんが、私にはそういうものがありません。この言語感覚=文体も努力して獲得する価値のあるものです。また語感ということに関しても、私は人と少し違うところがあるかもしれません。概念の受け取り方や意味の受け取り方の違いです。ある意味、私自身のこの特別な語感によってこのブログがあるようなものです。人と違う語感によって、自分なりの考えを述べることができています。

 

マーケット感覚や言語感覚だけでなく、人生に関する感覚、人間に関する感覚も人は育むべきでしょう。私はこれまで私なりに痛い目に幾度もあってきました。株で損をすることでマーケット感覚が身につくように、人生で痛い目にあうことで人生に関する感覚や人間に関する感覚が育まれる部分はあります。牛乳を撹拌すればヨーグルトができるのに似て、この世で揉まれることで人は人生感覚、人間感覚というヨーグルトのようなものを育みます。これはとても貴重です。この人生感覚、人間感覚こそが個性といっていいものです。人生に対する真剣さと誠実さ、そして避けることのできない苦労、これらは実際のところ私を育んでくれます。

 

人生とはある種の感覚を育む場であって、人生の目的とは解脱といわれたり、アートマ実現といわれたりしますが、最終的にはアハムブラフマースミ(私はブラフマンである)とか、ソーハム(私はそれである)とかそういう類の感覚を身につけなければならないのでしょう。観念的なことは多くの人が語っています。そういう人の語ることを繰り返し聞いても何の役にもたちません。マーケット感覚や言語感覚と同じように実地に身に付けなければなりません。人生には楽しいことと苦しいこと・悲しいことがあるでしょうが、それらの二元性の打撃が、最終的にアハムブラフマースミという感覚やソーハムという感覚を獲得するのを助けてくれるはずです。これらがなければ一元論的哲学はほぼ意味がないと私は思います。人生とはそういうもののためにある。そう思えば、苦労もなんとか乗り越えることができるでしょう。真剣さと誠実さをもってこれからも歩んでいきたいです。

エーカムサット(One truth or Truth is One.)

 

エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
真理は1つ、しかし、賢者はそれを様々な名前で呼ぶ(1974.7.23 サイババ

サイババの言葉というわけではなく、ヴェーダマントラだと思うのですが、サイババのご講話でしばしば取り上げられるマントラです。今日はこのマントラの特に最初の部分(エーカム サット)について書いてみたいと思います。エーカは1でエーカムはその目的格か主格なのですが、厳密には私はわかりません。サットは実在、真理、存在というような意味です。私はエーカムサットでOne truth(一つである真理)あるいはTruth is One.(真理は一つ)の両方の理解をしています。

 

先週はAll are One. Only One exists. All for One, One for All. はすべてマントラといっていいものだと書きましたが、エーカムサット(One truthあるいはTruth is One.)も同様です。

 

一つであるところの真理あるいは存在を人は多様に表現します。真理は一つの表現しか許さないというわけではありません。たとえば私は山歩きをしますが、山は一つです。富士山なら富士山、高尾山なら高尾山、雲仙普賢岳なら雲仙普賢岳です。しかし山アプリを見ていたらわかるのですが、一つの同じ山を歩いても人によってそのレポートはさまざまです。お花に焦点を当てている人、たくさんの距離を歩くことに焦点を当てている人、山での食事に焦点を当てている人、山から見える風景に焦点を当てている人などです。ある程度山域の広い山ですと、歩くコースは本当に多種多様です。しかしそれらはすべて一つの山についてのレポートです。どれも正しいのですが、どれも山を表現するのに不十分です。真理・存在もそれと同じです。

 

サット・チット・アーナンダとよくいわれます。これはブラフマンあるいはアートマについての記述です。サットは存在です。チットは意識またはそれに関する意識です。以前も説明したかもしれませんが、日本の食器の多くは土でできています。それが茶碗の形をしているならば、土を茶碗だと意識します。土という実在は茶碗という形・意識をまとったのです。その茶碗を用いて食事をすれば満足=至福(アーナンダ)が得られます。さてエーカムサット、一つであるところの真理は名前や形がはっきりしません。名前や形が認識されればそれはチットです。ナラヤナウパニシャッドというヴェーダマントラでは、至高のプルシャが世界を創造しようとしてこの世界を作ったとあります。この世界・宇宙が創造される前、それはサット(存在、真理)でした。それは自らから生じた五大元素を用いて世界が感覚できるものにしました。それはチットです。私たちが今見ている世界がそれです。私たちはこの世界を多様に表現しています。人間の子どもを見ればわかると思うのですが、本来子どもは世界にあることがうれしいようです。サットとチットが組み合わさった世界を前にアーナンダ(喜び)を感じるのです。さて人間も欲望します。人間は目に見えない魂に肉体を与えます。目に見えない魂(サット)に目に見えるチットとしての肉体を与える行為は至福に満ちたものとされます。

