林住期

 

私のブログを「林住期」で検索すると6つ記事が出てきます。それらはインドからの留学生から聞いた話がベースとなっていて、それに日本の実情、私の置かれている状況などを考慮して書いたものです。なので厳密にいえば、インドの太古からの考え方と異なるところがあるでしょう。いえ、私の考えは少し甘いところがあり、インドにおける林住期の規律はもっと厳しいといえるようです。

 

日本には老後という言葉がありますが、それは林住期とほんの少しは重なるにしても、現実には日本に林住期はないといって差し支えないものです。言葉のとおり、林(あるいは森)に住んで霊的生活をおくるわけです。それは解脱を目的としたもので、日本人のほとんどにとっては解脱が到達可能なもの、あるいは人生において目指すべきものという認識がありません。言葉の上ではそういうことを知っていても、実際にそれにふさわしい生活を送っているわけではありません。

 

ここ最近よくこのブログで取り上げる『プレーマヴァーヒニー』という本の第52節において林住期についての説明がありました。もし関心がある方はこの本を買って読まれるのがいいと思いますが、今日は引用はやめておき、そこに書かれている趣旨を私なりの受け取りで述べてみます。私の理解によれば、林住期とは、命の維持に最低限必要なもの以外の執着を手放していく時期です。そのために厳しい生活を森で送ります。

http://www.sssbpt.info/vahinis/Prema/Prema52.pdf (プレーマ ヴァーヒニー52節英語版)

 

食や衣服は最低限許されるのですが、好みをいうことは好ましくありません。人はだれもが好む体験があるものですが、そのような好む体験への執着をなくしてしまわなければなりません。何かを選り好みすることはそれ自体が束縛なわけですから。最低限のふさわしい食物をとりながら、不二一元を教えるウパニシャッドを学ぶ生活を続けるようです。寒暑や苦楽があるでしょうが、それらの影響から心理的に免れるようにします。このような生活では慈善や奉仕ができませんが、つまりはもし財産があるならばできるだけそれらは慈善や奉仕に使ってしまって、財産の蓄積や依存も減らせるだけ減らしてしまうということなのでしょう。一人であるいは夫婦で林住期に入るわけですが、夫婦で林住期に入る場合は性の関係はもたず兄弟姉妹としての生活になります。これらすべての目的は一点集中による一元的体験の獲得のようです。そして一元的体験こそが英知だとされます。あとはこの一元的体験を船に解脱へと歩み続けていきます。

 

精神の奥底に染み付いた人間を支配する心の傾向はなかなか取り除くことができません。たとえば私などもコーヒーを飲む習慣であったり、食事を摂る時に好みの味付けがあったりします。対人関係においても、それが効果があるとは限らないのにあるパターンに従って対人関係を営んでいます。仕事の仕方も人それぞれでしょうが、体の癖だけでなく心にも癖があるわけです。これがなかなか抜けきれません。これらは何らかの物事や体験へのこだわり・執着に結びついていることが多いわけです。もちろん幸福や知識ですら束縛であることはギーターに示されているとおりです。これらの心癖を矯正するのに長い時間がかかることは、私は自分の体験からわかります。

 

厳密にインドで受け継がれている規範に基づいて林住期を送ることは日本ではほとんど無理でしょうが、それの目指すところを知っておけば、ほんの少しは役立つことがあるでしょう。ないようであるのが心癖。心癖を知る一つの方法は、一日の終りにその日の行動を振り返って、その動機を調べることです。すこしばかり大変な作業ですし、自分の見たくない部分を直視せざるをえないケースもあるでしょう。そして自分の心癖を知ったあとは、それを矯正するなり手放すための誠実な実践が必要になってきます。実際のところ、厳しい生活を一律に送るのが最も有効な方法なのかもしれませんが、日本ではなかなか難しいのが現状です。