収入の数%を奉仕にあてる

 

サティヤサイオーガニゼーションという団体があります。サティヤ・サイ・ババに関心をもったり、その教えに共鳴した人たちのために、サティヤ・サイ・ババが示した指針に沿って設立された団体です。それは霊性の向上を求める人たちのためのもので、目に見える部分として奉仕活動に携わることを目標としている奉仕団体、霊性団体です。その団体には、それに参加するメンバーが意図的に外れないことを求められている9つの行動指針というものがあります。その9つ目にあるのが、『「節制のプログラム」を通じ、欲望に節度を設けて、そこで蓄えたものを奉仕に役立てる。』です。「節制のプログラム」とは簡単にいうと時間、お金、食物、エネルギーを無駄にしないということです。この9つ目の指針の目的は2つあるでしょう。一つは欲望に節度を設けること、もう一つは余裕のできた時間、お金、食物、エネルギーを奉仕活動にあてることです。

 

先日ビル・ゲイツ氏の資産が10兆円で、そのうちの5000億円を彼はワクチン開発に提供しているという情報を見かけました。素晴らしいことだと思います。私を含めて多くの庶民にはそれほどの金額を社会福祉のために提供することはできません。彼の行っていることはとても有意義です。ところで10兆円のうちの5000億円は率でいうと5%です。5000億円も支出することはできなくとも、収入の5%を奉仕にあてることができる人はまあいそうです。日本では税金や社会保障費の割合が結構高いので、5%は難しくても2~3%なら可能という人もいます。手取りの収入が仮に500万円なら5%で25万円、2%で10万円です。一方で自分や家族以外の人のためには1円も使いたくないという人も多いのでしょうが。

 

まずは節制について考えてみます。快適さを求める人は生活費の枠内でできる限りの快適さを求めるでしょうが、実はそうでない人たちがいます。私はこれまで投資信託や個別株の購入を少しばかりしてきたことがあるので知っていますが、株式に投資する人の一部は喜んで節約に励みます。少しでも節約して溜まったお金を投資します。彼ら投資家は美味しいものを食べたり、つまらない娯楽にお金を使うよりも投資の方が楽しいのです。また一部の富豪が質素な生活をしていることはよく知られた事実です。彼らは贅沢を目的にしているのではなく、資産を増やすのがおもしろいのでそれに携わっているのですが、無駄な出費を嫌います。これはあまり霊性とは関係ないかもしれませんが、節約を苦にしない人がいることは知っておいていいでしょう。

 

霊性向上を意識した節約は欲望に制限を設けることです。人は食べたり、衣服をまとったりしなければならないので、最低限の必要というものがあって、欲望をなくすことはできないでしょうが、(何が必要ないかは人それぞれでしょうが)必要のないものに関する欲望は減らしていくことが霊性の向上に不可欠です。欲望の少なさと英知の度合いには関係性があるとされます。人は収入の範囲内で生活するよう努力しますが、きちんと生活を見直せば、極めて貧しい人を除いて数%程度は出費を減らすことができます。出費を減らしたということは欲望を減らしたということです。

 

次にそれを奉仕に用いるということについてです。知っているかどうかわかりませんが、日本にも生活に極めて困っている人がいます。わかりやすいのはホームレスの方々ですが、母子家庭・父子家庭の方たちのかなりも困窮しています。他にもいらっしゃいます。たとえば私が娯楽の映画鑑賞に1800円使うのと、数日間食物をわずかしか食べていない人がまとまった食事を1食(仮に500円とします)でも摂るのとでは、お金の使い方としてどちらが有効かということです。資金がどの程度有効に用いられているかは、ある程度ビジネス感覚のある人はわかるでしょう。私の感覚としては、暇つぶしのために払う映画代とそのための時間よりも、ホームレスの方に食事を1食でも提供するほうが、経済的に見ても有効なのです。ただ奉仕は決して経済性だけが問題にされるわけではありません。

 

これに似たケースは丹念に社会を観察すれば見つけることができます。奉仕の機会を求めて社会を観察することで社会をよりよく理解することになります。生活の必要が満たされている私がお金を自分のために使うのと、念頭にある困った人のために使うのとどちらが有効かということを冷静に検討することで、人間理解も深まります。知性と識別がなければできない作業です。霊性の領域における奉仕とは、捧げる相手の内に自分の愛する存在を見て礼拝の気持ちで捧げ物を捧げる行為ですが、そのような霊的な観点がないとしても、奉仕という行為には尊い要素があります。奉仕によって社会を良くするなどという考えは持たなくていいのですが、少なくとも自分自身に対しては良い効果を持ちますし、場合によっては奉仕の受け手も良い影響を受けるでしょう。

 

ちなみに収入の数%を奉仕に用いても自分の財産が減っていくということはありません。前提として節制によって蓄えたものを活用するからですが、それだけでなく人は与えれば与えるほどその何倍ものものが自分に返ってくるという不思議な原理のようなものがあって、日本にも情けは人の為ならずなどのことわざがあるように、いいことはすればするほどお金が寄ってくるという傾向があるように思います。私は収入の数%を奉仕にあてる生活を15年前後くらい続けていますが、比較的貧しいながらも生活は今のところ破綻していません。収入の5%くらいを奉仕に用いれば、その20倍くらいつまり次の一年くらいの生活費は見えない働きのおかげで保証されるのではないかと根拠もなく感じています。

 

たとえば、車に乗って10km先のショッピングセンターに買い物に行ったとします。そこで自分の稼いだお金で買い物をした時、お金は自分で稼いだのは確かですが、車を作ってくださった方、ガソリンを供給してくださっている方、道路を建設し維持してくださる方、ショッピングセンターの維持に関わる何千人もの方々、それらすべての人たちを育て教育を授けた方々など無数の人々のおかげがあってこそです。単にお金を払うだけでそれらの利便性を享受できるわけです。社会に対するわずかばかりの感謝があっていいでしょう。自身は社会の中で時に過ちをおかし、少しばかりは社会に対する負債を負っているでしょう。そのように社会に対する感謝をあらわしたり、負債を返す行為としての奉仕の意義はあると私は思うのです。