 

何度も書いてきましたが、この世界は映画に似ています。スクリーンに光が投影されています。スクリーンが真実であり、光は幻です。しかし実在と知識が組み合わさることで、私たちは映画を楽しむことができます。またこの世界では日々何かが起こっています。世界は一つ、真理は一つ、存在は一つなのですが、私たちはそれをニュースとして自覚することで情報あるいは知識という喜びを得ています。芸術家たちアーティストたちも、自らの存在の深みからあらわれたインスピレーションに形を与えようとしています。思っている通りの形を与えることができたならば、芸術家あるいはアーティストたちは満足するでしょう。

 

出発点はいつもエーカムサット(One truthあるいはTruth in One.)です。エーカムサットから生まれ、エーカムサット上で世界が進展し、エーカムサットに世界は帰融します。茶碗は土から生まれ、ずっと土でありながら茶碗として用いられ、最後は土に戻ります。人間もエーカムサット(真理、存在)であり、人間の人生もそこから始まり、そこに戻ります。そしていつもエーカムサットでした。表現の多様性(今ある生)に惑わされずにいるために、生まれてくる前つまり肉体を与えられる前と、死んだ後つまり肉体を去った後のことも少しは考えておかなければなりません。生まれてくる前も生きてある今も死んだ後もいつも存在しているのですから(私にはそういう感覚があります)。私たちはエーカムサットの(部分的)表現です。

All for One, One for All

 

私はそうたくさんではないと思うのですが、日々何らかのものを読んでいます。スマホのニュースであったり、ときに新聞を読んでいたり、関心のあることを扱った新書であったり、仏教に関するものであったり、サイ文献(サイババに関する文献)であったりです。量からいえば読むサイ文献の量は特別多いわけではありません。しかしこのブログではサイ文献にある文章を元にした記事が多くあります。それはサイ文献はほんの少し読むだけでインスピレーションが得られるからです。というわけで、今日もサイ文献を読んでいて目にした言葉をもとに書いてみたいと思います。

 

「唯一者の中に存在する多様性が、社会の本質です。万人は一人のために、一人は万人のために(All for One, One for All)。この言葉は、事実というよりも、スローガンになってしまいました。それを事実として認識すると、それが大自然の仕組みなのであって、物事のあるべき姿であり、それはまた進歩した文化を表すものであることがわかります。」(『セヴァ 真のボランティア』 p50~51 )

 

私はAll are One.(すべては一つです。)  Only One exists.(唯一者のみが存在する。) All for One, One for All.(万人は一人のために、一人は万人のために。)の3つはどれもマントラといっていいものだと思っています。この3つはどれもその意味を考えながら口に唱えたり憶念していると、さまざまなインスピレーションを与えてくれると思います。一つの捉え方だけでなく、いくつもいくつもはっとさせる気づきが得られます。今日は特にAll for One, One for All.について考えてみたいと思います。

 

この言葉がいつからあって、誰の言葉かは調べていないのでわかりませんが、私を含め少なくない日本人はこの言葉を耳にしたことがあるでしょう。その意味も上に引用した文章にあるように、「万人は一人のために、一人は万人のために。」と受け止められています。ただマントラというのはどのような切り口から意味を捉えようとしても素晴らしい見解を与えてくれますので、今日は少しばかり私なりに考えてみます。

 

