基準について

 

仏教とヒンズー教の間には一つ大きな溝があるようです。私が理解している範囲では、それは無か有かということに関してです。仏教の空が無を意味しているのか知りませんが、仏教では最終的に無に行き着き、ヒンズー教においては存在=サット=アートマンがあるとします。この見解の違いが時に問題になっているように見受けられるのですが、私は私なりにこれに対する意見をもっています。私が日本語で書かれた仏教の本を読む限り、お釈迦様は無を主張されているのではなく、究極の存在に対してそれをはかる基準がないと主張されているように見受けられます。基準がないので有無を断言できないということで、一つの超越論です。サイババの著書などを読む範囲では、お釈迦様は有神論者であり、お釈迦様は神の存在について言及してはいませんでしたが、常に神への愛に満たされていたようです。ただ語らなかったということです。語っても人にそれを納得させる証拠というものはないということです。

 

少し前におもしろいツイートを見かけました。
― 私達は白ご飯が清らかさの象徴、「きれいにする」という文化を持っていた。これが基本。時代は変わり栄養的観点から「玄米がよい」.「澄むまで洗わない」こともするようになった。どっちが良い、正しい、古い新しいではなく、いつの時代にも先人の知恵はゆるぎない『基準』です。基準を持つ幸せです。
基準があるから、考えられる。他者の気持ちがわかる。話しあえる。・・・・と思う。(土井善晴) ―

 

土井氏は著名な料理研究家ですが、常々その見解に感銘を受けています。上のツイートもそうです。先人の知恵は思考の基準であるということです。ひいては伝統は思考や判断の基準を提供するものということでしょう。この世は絶えず移り変わるのですから、私はこの世に関することで絶対的な真理はないと思っているのですが、伝統もそうです。伝統だから絶対視するということは私はしません。ただ人はあらゆることに関して思考したり吟味することはできないので、私はおおむね伝統に従っていて、尊重はしています。現代に生きる者にとって伝統というのは現在における判断のたたき台を提供していると受け取るのは一つの態度です。

 

私たちの身の回りには多くの単位があります。メートル、キログラム、温度の℃などなどです。これらも便宜的に決められているわけです。単位は時代や地域によって異なる相対的なものです。そうではあっても、その存在は貴重です。この世の基準は単位と一緒で、相対的、便宜的なものしかないというのが私の受け取りです。

 

基準が相対的なものであっても、人に絶対的なものを求める性向があるのは確かだと思います。それは信仰の領域に入ってくると思います。基準や証拠がなくても人は腑に落ちる形で何かを信じることはできます。あるいは信仰ではなく美の領域にそれを求める人もいるかも知れません。哲学的には超越論になります。私は学生の頃数学を学んでいたので、ゲーデル不完全性定理が頭に浮かびます。論理的に真偽を確定することは決してできないけれども、直感的には明らかに真である命題をゲーデルは構成しました。これも基準はないけれども何かを受け入れることができる一例です。私はゲーデル不完全性定理を真実の領域の問題と受け止めてきましたが、美の領域に関するものと受け止めることもできます。絶対的なものに関する感性の問題といえるかもしれません。あるいは論理や基準の相対性の問題、限界に関する定理なのかもしれません。

 

基準というのは、池や小川を渡るための飛び石のようなものなのでしょう。その配置はさまざまに可能です。その配置は文化の特徴の一つです。無限を有限で表現する試みでもあります。此岸から彼岸への踏み石なのかもしれません。また基準自体が存在しないあるいは適用できない領域があるということも受け入れていいわけです。私の日常的な思考や日々の活動はこれらの基準を当然のように前提としるのは確かです。基準にまつわることは文化です。