知識について

 

誰もがそれについてわかっているようで、しかしそれについてきちんと説明しようと思えば上手く説明できないもの。その一つに「知識」があります。知識とはすなわち知っているということで、一時的にかあるいは永続的に自らの存在の一部になっているもののことです。似たような言葉に情報がありますが、私の理解では情報は必ずしも知識ではないのですが、知識は情報として流通していきます。知識は情報を構成要素として形成されます。

 

私は一週間に一つブログの記事を書くのを習慣にしていますが、いつも一つのテーマについて書いています。各記事にはそのテーマに関する情報を含んでいますが、一つの記事を通して一つの知識を提供するように心がけています。それはそのテーマに関する概念の提供、あるいは読んでくださる各人がそのテーマに関する概念を形成するきっかけの提供です。情報は素材ですが、知識は概念に関わります。素材は一本の柱で、概念は家です。

 

まず私自身が何かを知りたいと思った時、どういう作業を行っているか、そして何をもって知ったとするかについて述べます。私にはいろいろと関心のある領域があるのですが、どの領域に関しても知っていることより知らないことの方が多くあります。調べてすぐにわかることもありますが、わからないこともこれまた多いです。急を要しない限り疑問は疑問のまま放っておきます。かつては自分の頭で考えてすぐに結論を出そうと努力をしていましたが、最近はそういうことはしません。

 

私は瞑想を長い間習慣にしていますが、瞑想をしているとそれを目的にしているわけではないのですが、長い間わからなかったことに関する気付きがふと得られることがあります。あるいは日常生活において何らかの刺激や違和感に直面した際にある種の発想・アイデアが得られることがあります。そのような瞑想時の気付きや生活の中で湧いてくる発想・アイデアが私には大切です。例えばサンスクリット語には語根があって、それをもとにさまざまな単語が形成されているようですが、気づきや発想・アイデアはそのような語根に相当します。それをもとに単語=知識を形成します。

 

知識の形成の段階になって初めて頭=思考を使います。粘土細工をするように、気づきや発想・アイデアを核としてそれにさまざまな経験や情報を肉付けしていきます。私にとって思考は造形作業です。それによって概念が少しずつ形をとっていきます。その概念を裏打ちする経験が豊富であるほど、その概念は血肉化しているといえます。そうしてできあがったものが私にとっての知識になります。

 

これは私が知識を形成する際の一例ですが、知識社会といわれる現代社会においては知識を形成する能力は重要視されます。それは言葉や他の記号で表現されますが、ただ表現されるだけでは十分ではなく、それが何らかの形で社会・生活に落とし込まれる、つまり社会・生活の中で実現されたり応用されることが求められる、それが知識社会です。実現されるまでは知ったと主張できない可能性もあります。現代では経済や学問において差異化、差別化ということが求められますが、それはある知識が他と違って特徴が明瞭であるということなのでしょう。特徴が明瞭でなければ情報の海に埋もれて見失われてしまいます。

 

知識は文化をも意味します。文化とはそれに携わることで自らが純化される装置と考えることができますが、知識の形成とそれを社会や自らの生活で実現することは文化の同義語といってもいいものです。このような文脈で考えれば、知識社会は現代になって到来したのではなく、随分古くからある社会の実態です。自らが純化されるその行く先が人生の目的であって、必ずしも知識そのものは人生の目的ではないのかもしれませんが、それでも知識の重要性が減ることはないのでしょう。

宗教者は御名を伝えるべし

 

諸宗教が千年、2千年以上にもわたって教えを説いてきました。そして現在があります。諸宗教の関係者が千年以上にもわたってなした努力は大変なものだったでしょうが、現代の社会状況を見て、その努力の甲斐はどれくらいあっただろうかという思いはあります。大切なのは御教えを説き聞くことではなく、それを生活に取り入れることなのですが、それが十分にできていないのでしょう。

 

私の宗派は御名を大切にする宗派なのでわかるのですが、御名は数文字からせいぜい十文字程度で構成されています。御名を思い起こすのは非常に簡単です。御名には何もなさそうでありながら、その宗派の説くすべてがこもっているというのが私の実感です。一つの宗派の経典、聖典は分厚く何冊にもわたりますが、御名は軽やかです。The name will concretise the named.(御名は名付けられているものを具体化する。)人はお寺に行ったり、教会に行ったり、神社にお参りしたりするでしょう。そしてそこで教えを聞きます。すべての概念は御名と関係があります。御名と関係のない教えなどないはずだからです。インターネットにアクセスして求める情報を探すように、御名を思うことは自らの心に触れるその宗派の御教えへと案内してくれます。御名はインナーネット(心の中の世界)へのパスワードなり、パスポートです。

 

2つの世界があります。私たちが感覚で知覚する外界と、感覚を超えた内なる世界です。ほとんどの人は外界が真実だと思っているでしょうが、ある種の人は内界により真実味を感じます。私たちは生きることの衝撃を内側で受け止めるからです。御名は外界が真実であると思っている人にとっては空気をふるわす単なる音なのかもしれません。しかし内界を生きる人にとっては、唯一の心の支えであることもあります。必死に生きている人は何ページにもわたる教えを思い起こすことはできません。1~2秒で唱えることのできる御名にしがみつくしか生きていくすべのない人もいます。そういう人にとっては、感覚で知覚するこの世界より御名こそがより現実です。

 

仏教もキリスト教イスラム教も多くの宗派があるようです。しかし崇める御名は、例えばキリスト教ならイエスという御名一つでしょう。多くの宗派は多くの御教えを意味していて、御教えが人々を分裂させている現状において、すべてに共通の御名を大切にすることは人々を一つにさせてくれるはずです。一つの御名のうちに自分が生活に取り入れようとする御教えを見ればすむのですから。すべての宗教は大本では皆宗教の創始者の体現する善を説いてきたわけです。御名を大切にすることは、その原点を大切にすることでもあります。