普通の解釈ではAll for One, One for All.というとき、Allはすべての人のことで、Oneは一人の人間のことです。特定の場に限ればすべての人がたった一人の人のために尽くすこともあるでしょうが、80億の人間が同時に特定の一人の人に関心を寄せることはほぼないですし、さらには尽くすこともありません。All for Oneはすべての人はそれぞれが誰か特定の人に(ある時点で)尽くす、と理解できそうです。複数の人が同じある特定の人に尽くしても構いません。たとえば私はこれを読んでいる方に、尽くしているといっていいかはわかりませんが、何かを語りかけているわけです。One for All.は、今いったことに矛盾しているかもしれませんが、一人の人間はすべて(All)を視野に入れて行動をします。たとえば私は誰が読んでいるかわからない不特定多数のためにこれを書いているわけです。誰が読んでもいいように書いています。家族の一人が病気になったら他の家族は皆その人のために尽くすでしょうし、しかし会社で仕事をしているときは、社会の不特定多数を念頭に入れて働いているでしょう。置かれている状況によって、All for Oneであったり、One for Allであったりします。

 

さて、別の解釈もできます。Oneを超越者、唯一者、神と受け取り、Allを人間その他と受け取った場合です。All for Oneはすべての人は神のために生きる、すべての行為を神への捧げ物として生きると理解し、One for Allは唯一者である神はすべての人、世界のために働きかけると理解できます。神=創造者とすべてのもの=被造物との相互関係です。唯一者はこの私個人のために働いてくださっていないかもしれませんが、世界全体に働きかけそれによって私の安寧を図ってくださっているのかもしれません。

 

サイババによれば、All for One, One for All.は社会の本質であり、大自然の仕組みだそうです。社会に関しては私はこれまで考えたことがありますが、大自然の仕組みをこのように受け止めたことはありませんでした。ほとんど生態系に関する本や自然観に関する本を読んだり、それらについて人の意見を聞いたことがないのですが、自然の仕組みをこのような視点から見るとどのようなものが見えてくるのか興味はあります。

 

先にも書きましたが、私はAll for One, One for All.はマントラだと思いますので、この言葉に関してもっといろいろな受け取りがあろうかと思います。私も今後はときにこのマントラを口にしながら、いろいろ思索するつもりでいます。

ヴィブーティ(神聖灰)について

 

今日はヴィブーティについて私が知っている範囲、記憶にとどめている範囲のことを書きたいと思います。間違ったことを理解していたり、記憶違いのこともあったりで正確ではないかもしれませんが、ヴィブーティを理解するきっかけにはなると思います。

 

バガヴァッド・ギーターにはヴィブーティヨーガというのがあり、確か第10章なのでしょうが、今日の話はそちらには直接関係しません。神聖灰としてのヴィブーティです。日本には馴染みのないものかもしれませんが、サイババが手から物質化する灰がヴィブーティだといえばわかる人はいるでしょう。私が知っている範囲では、一般にヤグニャ(日本の護摩に似たヴェーダの儀式)で生じる灰をヴィブーティというようです。ヤグニャの残り物です。インドの敬虔な人々は金粉よりもヴィブーティに価値をおいていて、金粉よりもヴィブーティを手にすることを好むと聞いたことがあります。ヤグニャは火に供物を捧げ、火の神=アグニがそのエッセンスを世界に届けるものとされます。残ったものがヴィブーティです。例えば木を燃やせば灰になります。米や麦を燃やしても灰になります。果物を燃やしても最終的に灰になります。しかしながら灰はいくら燃やしても灰のままです。つまり灰はすべてのものが最終的に行き着くところのものであり霊的には英知や解放を意味しています。英知は時間が経てば変わるような中途半端な理解ではありません。最終的な理解です。なので霊性の修行者たちはヴィブーティをとても重要視します。

 

またヴィブーティはこの世のはかなさをも表しているようです。日本では人間が死ねば火葬に付されます。骨になります。骨もずっと燃やし続ければ最終的には灰になるでしょう。硬い大きな岩であっても長い年月の間に少しずつ小さくなり石になり、砂になり、最終的に粉になっていきます。ある程度長い間人生を生きれば多少なりとも人生のはかなさを感じる経験をするでしょう。この世の楽しみや富、権力に執着して生きるのではなく、真の幸福を求めるようにヴィブーティは人に教えます。

 

