理智鞘

インド哲学に触れると、最初はわかりにくくもあるのですが、概念を理解すると物事がよく見えてくることがしばしばあります。その一つが五つの鞘です。人間は五つの鞘で覆われた存在だとされています。食物鞘、生気鞘、心気鞘、理智鞘、歓喜鞘です。食物鞘は食物で作られた普段私たちが目にしている肉体です。生気鞘は肉体を動かす呼吸・エネルギー体です。心気鞘はマインドつまり思考で作られています。理智鞘は識別を司る部分で、歓喜鞘は人間の本来の姿=至福だと言われています。

 人間の努力で簡単にたどり着けるのは心気鞘までだと言われます。肉体は誰でもわかります。人が亡くなれば、つまり呼吸がなくなれば肉体は動かなくなってしまうので、肉体の動きを司る呼吸=生気でできた鞘を理解することも可能です。また日常的に思考も行っているので、思考が人間の要素であることもわかります。

 しかし理智鞘に進むのは難しいと言われています。ヴェーダには「ヤトーヴァーチョーニバルタンテー、アプラーピャマナサーサハ」と、思考も言葉も到達できない領域があることを示唆しています。西洋哲学においても、「語りえぬものについては沈黙しなくてはならない」という有名なヴィトゲンシュタインの言葉があります。少なくない人が限りない思考の渦から抜け出すことができないように、自己探求を進める上で、心気鞘から理智鞘へ進むのは大きな飛躍を必要とします。心(マインド)より深いレベルは思考を寄せ付けないのです。それは体験の領域です。

 ウパニシャッドには理智鞘を鳥にたとえています。頭は信仰、左翼はリタム(高尚なことを語ること)、右翼は真理(を語ること)、ヨーガが胴体、マハー(タットワ)が尻尾とされます。理智鞘を開発し、自己探求において心気鞘から理智鞘に進むには、この五つが必要です。

 現代日本人は信仰を重視せず、中にはそれを愚かなものとすら考えている人もいますが、信じるに値するものを真摯に信じることは人間の成長に欠かせません。信仰によって人間は前進します。例えば人がある場所から別の場所へ移動するときも、地図や過去の経験を信じているからそこへ到達することができます。

 リタムと真理(サティヤム)は似たようなものだと言われます。リタムはより内面に関わり、サティヤムはより外面に関わります。内なる思いを正しく言葉にすること、起こったこと(事実)を正しく表現すること、そしてそれらを実行に移すこと、また約束を守ることなどがこの二つの意味することだと思います。理智鞘を開発するには真なるものへの忠誠が必要です。

 ヨーガはヨーガ一般ですが、私は感覚のコントロールと理解しています。よいものを見ること、よいものを聞くこと、よいものを食べることなど五感を正しく用いることです。感覚の享楽から抜け出て、それを自分の意志のコントロール下に置くことは力を要します。

 マハー(タットワ)についてはよく理解していないのですが、今は良心に従うことくらいの意味に受け取っています。

 これらの五つの特質を育むことによって理知鞘は開発され、識別心に富み、人間らしい人間になっていくように思います。識別、良心に従う生活(それは人間を導くものですが)を継続的に送っていれば、次第に歓喜(至福)を体験するようになるといわれます。

 人間の努力でたどり着けるのは心気鞘までです。理知鞘と歓喜鞘は人間を超越するものやそれを体験したものの導きと恩寵が必要とされます。

 現代の日本人には宗教的な寛容さはありますが、心から何かを信じるという人が少ないようです。信仰のない人が多いので、心気鞘の段階から進めない人が多いのだと思います。心気鞘の段階で、いったり来たりの迷い、悩み、思考の循環の世界に浸っています。このようなことのないように、小さいころから子どもには信仰というものを教えたほうが、子どもの成長にもなると思っています。