 

もしかしたらですが、ある宗教の御教えだけに関心・信心があって、御名に関心・信心のない人というのは、結局のところ不信心の人であるのかもしれません。私などは宗教の創始者が説いたがゆえにその御教えを生活に取り入れようという気になりますし、誰が説いたかに関心のない御教えというのは、現代学校教育で教える道徳とそれほどは違いがないでしょう。

 

以上のようなことから、私は宗教者はまず何よりも御名を大切にしそれを伝えていくことが大きな務めに思います。人々の心に御名が安置されたあとで、さまざまな御教えを御名との関係の中で育むことができます。私は、御教えをすべて忘れてしまったとしても、御名さえ忘れなければ何も忘れていないに等しい、という見解をもつくらいです。御名が思いと言葉と行いに染み渡っていることは、その宗派の御教えを体現していることです。これは多少なりとも私が御名を大切にして生きてきた実感です。

脱俗への第2の道

 

このブログを見ていただければわかりますが、私は宗教的な側面が強いです。親からもかつてお坊さんになってはどうかといわれたことがあります。しかしながら、私は宗門に入ることに関心はなかったです。出家をしたいという思いを抱いたこともありません。正確には私は内向的なだけで宗教的というわけでは必ずしもないからです。ところで脱俗の道といえばこの出家を思い起こす人がいるでしょう。キリスト教でも修道院に入る人が日本でも少なからずいるようです。出家したり修道院に入ることを第1の脱俗の道と表現するならば、第2の脱俗の道というのもあるのではないかと思い、今日はそれについて書いてみたいと思います。

 

正確にいえば脱俗ではありません。しかし世俗から少しばかり離れる道ではあります。私は常々思っているのですが、霊性の道を歩むには都会よりも自然豊かな昔でいうところの村のほうがいいと思うのです。私は大都会で暮らしたことも、地方の都市部で暮らしたことも、農村地帯で暮らしたこともあります。生まれてから何十年も都会でしか生活をしたことのない人にはわからないかもしれませんが、霊性の向上には自然豊かな農村部のほうが適しているのは間違いないように思います。私は宗教やそれに類する団体にかかわる人々を少しばかり見てきましたが、私が人生で出会った最悪の人たちの半分くらいは宗教やそれに類する団体の人たちでした。一方農村地帯の普通の人たちは、タバコを吸ったりお酒を飲んだり、テレビを見る生活を送っていても、素朴といってもいいような人が多く、そういう農村の人たちと都会で一生懸命霊性の向上に向けて努力する人を比べると、それほど人間性に大差はないというのが50年近く生きてきたものの実感です。自然豊かな農村部で霊性向上の努力をするほうが、都会で努力をするよりも倍は進歩の度合いが早いのではないかと感じるほどです。ちなみに地方の都市部で生活してもそれほどは霊性向上が見込めません。

 

インドには林住期という言葉があります。概ね50歳から75歳位までで、50歳前後くらいまでに一通り家庭での務めを終えた人が、家庭のことを子どもに任して自分は人里離れたところで霊的なことを中心に暮らす時期のことです。完全に世俗と縁が切れたわけではありません。25歳から50歳くらいまでの家長期では家庭中心で生きていたのが、より広く社会のために生きる時期といったほうがわかりやすいでしょう。今の日本では50歳はおろか60歳、70歳、あるいはそれ以上になっても一生懸命働き続ける人がいて、状況によってはそれもいいのですが、一方もし区切りをつけることが可能であるならば、50歳を過ぎて適当な時に世俗から少し距離を取る人がいてもいいのではないかと思います。あくまでもその人の個性や傾向なのですが、静かに過ごすことを好む人はまあまあ多いはずです。先程述べたように自然豊かな農村部のほうが霊性の向上ははかどると思うので、この時期に農村地帯へ移り住む、それを第2の脱俗の道と表現したいのです。

 

農村部が必ずしも気楽なわけではありません。都会より人間関係がめんどくさいケースもあるでしょう。都会で過ごすほうが便利で快適です。そうであったとしても、霊性の向上のことを考えれば自然豊かな地での生活を選択肢に入れてみるのはおすすめです。カエルの鳴き声が一面響き渡っていたり、早朝野鳥の鳴き声で目を覚ましたり、虫の鳴き声に風流を感じてみたりの生活が延々と続きます。時間の使い方次第でおどろくほどの霊性の向上が図れます。

 

他者と交流を持って地域に関わることもできます。今は耕作放棄地が増え続けている状況ですから、場合によっては地域農業を維持する助けになるかもしれません。車で少し移動すれば買い物をしたり職やアルバイトを見つけることもできるでしょう。今はインターネットが普及していますから、必要なものを手に入れるのは簡単です。都会に比べてお金をかけずに生活できることにも気づくでしょう。地方の観光地や食をじっくり堪能する楽しみもあります。

 

親元に帰ることもできるでしょうし、親がすでに都会育ちであるならば、数代前の祖先の地に帰ることもできます。あるいは時に都会へ出てきたいからという理由で、大都会から100km以内のところに場所を探しても良さそうです。今の日本には選択の幅はたくさんあります。住居費用も、行政が補助してくれるところがあったり、あるいは一戸建てを買うにしても、地域によりますが、数百万円で築3~40年の100㎡の住居を買うことも可能です。その地で命を終えてもいいですし、死が近づいてきたと感じれば病院や介護制度の整った地に移り住むこともできます。私自身はいま農村部に住んでいます。人生何があるかわからないので先のことはわからないのですが、今のところから移り住む予定はありません。

 

第2の脱俗の道が認知されて、何万人かの人が農村部へ移ることがあるならば、農村のありようが変わる可能性はあります。農村で最も深刻なのは人がいない、あるいは減っていくことだからです。一つの有り得べき道として第2の脱俗の道があっていいと思います。

自己実現

 