日本の護摩ではそれによって生じる灰をどう捉えているのかはわかりませんが、インドのヤグニャでは灰=ヴィブーティは非常に貴重なものです。しかしヤグニャのような儀式だけでなく、人が自らの行為を神仏に捧げるならば、それはヤグニャに似た行為であり、最終的にそれを受け取るものが行為を灰にして、行為を捧げる人生を歩んできたものに英知と解放を授けます。「捧げる行為は神であり、捧げ物自体も神です。神によって神であるところの聖なる火に捧げられます。神への捧げ物としての行為(ヤグニャ)をし続けるものは最終的に神に到達します。(ギーター第4章24節)」これが主クリシュナの保証です。人生のすべての行いを捧げるものは、英知のみならず人生の最終的な目的を果たすことがこの節で述べられています。自らの行為をすべて捧げその結果を求めなければ、たとえば私はそれでどうやって生活していくのだろうかと不安になったことがありますが、その捧げた行為は最終的にすべてヴィブーティとなり、ヴィブーティとして返ってくるということです。Paramam Vichithram Leela Vibhuthimというヴィブーティマントラの詩節がありますが、多分ですがparamamは至高のという意味で、vichithramはstriking心を打つという意味で、leelaは神の戯れという意味です。ヴィブーティとはそういうものであり、つまりもし私たちが行為を捧げてヴィブーティが返ってくるとしたら、それは神の戯れとして私たちの心を打つ至高の結果が私たちを待っているということになります。通常の行為の結果とは異なります。

 

少なくない人が、サイババが手からヴィブーティを出すことをいかがわしいと受け取っていますが、私自身はそういういわゆる奇跡にはなぜかほとんど気が惹かれることはありませんでした。ただサイババがヴィブーティを帰依者に与えたということは帰依者のカルマを灰にしてしまい、悪い結果が返ってこなくなるようにし、霊的な前進を促すものであると理解できます。一般にヤグニャの残り物である灰=ヴィブーティにもそういう意味はあります。

 

インターネットを検索すればたくさんヴィブーティに関する情報が出てきますので、関心のある方はそれらに目を通して理解を深めていただければと思います。

規律の大切さ2

 

今日は規律について考えます。先週は外的世界と内面世界のことについて書きましたが、それに関連しています。この規律に関してTwitterでおもしろいツイートを見かけましたので、まずそちらを紹介します。


“We don’t have to be smarter than the rest. We have to be more disciplined than the rest.”- Warren Buffett
(私たちは他の人たちよりも賢い必要はありません。私たちは他の人たちよりももっと規律正しくあるべきです。 ウォーレン・バフェット

In today's world, people often overlook the importance of #discipline. It involves practicing sense control and being mindful of one's actions. By avoiding #negativity and striving to do good, one can lead a #path towards a more fulfilling life.  (SaiYoungMessengers)
(今日の世界においては、人々はしばしば規律の重要性を見逃します。規律は感覚のコントロールの実践、自分の行動に十二分に意識的であることを含みます。否定性を避け善をなすよう努めることで、人はより充足した生活への道を歩むことができます。 サイ・ヤングメッセンジャーズ)

 

日本人は他国の人に比べれば規律正しいといわれますが、規律の意義に対する自覚はあまりないかもしれません。最も簡単な例は、交通ルールがあるがゆえに車でスムーズに移動ができるということです。公平なルールがあるがゆえに市場での取引が円滑に進むということです。何十億人もの人が地球上で生活していますが、どうしても規律=ルールは必要です。健康を維持するにも、食物や睡眠、運動に関する規律が必要でしょう。規律は川の両岸のようなもので、この両岸のおかげで川はあふれずに海まで流れることができます。

 

さて、上に挙げたのは外的な規律というものでしょう。より内的な規律を考えることもできます。それが今日書きたいことです。先週「内的世界=森の中で落ち着いて計画したことや思索したことを外的世界=社会の中で実行しなさい、という理解です。これならば森の中での現実を社会に実現することができそうです。」と書きましたが、安全な状態で平安な内に落ち着いて計画したり思索するためには社会というものをある程度遮断しなければなりません。その遮断を助けてくれるものが規律です。家は壁や窓、玄関などで囲まれていますが、あるときはそれらを開け放ち、あるときはそれらを閉じきってしまいます。家の壁に該当するものや、窓や玄関を開け閉めする手続きが規律です。人はある時は内面世界に住み、あるときは外的世界で活動します。内面世界と外的世界での活動の両方を適切に確保するものとしての規律です。これらは心の何らかの機能であり、この機能はすべての人に備わっているのではないかという気はします。ただそれに関して意識的でないということです。

