内的諸感覚

 

感覚といえば五感すなわち聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚のことを思い浮かべるでしょう。これは肉体に結びついた感覚です。日本にはこれ以外にも感覚と捉えられているものがたくさんありますので、それらの一部について今日は書いてみたいと思います。

 

私は数年前まで経済のことがさっぱりわかりませんでした。もちろん体系的にある程度長い期間にわたって基礎を学習をしていないので当然といえば当然です。日本人は誰もが日本語を話せますが、それに似て大人は誰もが経済活動に何らかの関わりがあって経済のことは皆がわかっているようで、しかし実際はよくわかっていないともいえるように思います。経済について語る自称専門家が多いのですが、正直いって誰が正しいことをいっているのか断言できるだけのものをもっていませんでした。それがこの数年で、大雑把ですが、経済に関して割り切った物の見方ができるようになりました。これが可能になったのは大きな要因としてマーケット感覚が身についてきたためだと思います。マーケット感覚といえば、経済活動に携わっていれば誰もが何らかの感覚があるでしょうが、今取り上げたいのは金融に関するマーケット感覚です。私は15年前くらいに投資信託を買い始め、そうではあってもほぼ10年くらいはあまり金融市場に関心があったわけではありません。ところが5年くらい前から投資信託により深く関心をもつようになり、また株式も購入するようになりました。株式は値動きがあるので、得をすることがある一方変な会社の株を買うと損をします。特別株で儲けようとは思わなかったものの、しかし確実な株を見分けたいとは思っていました。それで株式市場のことを調べたりときに株を買ったりしながら、少しばかり勉強してきました。コロナウィルスの影響で2019年は大きな値動きがありました。また2022年はアメリカの株式市場でベア相場とされる株価の下落がありました。それなりに大きな市場の動きでした。株を買っている身でこういう株式市場の大きな動きを体験することは、それなりに勉強になりました。これらを通して、つたなくもマーケット感覚というものが身についてきました。そして驚いたことに、この金融市場に対するマーケット感覚のお陰でなぜか経済全般に関しての目が少し養われていました。株式の売買で多少の損得をするだけでなく、このマーケット感覚が身についたことは私にとってとても大きなことでした。これは五感とは異なる感覚の一つでしょう。

 

もう一つ別の感覚について取り上げましょう。言語感覚あるいは語感についてです。私は学生時代にどうしても思うことを表現したいという内なる切実な欲求があって、苦心しながら自分なりの文体を身につけてきました。それはこのブログにあるような文体なのですが、この文体を身につけるまでに2年近く苦心したと思います。自分の思っていることをほぼ正確に表現できるという確信、安心感が得られるまで神経が張り詰めていました。そしていつの間にか自分の文体を身につけることができていたのですが、このように自分の文体を身につけることができたことはとても大きなことで、それ以来少なくとも言語表現に関してはもどかしい思いをしていません。この感覚がない人は、自分が十分に表現できないという不全感を感じているかもしれませんが、私にはそういうものがありません。この言語感覚=文体も努力して獲得する価値のあるものです。また語感ということに関しても、私は人と少し違うところがあるかもしれません。概念の受け取り方や意味の受け取り方の違いです。ある意味、私自身のこの特別な語感によってこのブログがあるようなものです。人と違う語感によって、自分なりの考えを述べることができています。

 

マーケット感覚や言語感覚だけでなく、人生に関する感覚、人間に関する感覚も人は育むべきでしょう。私はこれまで私なりに痛い目に幾度もあってきました。株で損をすることでマーケット感覚が身につくように、人生で痛い目にあうことで人生に関する感覚や人間に関する感覚が育まれる部分はあります。牛乳を撹拌すればヨーグルトができるのに似て、この世で揉まれることで人は人生感覚、人間感覚というヨーグルトのようなものを育みます。これはとても貴重です。この人生感覚、人間感覚こそが個性といっていいものです。人生に対する真剣さと誠実さ、そして避けることのできない苦労、これらは実際のところ私を育んでくれます。

 

人生とはある種の感覚を育む場であって、人生の目的とは解脱といわれたり、アートマ実現といわれたりしますが、最終的にはアハムブラフマースミ(私はブラフマンである)とか、ソーハム(私はそれである)とかそういう類の感覚を身につけなければならないのでしょう。観念的なことは多くの人が語っています。そういう人の語ることを繰り返し聞いても何の役にもたちません。マーケット感覚や言語感覚と同じように実地に身に付けなければなりません。人生には楽しいことと苦しいこと・悲しいことがあるでしょうが、それらの二元性の打撃が、最終的にアハムブラフマースミという感覚やソーハムという感覚を獲得するのを助けてくれるはずです。これらがなければ一元論的哲学はほぼ意味がないと私は思います。人生とはそういうもののためにある。そう思えば、苦労もなんとか乗り越えることができるでしょう。真剣さと誠実さをもってこれからも歩んでいきたいです。