自己実現という言葉を聞いたことがある人は多いと思います。特にマズローの欲求5段階説が有名です。生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、尊重の欲求、自己実現の欲求の5段階です。自己実現の欲求は精神的欲求、成長欲求とされています。マズローのいう自己実現は英語ではself actualizationとつづるようです。

 

マズローの説は心理学における自己実現論ですが、霊性の領域においても自己実現が説かれます。私が知っているのは、自己信頼、自己満足、自己犠牲、自己実現の4段階です。マズローのいう自己実現霊性の領域における自己実現は日本語では同じ表現になりますが、しかし霊性でいう自己実現は英語ではself realizationとつづります。self actualizationとself realizationは異なっています。私は当初この2つの違いがよく理解できませんでした。というより、マズローのいう自己実現は何となく分かるのですが、霊性の領域でいう自己実現がよくわからなかったのです。

 

私はかつて人に聞いたことがあります。「self realizationというのはselfを体験(experience)することと捉えていいのでしょうか?」私が質問した相手はそうではないと返答しました。experienceは自分でないものを体験することで、experienceではなくrealizeですといわれたのですが、英語の単語から刺激される想像力の幅が狭くて、realizeという言葉が何を意味しているのか結局よくわかりませんでした。私にとっては現実化というような意味の言葉だったのです。悟るという意味もありますが、それは少し違うような印象をもっていました。

 

最近次のような言葉を見かけました。
Religion is realization(endurance, tolerance leads to peace) of his identitiy with all, all mankind and all beings, alive and inert. (Baba)「宗教とは実現であり(持続と我慢は平安へと導きます)、すべてを自らのアイデンティティとみなすこと、すべての人類とすべての存在、生きていようと動かないものであろうとすべてと同一になることです。」(英語の日本語訳の拙さは許してください)

 

もし自己実現の実現realizationの意味が、ここでの宗教を定義する実現realizationと同じ意味であるならば、自己実現についての理解は深まります。前回のブログでも少し触れましたが、すべてもの、この世界すべてを自分とみなすことです。もしかしたらこの世界だけでなく別の世界を含めてもいいかもしれません。つまり私はすべてであり、すべては私であるということが現実になった状態のことです。この状態が一時的ではなく、その状態をずっと保って生き存在することです。

 

この状態にたどり着くためには、いわゆる肉体を自分だと受け止めている状態から脱却しなければなりませんが、その脱却の作業を助けるのが自己犠牲になります。自分と世界を分け隔てている敷居、境界を取り除く作業が必要ですが、これは自己探求(これは私ではない、これは私ではないという作業)によって自分でないものを取り除いていくということです。自己犠牲とは自分でないものを取り除くことです。そうやって自分でないものを取り除いていけば、逆説的にすべてが自らになるともいえます。

 

更にこの前段階として自己満足が必要ですが、上記の引用した言葉の中に(持続と我慢は平安へと導きます)とあるように、自己満足は心の平安をも意味していますが、心が平安な時に私たちは着実な自己探求が可能になるのでしょう。宗教は心の平安をもたらしてくれるものでもあります。

 

実際に私とこの世界が一つになった時、他者との間で共感があったり、動物の痛みがわかったりはするでしょうが、例えば石ころを蹴った時に何か生じることがあるのかどうかは今の私にはわかりません。機会があるごとにさまざまに述べていますが、ただ一つのものが存在するという霊性の真理、ウパニシャッドが述べるところの不二一元が目指すところであるのは確かなようです。すべての存在は唯一者から現れ、郷愁にかられてすべてはただ一つであるところ、状態に帰っていくのでしょう。

サハ ナヴァヴァトゥ(一体性のマントラ)

 

先週はギータの一節に関して触れました。第9章26節「人が信愛をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をもって捧げられたものを私は受ける。」(岩波文庫)に関してです。そして葉は肉体を、花はハートを、果実はマインドを、水は愛を意味していると述べました。今日はそれに関することを別の観点から見てみます。

 

このブログで以前触れたことがあるのではないかと思いますが、次のようなヴェーダマントラがあります。
サハ ナヴァヴァトゥ(共に行動しましょう)
サハ ナウ ブナクトゥ(共に前進しましょう)
サハ ヴィルヤム カラヴァーヴァハイ

(知性で得たことを分かち合いましょう)
テジャスヴィナヴァディタマストゥ マー ヴィドヴィシャヴァハイ

(私たちが皆争うことなく共にありますように)
これは私たちが一つであること(一体性)を願って唱えるマントラとされます。

 

ヴェーダは単に散文を読むように意味を読み取るだけのものではありません。ヴェーダは声に出して唱える時、そして唱える時に一つ一つの単語の意味を理解するようにした時に、単なる表面的な意味とは少し異なる気づきを唱える者に与えることがあります。なので同じマントラを唱えても、人によって少しずつ受け取り方(気づき)が異なることがあります。以下の解釈は私がこの一体性のマントラを唱えている時に得た気づきに関してです。

 

サハ ナヴァヴァトゥ(共に行動しましょう)
共に行動するということです。共に動くということです。これはあくまでも私の感覚なのでほとんどの人には理解しにくいことかもしれませんが、私はこの世界が自分の体のように感じることがあります。いつもというわけではありません。エゴや執着などの囚われがない時に特にそう感じます。私にとってサハ ナヴァヴァトゥ(共に行動しましょう)とは、そういうふうに自分と世界が一つであるという感覚を確保することでもあります。これは肉体=葉(ギータ9章26節)です。

 

サハ ナウ ブナクトゥ(共に前進しましょう)
共に方向性をもって前進していくということです。自分の周囲の状況を理解し、人々の望むことや目指しているものを共有し、その方向に沿って努力を重ねることです。これは私にとって周囲の環境、人々に心(ハート)を開くことです。心(ハート)を開かない限り、周囲の状況や人々のことを少しばかりでも理解することはできません。そして彼らの方向性を共有することも。私にとってサハ ナウ ブナクトゥ(共に前進しましょう)とは、そのように心(ハート)を大きく開き共感することを意味します。これはハート=花(ギータ9章26節)です。