 

私は何といっても思索する時間が必要なので、主にサーダナ(霊性修行)の時間をできるだけ取るようにしています。また、趣味としても山歩きや編み物をすることが多いです。テレビは見ません。必要以上の人間関係はもたないようにしています。もちろん健康全般にはそれなりの程度は気をつけています。他にも細かい規律はあるかもしれません。規律は内面の世界とその平安を約束してくれます。

 

エゴという意味ではないのですが、ある程度の規律は必要です。人間の4つの本能は、食欲、睡眠欲、性欲、恐怖(安全への欲求)だとされますが、規律はこれらの4つすべてに必要です。その中で今日は特に心の安全安心を確保するための規律の必要性を強調しました。規律の目的は何かを理解しておくことが大切です。目的を適切に遂行するためならば、規律の形式は人によって適宜変更可能でしょう。

手は社会の中に、頭は森の中に

先週の林住期に関連しますが、サイババの言葉に「手は社会の中に、頭は森の中に」(Hands in Society, Head in Forest)というのがあります。しばしば見かけることのあった言葉です。しかし私は不器用なので、社会の中で活動しているときは頭も社会の中にあって、頭を森の中においてどうやって社会の中で活動していけるのだろうと長年思っていました。最近これについて自分なりの気付きがありましたので、それについて今回は書きたいと思います。

 

私は山歩きをします。なので森を知っています。普通の人よりは森の中で多くの時間を過ごしたでしょう。社会の中にいるよりは刺激の少ない世界です。いえ、音も光の美しいので町中よりきらびやかと受け止めることはできます。しかしそのきらびやかさは優しいのです。山歩きをするとき私は一人で歩くことが多いので、静かな環境の中で落ち着いていられます。急な登り道を歩いていると体のほうが息が切れても気持ちが不安に満たされることはありません。また最近はチェアリングというものにも少し関心が出てきて、山を登るのではなく、山の中の森の適当なところに携帯の折りたたみイスを持ち込んで、座って読書や編み物をすることもあります。森の中は静かで清らかです。なので「頭を森の中に」というのがどういうものかは理解できているつもりです。

 

一方で人は社会の中での活動に携わらなければなりません。社会と森とでは世界が異なります。林住期とはそれまで社会にあった人が森の中で過ごすことですが、社会と森とでは様相がまったく異なるので、それぞれの場所での生活も異なってきます。肉体を24時間何年間も森の中において過ごすことは、現代日本では非常に困難なことです。しかしもしも「頭は森の中に」というときの森を比喩的な意味に受け取るならば、すなわち平安で満たされた内面世界であると受け取るならば、林住期の別の解釈が可能になります。感覚器官によって感覚される外的世界=社会が一方にあり、もう一方に外的世界から遮断可能な内的世界=森があります。内的世界に住まう人が外的世界において活動するとき、いつもある種の動揺を伴うのではないかと思うのですが、この2つの世界をどのように統合していけばいいかが問題になります。

 

先に述べたように、私は社会の中で活動する際には頭もそれに染まってしまって社会の中にあります。意識的に御名を心のなかで唱えていたとしても、それを忘れて外的活動に集中しなければならないことはあります。こういうあり方は一つでしょう。しかし私は「手は社会の中に、頭は森の中に」というとき、あくまでも私自身にとってですが、しっくりくるのは内的世界=森の中で落ち着いて計画したことや思索したことを外的世界=社会の中で実行しなさい、という理解です。これならば森の中での現実を社会に実現することができそうです。

 

人は寺社や家の仏壇などで拝むときに手を合わせます。片手には5本の指があります。両手で10本です。これにはさまざまな意味があるでしょうが、私が普段受け入れている理解は、5つの感覚器官と5つの行動器官の象徴としてです。つまり10本の指は、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の五感と、手、足、舌(発語器官)、排泄器官、生殖器官の5つの行動器官の象徴です。両手を合わせて拝むということは、これらの10の器官の活動を拝む対象に捧げるということです。捧げるにはできる限り清らかで善良であるのが好ましいものです。私はあらかじめ内面世界=森においてこれらの活動を吟味し、捧げるにふさわしいものか見極め、その範囲内に限って社会の中で活動するように心がけてきました。つまり「手は社会の中に、頭は森の中に」と手を合わせて拝むことは、私にとってほぼ同じことなのではないかと思うのです。

