全託7

 

定期的に全託について書きたくなります。私にとって一つの大きなテーマです。今日はある文章を読んでいて、少しばかり全託に関する理解が深まったような気がしましたので、それについて書きたいと思います。

 

when we try to understand the meaning of the word saranagathi or surrender, you will note that, in the beginning, Arjuna started asking questions of Lord Krishna, thinking that he is using his own intelligence, his own capacity of enquiry and his own ability of distinguishing right from wrong. He is thinking that he is using his own strength. Because he relied heavily upon his own powers and thought that his own powers were capable of excelling and exceeding God’s powers, he landed himself into a difficulty and was not in a position to decide what he should do and what he should not do. As soon as Arjuna found it not possible to go ahead or even to go back; in fact, when all his actions came to a stop, then he turned to Lord Krishna and said: “I will take your orders, I am not in a position to decide what I should do. I am ready to obey you and carry out whatever you want me to do and I will do so with my full heart.” Thus he surrendered his thought, word, action, and all, entirely to God. (Summer Showers 1972 p79)

http://www.sssbpt.info/summershowers/ss1972/ss1972-08.pdf


(シャラナガティすなわち全託という言葉の意味を理解しようと努めるとき、まず最初にアルジュナが主クリシュナに質問を始める際に、彼アルジュナが自身の知性や探究の能力や是非を区別する能力を用いていると考えていることに気づくでしょう。彼は自身の力を用いていると考えています。彼は自らの力にひどく頼っており、また自身の力は神の力より優れそして越えていると考えていたがゆえに、彼は困難に陥り、何をすべきで何をすべきでないかを決定する立場から滑り落ちました。前にも進めずさらには後にも引けないことに気づくと、実際に彼のすべての行動が停止してしまったその時、彼は主クリシュナに向き直りいいました。「私はあなたの指示を受け入れます。私は私が何をすべきか決める立場にありません。私はあなたに従い、あなたが私に行ってほしいことを実行する準備ができており、そして私は心のすべてをもってそうするでしょう。」こうして彼は彼の思いと言葉と行動とすべてを完全に神に全託したのです。)(※日本語訳がこなれていないことは許してください)

 

この文章の何が私の心に引っかかったかというと、最初アルジュナは自身の力が神の力に増していたと考えていた点です。普通の人は当然自分の力が神の力に増しているとは考えないものですが、しかし本当にそうでしょうか? これは私の受け取りなのですが、世の中は絶えず変化しています。それはある意味神が私の知らないところで着実に何かを動かしているということです。急激かあるいは緩慢かはわかりませんが、とにかく世界は動いています。それはある種神のご意志の具現です。もちろんこのように考えない人が大半でしょう。しかし私は最近そう考えることが増えたのです。さてそのように考えている私にとって、私が自分の力でその世界の変化の流れに抵抗してあるいはその流れを無視して行動するとすれば、それはアルジュナと同じように、私自身の力が神の力に増していると考えていることになります。私は上に引用した文章を読んだ時にそう感じたのです。

 

ならば全託とはどういうことなのかということです。それは川の流れに棹さして舟を漕ぐようなものです。世界は神のご意志として変化しているわけです。その流れを変えることなく、その流れを無視することなく、その流れに沿った着実な努力を果たすことが全託ではないかと思ったのです。それは自らの意志、自らが進もうという方向性を手放すことでもあります。流れはすでにできていて、その流れに乗る努力をするわけです。エゴを出さずに。エゴを出せば、自分がしたくないことをしないという態度をとったり、自分の能力が神に増していると思ってしまいます。少なくとも世界の変化=流れが感知できているならば、何をすべきかすべきでないかに迷うことはありません。

 

このような全託自体も一つの修行であるようです。しかしながら真に全託しているものは全面的な平安を保っているとも聞きます。自分がない、つまり自分の意志や言葉や行動がないのですから、そもそも心配することがないようです。その境地に達するのは非常に困難ではありますが、自分の能力が神に増していると考えずに流れに沿って着実に生きること、心のすべてをもって努力すること自体は安らぎをもたらすのではないかと思っています。これはあくまでも私の信仰でありそれなりに納得できる受け取りではあります。