 

サハ ヴィルヤム カラヴァーヴァハイ(知性で得たことを分かち合いましょう)
人はいろいろと知識を集めて経験を重ねていくと、さまざまな事象に関してより深い理解を得ることができます。ニュートンの言葉なのかどうか議論がありますが、次のような言葉があります。「私が遠くを見ることができたのは、巨人たちの肩に乗っていたからです」人は一人でありとあらゆる知識を得ることはできません。他の人が得た知見を活用してより高い見地に立つことができるというのが本当のところです。人々が知性で得たことを分かち合ってこそ、皆が繁栄します。私にとってサハ ヴィルヤム カラヴァーヴァハイ(知性で得たことを分かち合いましょう)とは、そのように自らが得た気づきを分かち合うことです。これは果実=マインド(ギータ9章26節)です。

 

テジャスヴィナヴァディタマストゥ マー ヴィドヴィシャヴァハイ(私たちが皆争うことなく共にありますように)
人と人とは多少なりとも意見は異なるものですが、その違いを大きく捉えることなく、多少の不都合は脇において争わないようにする。そのままの他者の姿を受け入れるということです。これは愛に基づいた関係の維持を優先するということです。傷つくことがあっても相手を許すということが愛の大きな特性です。私にとってテジャスヴィナヴァディタマストゥ マー ヴィドヴィシャヴァハイ(私たちが皆争うことなく共にありますように)とは、そういうふうに愛に生きることを意味します。これは水=愛(ギータ9章26節)です。


以上の見解をまとめると、ギータ9章26節は世界と一つになって生きていくことを意味しているともいえます。世界と一つになって生きることは、一人でできます。不二一元論の最高の境地においては多様性などなく唯一のものが存在するだけなのですから。世界と一つになって生き続けることでその不二一元の境地にたどり着ける可能性があるわけです。

 

一見こじつけのようなマントラの理解かもしれませんが、しかしながらこの理解は私がこのマントラを声に出して唱えている最中に得られた気づきであって、頭で考えて得られたものではありません。頭で考えた理解ならわざわざここに書いたりはしないでしょう。何らかの参考になればと思います。

4つの捧げ物

 

今日は秋のお彼岸の中日です。先日お墓参りに行ってきたのですが、その時に思ったことを今日は書きます。

 

「人が信愛(バクティ)をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をもって捧げられたものを私は受ける。」(バガヴァッド・ギーター岩波文庫 9章26節)
He who, with devotion offereth to Me a leaf, a flower, a fruit and water, that love-offering I accept, made by the pure hearted.(Srimad Bhagavad GITA Swami paramananda 9章26節)(信愛をこめて私に葉、花、果実、水を捧げる人、私はその愛のこもった捧げものを受け取ります。その純粋な心の人によって捧げられたものを。)

 

これは字義通り植物の葉、花、果物の実、水をクリシュナに捧げたならば、信愛のこもった愛の捧げものをクリシュナは受け取ると宣言している詩節です。一方、これには霊的な意味もあるとされ、葉は(確か)肉体、花はハート、果実は(確か)心=マインド、水は愛を意味すると聞いたことがあります。なので「人間は肉体、ハート、マインド、愛を神に捧げなさい、神は必ずそれを受け取ります」という意味になるわけです。続く9章27節が「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ」とあることを考えれば、葉を肉体、花をハート、果実をマインド、水を愛と受け取ることは妥当な見解といえます。さらには9章28節で、そのような人はカルマの束縛から解放され、解脱に達すると保証されています。

 

さて墓参りの話ですが、墓参りの時にシバと菊をもっていきましたが、それは葉と花です。墓と周辺を掃除して、線香をあげます。私の住んでいる地域だけなのかもしれませんが、線香を立てるところの前に水を貯める小さなくぼみがあります。そこに水も供えておきました。私は墓参りの時に果実をもっていく習慣はなかったので、もっていきませんでした。しかしながら、葉と花と水と線香を捧げたわけです。線香は、身を粉にする=犠牲を意味すると受け取っていいかもしれません。ただし捧げたといっても、墓参りですからご先祖様に挨拶に行ったわけです。

 

家に仏壇があります。家では、仏飯と線香と花を捧げます。宗派の関係で水は捧げません。時に果物は捧げます。シバやシキミも仏壇には捧げていません。仏壇で礼拝するときは、ご先祖様を思うと同時に、真宗ですので阿弥陀様と阿弥陀様がそこから現れた真如=真理を思っています。仏壇で礼拝するときは仏(と真理)に礼拝しているわけです。ギータの詩節にある葉、花、果実、水のうち、花と果実だけ捧げています。普段仏壇で礼拝するときにはギータの詩節を思い起こさなかったのですが、墓参りのときはシバがあるため詩節を思い起こしたのだと思います。

 

少し話は変わりますが、マントラプシパンというヴェーダマントラがあって、その中に次のような箇所があります。
「チャンドラマ― ヴァー アパーン プシパン プシパヴァーン プラジャーヴァーン パシュマーン バヴァティ」
チャンドラマーは月で心=マインドを象徴しています。アパーンは水で愛を、プシパンは花でハートを表しています。これらが一つである時に、プシパヴァーン(ハートが花開き)、プラジャーヴァーン(子孫が繁栄し)、パシュマーン(家畜=富が得られる)と私はこのマントラを理解しています。

 

墓参りに行くことで以上のことをせっかく思い起こしたので、人生を神仏にお捧げする人生を歩みたいと気持ちを新たにしたものです。

西洋の3つの信仰

 

西洋における信仰と聞いて思い起こすのはキリスト教でしょう。しかしながら、人間の行為の暗黙の前提となっているものを信仰と呼ぶならば、西洋には少なくとも3つは信仰と呼べるものがあります。一つはキリスト教、一つは資本主義、一つは物質的な物の見方です。

 