 

このような態度は、実際に森の中に入って生活しなくても、擬似的にですが、森の中で生活するに似た面はあると思います。あくまでも内面世界=心の中が森の中のように清らかで平安に満ちていて、冷静な判断ができる場合に限ってのことですが。内面世界を清らかに保つ努力は日々行わなければなりません。その上で、森の中=内面世界で計画、吟味した範囲内のことを社会の中で実行に移す。これは一つの有効なあり方でしょう。現実に森の中に生活するのが難しい私を含めた日本人には取り入れ可能な態度だと思います。

林住期

 

私のブログを「林住期」で検索すると6つ記事が出てきます。それらはインドからの留学生から聞いた話がベースとなっていて、それに日本の実情、私の置かれている状況などを考慮して書いたものです。なので厳密にいえば、インドの太古からの考え方と異なるところがあるでしょう。いえ、私の考えは少し甘いところがあり、インドにおける林住期の規律はもっと厳しいといえるようです。

 

日本には老後という言葉がありますが、それは林住期とほんの少しは重なるにしても、現実には日本に林住期はないといって差し支えないものです。言葉のとおり、林(あるいは森)に住んで霊的生活をおくるわけです。それは解脱を目的としたもので、日本人のほとんどにとっては解脱が到達可能なもの、あるいは人生において目指すべきものという認識がありません。言葉の上ではそういうことを知っていても、実際にそれにふさわしい生活を送っているわけではありません。

 

ここ最近よくこのブログで取り上げる『プレーマヴァーヒニー』という本の第52節において林住期についての説明がありました。もし関心がある方はこの本を買って読まれるのがいいと思いますが、今日は引用はやめておき、そこに書かれている趣旨を私なりの受け取りで述べてみます。私の理解によれば、林住期とは、命の維持に最低限必要なもの以外の執着を手放していく時期です。そのために厳しい生活を森で送ります。

http://www.sssbpt.info/vahinis/Prema/Prema52.pdf (プレーマ ヴァーヒニー52節英語版)

 

食や衣服は最低限許されるのですが、好みをいうことは好ましくありません。人はだれもが好む体験があるものですが、そのような好む体験への執着をなくしてしまわなければなりません。何かを選り好みすることはそれ自体が束縛なわけですから。最低限のふさわしい食物をとりながら、不二一元を教えるウパニシャッドを学ぶ生活を続けるようです。寒暑や苦楽があるでしょうが、それらの影響から心理的に免れるようにします。このような生活では慈善や奉仕ができませんが、つまりはもし財産があるならばできるだけそれらは慈善や奉仕に使ってしまって、財産の蓄積や依存も減らせるだけ減らしてしまうということなのでしょう。一人であるいは夫婦で林住期に入るわけですが、夫婦で林住期に入る場合は性の関係はもたず兄弟姉妹としての生活になります。これらすべての目的は一点集中による一元的体験の獲得のようです。そして一元的体験こそが英知だとされます。あとはこの一元的体験を船に解脱へと歩み続けていきます。

 

精神の奥底に染み付いた人間を支配する心の傾向はなかなか取り除くことができません。たとえば私などもコーヒーを飲む習慣であったり、食事を摂る時に好みの味付けがあったりします。対人関係においても、それが効果があるとは限らないのにあるパターンに従って対人関係を営んでいます。仕事の仕方も人それぞれでしょうが、体の癖だけでなく心にも癖があるわけです。これがなかなか抜けきれません。これらは何らかの物事や体験へのこだわり・執着に結びついていることが多いわけです。もちろん幸福や知識ですら束縛であることはギーターに示されているとおりです。これらの心癖を矯正するのに長い時間がかかることは、私は自分の体験からわかります。

 

厳密にインドで受け継がれている規範に基づいて林住期を送ることは日本ではほとんど無理でしょうが、それの目指すところを知っておけば、ほんの少しは役立つことがあるでしょう。ないようであるのが心癖。心癖を知る一つの方法は、一日の終りにその日の行動を振り返って、その動機を調べることです。すこしばかり大変な作業ですし、自分の見たくない部分を直視せざるをえないケースもあるでしょう。そして自分の心癖を知ったあとは、それを矯正するなり手放すための誠実な実践が必要になってきます。実際のところ、厳しい生活を一律に送るのが最も有効な方法なのかもしれませんが、日本ではなかなか難しいのが現状です。

