覚者

 

このブログでもそうですが、私はあまり覚者という言葉は用いてきませんでした。何となく手垢がついた言葉で、私がこの言葉を用いる文脈に気をつけても、それを無視した意味を読み手に与えそうだからです。覚者の覚には悟るという意味がありますが、悟りに至っていない人たちが勝手な意味をこの言葉に込めているのがなかなか受け入れられませんでした。体験のない言葉はときに世の中を害するものです。そんな言葉ですので私が覚者について述べるのも大変おかしなことではあるのですが、人が文脈を無視して勝手な意味を込めることをなかば受け入れた上で、この言葉について少し書いてみます。そういう気になったからです。覚者という言葉を少しばかり私なりに再定義するつもりです。

 

一般的に覚者というとき世間の人はどういう人のことを念頭に置いているのでしょうか? たとえばお釈迦様は覚者とされるのでしょうか? イエス・キリストはどうなのでしょうか? 日本の空海道元、その他宗派の開祖がいますが、こういう方々は覚者に分類されるのでしょうか? 書店のスピリチュアルコーナーや宗教コーナーにある書物では、これらの方々よりも日本人になじみのない人が覚者とされているケースがあります。現代にお釈迦様やイエス様より優れた方がどのくらいいるのか、私にはわかりません。もしかしたらいるかもしれませんが、私にはわからないのです。

 

私はあえて覚者という言葉を用いるならば、自分自身への自覚度が高い人のことを指して用いたいと思っています。自らの思いや言葉や行為への自覚度です。嵐のように思い、想念が頭の中を巡っている人にとっては、一つ一つの想念の内容に気持ちが行き届かないでしょうが、心穏やかな人であれば今自分が何を考えているかよく理解しているでしょう。よい思いを抱いているときは平安でしょうし、よくない思いを抱いているときは落ち着かないでしょう。一つ一つの思いに責任をとり得るならば、その人は思いへの自覚度が高いといえます。言葉に関しても同様です。自らの用いる言葉が思いを反映したものであるのか? 用いようとするその言葉がその言葉の受け手へ与える影響をある程度理解しているのか? 言葉は快く真実を伝えているか? などに関して自覚しているかどうかが大切です。行為についても同様です。それは衝動的で何を意図しているか自分でわかっているのか? 貴重な人生の時間を無駄にする行為ではないのか? 人を傷つけたり、嫌な思いをさせる行為ではないか? 捧げ物としていいような清らかな行為か? などです。自分が何をしているか理解しているかが大切です。思いにしろ、言葉にしろ、行為にしろ、スローモーションであるかのようにそれらを意識でモニターできていれば、自覚度が高いといえます。そういう人は自らの言動を後悔することがほとんどないでしょう。これらの人をあえて覚者と呼ぶことはできるかもしれません。

 

自らの言動以外の霊性に関することも、単に自覚の問題といえるケースがあるでしょう。たとえば真宗における救済の問題なんかはそうです。真宗は他力で、阿弥陀様のお働きが自分に作用すると受け取ります。阿弥陀様のどういうお働きが自分に作用していると受け取っているかは、門徒の方にとってはさまざまかもしれませんが、阿弥陀様の何かのお働きを感じているのは自覚の問題ではないかと思うのです。その自覚さえあれば、その自覚を維持しさえすればその人にとって救済は確かに思えるでしょう。

 

私は御名を唱えます。その意味を知らずに唱えるのはテープレコーダーで音を流すのと一緒です。テープレコーダーは多分御名を流すその恩恵を得ることはないと思います。同じように人間も御名の意味を知らずに口にしてもあまり効果はないでしょう。御名には多くの意味が含まれていますが、少なくとも1つはその意味を理解して唱えていれば、恩恵を得られます。これも自覚の問題です。

 

霊性に関することでなくても自覚は大切です。歯を磨くのは歯の汚れを落として、口の中を清潔に保つためです。このことを理解しているならば、子どもが歯磨きを習慣にするのはよりたやすいでしょう。

 

人が自らにまつわるすべてのことを自覚しているということは、その人の存在に影がないということです。その人の存在が汚れていないということです。これはおそらく霊的に高い地位にあるということをも意味しているでしょう。つまり従来の覚者という言葉の意味に通じるところがあるということです。悟りをもとめるというとなかなか大変ですが、自らにまつわることに関して自覚度を高めることは、誰にでも取りかかれるように思っています。自らに関することすべてを自覚しているならば、それは自己が実現されている、selfがrealize(現実化)されているということだと思うのですが、どうでしょうか?