日本人が大陸への侵略をどれくらい理解し反省しているのか話題になるのと同じように、私はキリスト教が非西洋諸国への侵略の尖兵となり、非西洋人たちに肉体的・精神的苦しみを与えてきたことについてどれだけ自覚しているのか常々疑問に思っています。キリスト教の聖職者たちが立派なことをいっているのは知っていますが、だからといって過去の歴史が帳消しになるわけではありません。例えばマザーテレサノーベル平和賞を受賞しましたが、確かに彼女の行ってきたことにはよい側面はあるにしろ、一方で彼女は自分が助けようとする人に改宗を勧めていたとされます。彼女は普遍的な人道主義者というより、人々のキリスト教への改宗を目的とした人生を歩んできたと評価する人がいるのです。彼女の教会には多くのインド人たちから寄付が届いたと聞きますが、彼女の死後そのお金はバチカンへ送金されたという報道も耳にしたことがあります。立派だといえるような人でもこういう状態です。人は説く言葉ではなく、その行いで評価されるべきでしょう。人々が自発的にある宗教に関心をもち、その宗教の信徒になるのはいいとは思うのですが、キリスト教に限らず改宗が盛んな宗教に私はどうしても否定的な印象を持ちます。改宗を強制に近い形で勧めることは人間を冒涜しているとさえ思うのです。

 

次に資本主義です。このブログでは何度かウェーバーエートスについて書いたことがありますが、彼の考えを砕けた言い方で表現すれば、資本主義は西洋人独特の行動様式で宗教の延長であるということです。西洋に限らず、人間社会があるところには経済があったわけですが、ここ数百年の歴史を見ればわかるように、資本主義は人間社会、自然環境に対して破壊的影響を及ぼしてきたことは否定できません。私は日本に生きているので、経済発展による繁栄が人々にある程度の快適さをもたらし、極度の貧困から人々を解放してきたことは認めます。しかし負の部分もこれまた大きいわけです。西洋人以外にとっては資本主義的な考え方や行動規範は多かれ少なかれ不自然であって、それに抗うこともできたのは確かでしょうが、一方で西洋によって資本主義信仰というものを押し付けられたことも一面の真理です。アメリカとさまざまな国の貿易交渉をみればそれが伺えるように思います。

 

最後に物質的な物の見方です。これも一種の信仰です。あるインド人が川の水をすくって神に祈りを捧げたり沐浴しているのを見た西洋人は「ただの水(H2O)だろ、何がそんなにありがたいのかね。盲信だろ。」といったそうです。インド人が水を神聖なものとみなすのは確かに信仰ではあるでしょうが、西洋人がそれH2Oとしか見れないのは、同様に一つの信仰です。これに限らず、物質こそが現実であると見るものの見方は今では世界中に広がってしまい、そのような物の見方からの解放に努める人たちは多くいます。人々から宗教性が薄れたのはこのような物質的な物の見方のせいでもあるでしょう。科学がもたらした技術の恩恵に人々が惑わされたのです。西洋が世界に押し付けた信仰の一つです。

 

西洋人がキリスト教、資本主義、物質的な物の見方という信仰を受け入れるのは構わないのですが、他地域には他の宗教、経済システム、物の見方(認識方法)があるわけで、西洋人以外が自らが生まれた国の文化を尊重することは現代においてとても重要なことです。非西洋諸国は、西洋を鏡としてあるいは反面教師として自らの国の文化を問い直す作業を行って然るべき状況ですが、そのような傾向は今世界の各地で見られているのかもしれません。もちろん文化は混交するものでもあるので、原理主義的なあり方は困ったりはします。

 

日本では仏教や神道が風土に馴染んできましたし、日本経済史のことはほぼ無知なので知りませんが、日本にも独特の経済観念はあったはずです。さらには自然観や精神的なものの見方を含め日本では非物質的な物の見方がかつては広まっていたのではないでしょうか。それらをまずは日本人自身が理解していいはずです。その上で西洋を初め他国のいいところは積極的に取り入れるのが好ましいと私は思っています。不自然な形での信仰の受容は人間を最終的に破壊してしまうからです。

エネルギーの節制


お金を節制することはわかります。無駄なことにお金を使うことを避けることです。食物を節制することはわかります。肉体を維持するのに必要なものを食べ、食物を捨てないことです。時間の節制もわかります。時間は万人にとって等しく与えられていますが、それを不適切な用い方で無駄にしないことです。それに加えてエネルギーの節制があります。ここでいいたいのは、電気やガスなどのエネルギーの節制のことではなく、肉体・心に備わったエネルギーのことです。電気やガスなどのエネルギーももちろん大切に使うべきでそれは当然のことといえるでしょう。一方人間の肉体・心に備わったエネルギーを大切に使うことに関して、あまり意識していない人がいます。

 

「喜んでいる自分が私たちのありのままの姿です。嫌な考えをしたり、そういう言葉を発したり、惨めな気持ちになるには、多くのエネルギーが必要です。良い考えを抱き、前向きな言葉を口にし、良い行いをすればあなたの人生も容易になるでしょう。」(著者不詳)


どなたの言葉かはわかりませんが、上の言葉を見かけました。この言葉によれば、嫌な考えをしたり、そういう言葉を発したり、惨めな気持ちになるには多くのエネルギーが必要だとあります。更に考えてみてください。嫌なことを考えてもどれだけいいことがあるでしょうか? 嫌な言葉を発してどれだけいいことがあるでしょうか? 自然に沸き起こった感情なら短い時間でその多くが消えていくのですが、惨めな気持ちをわざわざ抱き続けてどうするのでしょうか? もし自分の欠点を指摘されたり、自分でそれに気づいた場合、欠点といったん受け取ってしまえば、あとはよくない感情や思いを手放すのがいいでしょう。しかしわざわざよくないことを考えたり、言葉にすることで多くのエネルギーを浪費しています。こういうケースはおそらく多々あると思われます。感情は空を流れる雲に似て、ある程度の間内的空間を占めているでしょうが、放っておけば自然に流れ去ってしまうものです。


