愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

4つの捧げ物

 

今日は秋のお彼岸の中日です。先日お墓参りに行ってきたのですが、その時に思ったことを今日は書きます。

 

「人が信愛(バクティ)をこめて私に葉、花、果実、水を供えるなら、その敬虔な人から、信愛をもって捧げられたものを私は受ける。」(バガヴァッド・ギーター岩波文庫 9章26節)
He who, with devotion offereth to Me a leaf, a flower, a fruit and water, that love-offering I accept, made by the pure hearted.(Srimad Bhagavad GITA Swami paramananda 9章26節)(信愛をこめて私に葉、花、果実、水を捧げる人、私はその愛のこもった捧げものを受け取ります。その純粋な心の人によって捧げられたものを。)

 

これは字義通り植物の葉、花、果物の実、水をクリシュナに捧げたならば、信愛のこもった愛の捧げものをクリシュナは受け取ると宣言している詩節です。一方、これには霊的な意味もあるとされ、葉は(確か)肉体、花はハート、果実は(確か)心=マインド、水は愛を意味すると聞いたことがあります。なので「人間は肉体、ハート、マインド、愛を神に捧げなさい、神は必ずそれを受け取ります」という意味になるわけです。続く9章27節が「あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。アルジュナ」とあることを考えれば、葉を肉体、花をハート、果実をマインド、水を愛と受け取ることは妥当な見解といえます。さらには9章28節で、そのような人はカルマの束縛から解放され、解脱に達すると保証されています。

 

さて墓参りの話ですが、墓参りの時にシバと菊をもっていきましたが、それは葉と花です。墓と周辺を掃除して、線香をあげます。私の住んでいる地域だけなのかもしれませんが、線香を立てるところの前に水を貯める小さなくぼみがあります。そこに水も供えておきました。私は墓参りの時に果実をもっていく習慣はなかったので、もっていきませんでした。しかしながら、葉と花と水と線香を捧げたわけです。線香は、身を粉にする=犠牲を意味すると受け取っていいかもしれません。ただし捧げたといっても、墓参りですからご先祖様に挨拶に行ったわけです。

 

家に仏壇があります。家では、仏飯と線香と花を捧げます。宗派の関係で水は捧げません。時に果物は捧げます。シバやシキミも仏壇には捧げていません。仏壇で礼拝するときは、ご先祖様を思うと同時に、真宗ですので阿弥陀様と阿弥陀様がそこから現れた真如=真理を思っています。仏壇で礼拝するときは仏(と真理)に礼拝しているわけです。ギータの詩節にある葉、花、果実、水のうち、花と果実だけ捧げています。普段仏壇で礼拝するときにはギータの詩節を思い起こさなかったのですが、墓参りのときはシバがあるため詩節を思い起こしたのだと思います。

 

少し話は変わりますが、マントラプシパンというヴェーダマントラがあって、その中に次のような箇所があります。
「チャンドラマ― ヴァー アパーン プシパン プシパヴァーン プラジャーヴァーン パシュマーン バヴァティ」
チャンドラマーは月で心=マインドを象徴しています。アパーンは水で愛を、プシパンは花でハートを表しています。これらが一つである時に、プシパヴァーン(ハートが花開き)、プラジャーヴァーン(子孫が繁栄し)、パシュマーン(家畜=富が得られる)と私はこのマントラを理解しています。

 

墓参りに行くことで以上のことをせっかく思い起こしたので、人生を神仏にお捧げする人生を歩みたいと気持ちを新たにしたものです。