全託7

 

定期的に全託について書きたくなります。私にとって一つの大きなテーマです。今日はある文章を読んでいて、少しばかり全託に関する理解が深まったような気がしましたので、それについて書きたいと思います。

 

when we try to understand the meaning of the word saranagathi or surrender, you will note that, in the beginning, Arjuna started asking questions of Lord Krishna, thinking that he is using his own intelligence, his own capacity of enquiry and his own ability of distinguishing right from wrong. He is thinking that he is using his own strength. Because he relied heavily upon his own powers and thought that his own powers were capable of excelling and exceeding God’s powers, he landed himself into a difficulty and was not in a position to decide what he should do and what he should not do. As soon as Arjuna found it not possible to go ahead or even to go back; in fact, when all his actions came to a stop, then he turned to Lord Krishna and said: “I will take your orders, I am not in a position to decide what I should do. I am ready to obey you and carry out whatever you want me to do and I will do so with my full heart.” Thus he surrendered his thought, word, action, and all, entirely to God. (Summer Showers 1972 p79)

http://www.sssbpt.info/summershowers/ss1972/ss1972-08.pdf


(シャラナガティすなわち全託という言葉の意味を理解しようと努めるとき、まず最初にアルジュナが主クリシュナに質問を始める際に、彼アルジュナが自身の知性や探究の能力や是非を区別する能力を用いていると考えていることに気づくでしょう。彼は自身の力を用いていると考えています。彼は自らの力にひどく頼っており、また自身の力は神の力より優れそして越えていると考えていたがゆえに、彼は困難に陥り、何をすべきで何をすべきでないかを決定する立場から滑り落ちました。前にも進めずさらには後にも引けないことに気づくと、実際に彼のすべての行動が停止してしまったその時、彼は主クリシュナに向き直りいいました。「私はあなたの指示を受け入れます。私は私が何をすべきか決める立場にありません。私はあなたに従い、あなたが私に行ってほしいことを実行する準備ができており、そして私は心のすべてをもってそうするでしょう。」こうして彼は彼の思いと言葉と行動とすべてを完全に神に全託したのです。)(※日本語訳がこなれていないことは許してください)

 

この文章の何が私の心に引っかかったかというと、最初アルジュナは自身の力が神の力に増していたと考えていた点です。普通の人は当然自分の力が神の力に増しているとは考えないものですが、しかし本当にそうでしょうか? これは私の受け取りなのですが、世の中は絶えず変化しています。それはある意味神が私の知らないところで着実に何かを動かしているということです。急激かあるいは緩慢かはわかりませんが、とにかく世界は動いています。それはある種神のご意志の具現です。もちろんこのように考えない人が大半でしょう。しかし私は最近そう考えることが増えたのです。さてそのように考えている私にとって、私が自分の力でその世界の変化の流れに抵抗してあるいはその流れを無視して行動するとすれば、それはアルジュナと同じように、私自身の力が神の力に増していると考えていることになります。私は上に引用した文章を読んだ時にそう感じたのです。

 

ならば全託とはどういうことなのかということです。それは川の流れに棹さして舟を漕ぐようなものです。世界は神のご意志として変化しているわけです。その流れを変えることなく、その流れを無視することなく、その流れに沿った着実な努力を果たすことが全託ではないかと思ったのです。それは自らの意志、自らが進もうという方向性を手放すことでもあります。流れはすでにできていて、その流れに乗る努力をするわけです。エゴを出さずに。エゴを出せば、自分がしたくないことをしないという態度をとったり、自分の能力が神に増していると思ってしまいます。少なくとも世界の変化=流れが感知できているならば、何をすべきかすべきでないかに迷うことはありません。

 

このような全託自体も一つの修行であるようです。しかしながら真に全託しているものは全面的な平安を保っているとも聞きます。自分がない、つまり自分の意志や言葉や行動がないのですから、そもそも心配することがないようです。その境地に達するのは非常に困難ではありますが、自分の能力が神に増していると考えずに流れに沿って着実に生きること、心のすべてをもって努力すること自体は安らぎをもたらすのではないかと思っています。これはあくまでも私の信仰でありそれなりに納得できる受け取りではあります。