霊性とは手に何も持たない状態のことでもあります。手に荷物を持って外出するとき、小さなものであっても手に荷物を持ち続けていると疲れるものです。手ぶらで歩くのは楽です。人にはそれぞれのこだわりがあるでしょうが、手ではなく内なる意識で何かにしがみつくことがあり、それは手に何かを持って歩き続けるように非常に疲れます。心に執着がなく心が手ぶらであれば気持ちはとても楽です。こんなことで肉体・心のエネルギーは消費されてしまいます。スマホの待機電力の消費がかなりの割合であるのに似て、人間はこのような精神的エネルギーの浪費によって少しずつ衰弱していきます。体力・エネルギーが有り余っている人はいいでしょうが、私は体が弱く、エネルギーを無駄に消費するとたちまち疲労困憊してしまいますので、このような精神的エネルギーの浪費に結構気を使っています。よいことを思ったり、言葉にしたり、行うことには実はそれほどエネルギーは使わないものです。それよりも悪い思い、言葉、行為の影響の方が大きいです。

 

私の性質もあったと思いますが、かつては嫌なことがあればグズグズと考えることがありました。それで何かが好転したということはありません。否定的な思考があっても、あるいは何かにこだわってみても、結局のところ状況はそう変わりません。むしろ否定的な思考や言葉の影響で運気が悪くなるのではないでしょうか? 私は今は運命論者で、人間の気持ちの持ちようで運命が変わることはほぼないと思っていて、例えば富に関しても富を得る人は得るだろうし、富を得ることのできない人は精神的なものを含めて努力で得られることはないと受け取っています。こういうように理解するようになって、私は随分否定的な思考や言葉が減っていきました。先程も触れましたが、病弱なため何とか肉体的・精神的エネルギーを節約したかったがためです。


付け加えれば、見るもの・聞くものに関しても注意を払っています。嫌なものを見たり、聞いたりすれば、嫌な気持ちになって、それが短い時間であっても不快であり疲労してしまうからです。かつては流行に従って音楽を聞くことはあったのですが、最近はクラシックでさえほぼ聞かないようになりました。テレビもほぼ見ません。インターネットは覗いていますが、可能な限り情報を選んでいます。体力・精神力は貴重なので余分なことで浪費したくないからです。人との接触に関しても、必要な場合以外に好んで人と会うことは減ってきました。何の楽しみがあるのかという人もいるかも知れませんが、衰弱してしまうよりはマシです。限られたエネルギーを肯定的なことに使いたいと思っています。ただ私は山歩きやサイクリングなどはしますが、確かに体力は使う一方精神的には充実してきます。


電気やガスなどのエネルギーだけでなく、人間に備わったエネルギー、特に精神的エネルギーにもっと意識的になってほしいと思うのです。年をとって衰えたときに悪習に支配されていたならば、老後はより悲惨なものとなってしまいます。

アートマについて

 

アートマとは真の自己のことです。アートマという言葉は日本では手垢がついていないので、各人の探求を変に阻害するところがないと思いますが、一方でとっかかりがなく何のことかわからないという面はあります。繰り返しになりますが、人間は肉体と心とアートマの組み合わせです。肉体と心は非真でしょうが、アートマは真です。アートマはくだけたいい方をすれば「私」「自分」のことです。アートマはこれではない、これではないという形でしか探求できません。もしこれがアートマであると指摘できるとすれば、アートマは私の認識の対象objectであって、私subjectから離れていることになるからです。なのでこれがアートマであると堂々と指摘している人がいるならば、その人はまったくの無知である可能性があります。

 

In order to realise the Atma, you have to cut the little I of your ego. This represents the sacred symbol cross. This is what Jesus taught. It is the feeling of 'I and mine' that is the cause of man's bondage. When you eliminate this feeling, what remains is your true Self. (2009.12.25 Baba)
(アートマを悟るために、あなたはエゴという小さなI(私)を切り刻まねばなりません。これが聖なるシンボル十字架の意味するところです。これがジーザスが教えたことです。人間の束縛の原因はI(私)とmine(私のもの)という感覚です。あなたがこの感覚を取り除いたとき、そこに残るものがあなたの真の自己です。)

 

この言葉に沿って考えてみます。I(私)とmine(私のもの)という感覚を取り除くとは、どういうことでしょうか? 私は日本人である、私は男あるいは女である、私は金持ちであるあるいは貧しい、私は聡明であるあるいは頭が良くない、私は結婚しているあるいは結婚していない、私は背が高いあるいは背が低い、私は太っているあるいは痩せている、私は老人である、中年である、あるいは若い。私はいい加減であるあるいは真面目である、私は思いつきで行動するあるいは思慮深い、などなど挙げればきりがないのですが、これらの類はすべてI(私)という感覚に付随するものです。同様に私の家、私の服、私の髪型、私のマグカップ、私の友人、私の兄弟、私の子ども、私の親、私のキャリア、私の預金、私の体、私の感情、私の感性、私の視力、私の心、などなどmine(私の)にまつわる事柄も挙げればきりがありません。つまりこれらの感覚を一切取り除いた時に残るものは一体何でしょうかということです。人によってはすぐにあるいは人によっては何度もくり返しこの作業をしていけば、いつか突如として気づきがやってきます。自分が思い描いていた自己像ではまったく無いかもしれませんが、何か気づきがあったときは、しばらくの間その気づきを大切にしてほしいです。

 

先ほどアートマはこうであると指摘することはできないと述べましたが、インドでは伝統的にアートマの属性はサット・チット・アーナンダ(存在・意識・至福)であるといわれます。アートマ(真の自己)はサット存在しているということ、つまり私は確実に存在しているという言明が第一です。アートマ(真の自己)はチット意識である、つまり何らかの主体感覚を伴うというのが第二の言明です。アートマ(真の自己)はアーナンダ至福として体験されるというのが第三の言明です。

 

私がある文献を読んだ時に、アートマを意識として受け取っている人がいました。アートマがサット・チット・アーナンダであるならば、この受け取りはあながち間違っていないといえます。例えば目をつむった時に、人によっては静かな平安な状態であったり、人によっては想念が乱れ散っている混乱であったりと、状態はさまざまでしょうが、その各人の内的状態を皆がそれぞれ理解しています。それは意識の光がすべてを照らしているからです。この意識の光はすなわちアートマの光でしょう。意識は確かにアートマなのでしょうが、ただそう主張する人に一つ問うてほしいのは、その意識はどの範囲に存在しているのかということです。目をつむったその頭部に存在しているのでしょうか? 意識は偏在なのでしょうか? あるいはそうでないのでしょうか? 

