エーカムサット(One truth or Truth is One.)

 

エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
真理は1つ、しかし、賢者はそれを様々な名前で呼ぶ(1974.7.23 サイババ

サイババの言葉というわけではなく、ヴェーダマントラだと思うのですが、サイババのご講話でしばしば取り上げられるマントラです。今日はこのマントラの特に最初の部分(エーカム サット)について書いてみたいと思います。エーカは1でエーカムはその目的格か主格なのですが、厳密には私はわかりません。サットは実在、真理、存在というような意味です。私はエーカムサットでOne truth(一つである真理)あるいはTruth is One.(真理は一つ)の両方の理解をしています。

 

先週はAll are One. Only One exists. All for One, One for All. はすべてマントラといっていいものだと書きましたが、エーカムサット(One truthあるいはTruth is One.)も同様です。

 

一つであるところの真理あるいは存在を人は多様に表現します。真理は一つの表現しか許さないというわけではありません。たとえば私は山歩きをしますが、山は一つです。富士山なら富士山、高尾山なら高尾山、雲仙普賢岳なら雲仙普賢岳です。しかし山アプリを見ていたらわかるのですが、一つの同じ山を歩いても人によってそのレポートはさまざまです。お花に焦点を当てている人、たくさんの距離を歩くことに焦点を当てている人、山での食事に焦点を当てている人、山から見える風景に焦点を当てている人などです。ある程度山域の広い山ですと、歩くコースは本当に多種多様です。しかしそれらはすべて一つの山についてのレポートです。どれも正しいのですが、どれも山を表現するのに不十分です。真理・存在もそれと同じです。

 

サット・チット・アーナンダとよくいわれます。これはブラフマンあるいはアートマについての記述です。サットは存在です。チットは意識またはそれに関する意識です。以前も説明したかもしれませんが、日本の食器の多くは土でできています。それが茶碗の形をしているならば、土を茶碗だと意識します。土という実在は茶碗という形・意識をまとったのです。その茶碗を用いて食事をすれば満足=至福(アーナンダ)が得られます。さてエーカムサット、一つであるところの真理は名前や形がはっきりしません。名前や形が認識されればそれはチットです。ナラヤナウパニシャッドというヴェーダマントラでは、至高のプルシャが世界を創造しようとしてこの世界を作ったとあります。この世界・宇宙が創造される前、それはサット(存在、真理)でした。それは自らから生じた五大元素を用いて世界が感覚できるものにしました。それはチットです。私たちが今見ている世界がそれです。私たちはこの世界を多様に表現しています。人間の子どもを見ればわかると思うのですが、本来子どもは世界にあることがうれしいようです。サットとチットが組み合わさった世界を前にアーナンダ(喜び)を感じるのです。さて人間も欲望します。人間は目に見えない魂に肉体を与えます。目に見えない魂(サット)に目に見えるチットとしての肉体を与える行為は至福に満ちたものとされます。

 

何度も書いてきましたが、この世界は映画に似ています。スクリーンに光が投影されています。スクリーンが真実であり、光は幻です。しかし実在と知識が組み合わさることで、私たちは映画を楽しむことができます。またこの世界では日々何かが起こっています。世界は一つ、真理は一つ、存在は一つなのですが、私たちはそれをニュースとして自覚することで情報あるいは知識という喜びを得ています。芸術家たちアーティストたちも、自らの存在の深みからあらわれたインスピレーションに形を与えようとしています。思っている通りの形を与えることができたならば、芸術家あるいはアーティストたちは満足するでしょう。

 

出発点はいつもエーカムサット(One truthあるいはTruth in One.)です。エーカムサットから生まれ、エーカムサット上で世界が進展し、エーカムサットに世界は帰融します。茶碗は土から生まれ、ずっと土でありながら茶碗として用いられ、最後は土に戻ります。人間もエーカムサット(真理、存在)であり、人間の人生もそこから始まり、そこに戻ります。そしていつもエーカムサットでした。表現の多様性(今ある生)に惑わされずにいるために、生まれてくる前つまり肉体を与えられる前と、死んだ後つまり肉体を去った後のことも少しは考えておかなければなりません。生まれてくる前も生きてある今も死んだ後もいつも存在しているのですから(私にはそういう感覚があります)。私たちはエーカムサットの(部分的)表現です。