愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

西洋の3つの信仰

 

西洋における信仰と聞いて思い起こすのはキリスト教でしょう。しかしながら、人間の行為の暗黙の前提となっているものを信仰と呼ぶならば、西洋には少なくとも3つは信仰と呼べるものがあります。一つはキリスト教、一つは資本主義、一つは物質的な物の見方です。

 

日本人が大陸への侵略をどれくらい理解し反省しているのか話題になるのと同じように、私はキリスト教が非西洋諸国への侵略の尖兵となり、非西洋人たちに肉体的・精神的苦しみを与えてきたことについてどれだけ自覚しているのか常々疑問に思っています。キリスト教の聖職者たちが立派なことをいっているのは知っていますが、だからといって過去の歴史が帳消しになるわけではありません。例えばマザーテレサノーベル平和賞を受賞しましたが、確かに彼女の行ってきたことにはよい側面はあるにしろ、一方で彼女は自分が助けようとする人に改宗を勧めていたとされます。彼女は普遍的な人道主義者というより、人々のキリスト教への改宗を目的とした人生を歩んできたと評価する人がいるのです。彼女の教会には多くのインド人たちから寄付が届いたと聞きますが、彼女の死後そのお金はバチカンへ送金されたという報道も耳にしたことがあります。立派だといえるような人でもこういう状態です。人は説く言葉ではなく、その行いで評価されるべきでしょう。人々が自発的にある宗教に関心をもち、その宗教の信徒になるのはいいとは思うのですが、キリスト教に限らず改宗が盛んな宗教に私はどうしても否定的な印象を持ちます。改宗を強制に近い形で勧めることは人間を冒涜しているとさえ思うのです。

 

次に資本主義です。このブログでは何度かウェーバーエートスについて書いたことがありますが、彼の考えを砕けた言い方で表現すれば、資本主義は西洋人独特の行動様式で宗教の延長であるということです。西洋に限らず、人間社会があるところには経済があったわけですが、ここ数百年の歴史を見ればわかるように、資本主義は人間社会、自然環境に対して破壊的影響を及ぼしてきたことは否定できません。私は日本に生きているので、経済発展による繁栄が人々にある程度の快適さをもたらし、極度の貧困から人々を解放してきたことは認めます。しかし負の部分もこれまた大きいわけです。西洋人以外にとっては資本主義的な考え方や行動規範は多かれ少なかれ不自然であって、それに抗うこともできたのは確かでしょうが、一方で西洋によって資本主義信仰というものを押し付けられたことも一面の真理です。アメリカとさまざまな国の貿易交渉をみればそれが伺えるように思います。

 

最後に物質的な物の見方です。これも一種の信仰です。あるインド人が川の水をすくって神に祈りを捧げたり沐浴しているのを見た西洋人は「ただの水(H2O)だろ、何がそんなにありがたいのかね。盲信だろ。」といったそうです。インド人が水を神聖なものとみなすのは確かに信仰ではあるでしょうが、西洋人がそれH2Oとしか見れないのは、同様に一つの信仰です。これに限らず、物質こそが現実であると見るものの見方は今では世界中に広がってしまい、そのような物の見方からの解放に努める人たちは多くいます。人々から宗教性が薄れたのはこのような物質的な物の見方のせいでもあるでしょう。科学がもたらした技術の恩恵に人々が惑わされたのです。西洋が世界に押し付けた信仰の一つです。

 

西洋人がキリスト教、資本主義、物質的な物の見方という信仰を受け入れるのは構わないのですが、他地域には他の宗教、経済システム、物の見方(認識方法)があるわけで、西洋人以外が自らが生まれた国の文化を尊重することは現代においてとても重要なことです。非西洋諸国は、西洋を鏡としてあるいは反面教師として自らの国の文化を問い直す作業を行って然るべき状況ですが、そのような傾向は今世界の各地で見られているのかもしれません。もちろん文化は混交するものでもあるので、原理主義的なあり方は困ったりはします。

 

日本では仏教や神道が風土に馴染んできましたし、日本経済史のことはほぼ無知なので知りませんが、日本にも独特の経済観念はあったはずです。さらには自然観や精神的なものの見方を含め日本では非物質的な物の見方がかつては広まっていたのではないでしょうか。それらをまずは日本人自身が理解していいはずです。その上で西洋を初め他国のいいところは積極的に取り入れるのが好ましいと私は思っています。不自然な形での信仰の受容は人間を最終的に破壊してしまうからです。