 

アートマはこれであると指摘できないがゆえに、アートマの理解を得るには自己努力に頼らざるを得ないのでしょうし、最終的には各人の気づきがその理解を支えるのだと思います。アートマ探求に役立つであろう文献を私はもっていますが、著作権の関係で不特定多数の方に今公開することはできません。アートマ理解を獲得したかどうかに関する判断材料の一つは、アートマはそれを知ることにより他の一切すべてのことを理解可能にする、ということです。アートマを理解したつもりになっていても何となく自分が無知蒙昧な状態であることをどうしても否定できないならば、アートマの理解に達していない可能性があります。学者的な緻密さ・厳密さでありとあらゆるものを理解するということではありません。ただ自分が確かに理解できているという感覚は必要です。

 

私がどれだけ確かなことを述べているかは何ともいえませんが、今日書いたことはわずかばかりはアートマ探求の役に立つのではないかと思います。

アーナンダヴァリ 至福の11段階

 

私は霊性の道を進むように心がけていますが、霊性の道を歩んでいるとときに人から耳にすることがあります。それは意識レベルは何段階あるとか、人間の成長のレベルは何段階あるとか、瞑想の段階は何段階あるとかそういう類のことです。かつてそういうのに多少惑わされかねなかったのですが、私は正直いってそういうのには本来関心がありません。今の自分よりもう少し向上できるとずっと感じ続けていたので、その感覚に従って努力を重ねてきました。地道な努力ができない人に向上はありません。

 

たとえば瞑想で背骨を伝わせてクンダリーニを上昇させようと努力している人がいたりします。超自然的な意識状態に達することを目指しているのだと思いますが、こういうことは極めて適切な師のもとで行わないと、精神錯乱に陥ったり神経が麻痺するなどの危険があると聞きます。瞑想に限ったことではありません。超自然的な力や意識状態への到達を願って間違った試みをすると同じように健康に甚大な被害が出ると聞きます。ですのでそういうことはやめたほうがいいというのが私の見解です。私から見ればそういうことをする人たちは霊性の向上の名のもとに単なる「力」を手にすることを望んでいることが多く、自らのエゴに気づいていないのではないかと思います。霊性の向上の秘訣はエゴを取り除くことにあることを理解すれば、本末転倒です。

 

しかしながら、私なりにある種の段階について述べておきましょう。タイティリヤウパニシャッドの中にアーナンダヴァリがありますが、その中で至福の11段階が述べられています。人間の至福、マヌシャガンダルヴァの至福、デーヴァガンダルヴァの至福、ピトルの至福、アジャーナ天に住むものの至福、カルマデーヴァの至福、デーヴァの至福、インドラの至福、ブルハスパティの至福、プラジャーパティの至福、ブラフマンの至福の11段階です。人間の至福とは、この世の富をほしいままにし快楽も欲望も名誉も満たされた状態での喜びのことです。至福と呼べるものの中で、これは最低レベルの至福になります。ブラフマンの至福については私は語ることはできませんが、この宇宙を含めすべての世界を創造した人間の想像を絶する存在であるブラフマンが絶えずその状態にある至福のことです。

 

アーナンダヴァリは人間が自己探求を進めて肉体レベル、生気レベル、心気レベル、理智レベル、至福レベルへと向上していく道筋を示していますが、至福レベル(至福鞘)に到達したあとに至福の11段階がさらに述べられます。至福鞘に到達することはアートマ(真の自己)の理解といえるかもしれません。そこをとっかかりとしてさらに至福を深めていく必要があるのでしょう。お釈迦様の35歳ころの悟りはアートマの理解だったのかもしれませんが、80過ぎに至るまでの残りの人生で至福のレベルを深め涅槃に至ったという理解も一つの可能性としてできます。

 

例えば日本密教では意識レベルが10段階くらい記述されているようですが、あくまで私の受け取りに過ぎなく真理とは限らないのですが、私はそのような類のことを次のように理解します。つまり、人があるレベルの至福を味わっているときの精神状態のことであると。至福には人間の至福レベルを除けば10段階あります(あるいは人間の肉体をもってブラフマンの至福を体験できないならば、ブラフマンの至福を除いて10段階あります)が、味わう至福のレベルが異なれば、それに満たされた心や肉体のレベル・状態が変わってくるという理解です。運命の必然として人はアートマ(真の自己)を知らなければならず、さらにはブラフマンの本質とされる至福を体験することが神に至るということの意味でもあるとき、そこには精神レベルの向上も自然に伴うわけです。なので人間としての向上を望むならば、見せかけだけの喜びを求めるのではなく、至福と呼べるものを求めることが道理にかなっています。

 

何回か前のこのブログの記事で、人間の主体は心理学者が想定したものであると書きましたが、人が自らの主体=アイデンティティを人間(肉体に制限された存在)、マヌシャガンダルヴァ、デーヴァガンダルヴァ、…、プラジャーパティ、ブラフマンと拡大しそれにふさわしく行動することが、それにふさわしい至福と自己の拡大をもたらします。インドではヴィシュヌ神の住むところ(天国)をヴァイクンタというそうですが、正確には覚えていませんがその意味は愛によって維持され常に拡大し続けるもののことだと聞いたことがあります。ヴァイクンタ(天国)は人間の内にあるというわけです。

 

単なる感覚の喜びと変わりない幸福ではなく、この上ない至福を求めることは大いに勧められてしかるべきでしょう。そのために人は霊性の領域に足を踏み入れなくてはなりません。