discipline(規律)
duty(義務)
devotion(帰依)
discrimination(識別)
determination(決断力)
どれも人が身につけておいていいものです。私の見解では、日本人にはまあ規律はあります。義務の観念もあります。帰依心のある人はそれほどはいないかもしれません。識別心に関しては、働かせる人もいますが世の中の空気に流されてしまう人もいます。決断力、これはどうでしょう? 最近この決断力の重要性を感じることがあり、きょうはそれについて触れてみようと思います。
次のような言葉があります。
If we(or I) are determined, He is determined to help us(or me).
(もし私(たち)が決心を固めるならば、彼(神)は私(たち)を助けることを決断する。)
ここでHeとは神のことです。
つまり私たちが何かをしようと心に定めそれを実行する意志をもったならば、神は私たちがその決断を実行するのをさまざまに助けるという意味です。逆に言えば、私たちが決断しない間は、神は私たちを助ける保証は必ずしもないということです。
常々思っているのですが、現在のビジネスの状況は、生き馬の目を射抜くようなスピードと瞬間的な判断を必要としています。いやビジネスに限ったことではないのかもしれません。少なくない人が何にあおられているのかわからないまま生き急いでいます。そのような嵐にも似た状況に適応できる人はごくごくわずかです。現代においてマスコミで取り上げられる成功者の多くはこのような競争を勝ち抜いた人たちなのでしょう。
しかし、人が何かを成就するには、このようなある種ばかげた競争に足を突っ込まなくてもいいのではないかと、先にあげた英語の言葉を読めば感じられます。大切なのは、競争することではなくて正しく決断することであると。
事が小さければ決断するのにそれほど躊躇しないかもしれませんが、大事になれば決断が簡単でないことがあります。場合によっては命にかかわること、多くの人の生活にかかわること、多大な損失をこうむりかねないこと、その他もろもろにおいて。そして、正しく決断するには、状況を正しく理解しなければなりません。
もし本当に何かを決断するときには、おそらくそれが道徳的、倫理的に問題のない場合に限るでしょう。人の本性として、不道徳なこと、非倫理的なことを確信をもって決断できるとは私には思えないからです。さらに(少なくとも私の場合は)、決断を下したあとに状況がさまざまに変化しても、ある程度それに対応できる気持ちの準備もしておかなければなりません。人によっては決断するために他の何かを必要とするかもしれません。
しかし最大の保証はやはり、私たちが心の奥深くから正しく決断したならば、それを神が必ずや助けてくれるという信仰のようなものでしょう。
私たちが何かを決断したときに、私たちが本当にそれを決断しているのか、もしかしたら神は私たちを試すかもしれません。いわゆる神のテストとはそういうもの。その神のテストに心が揺らぐならば、正しい決断といえない可能性があります。
正しく決断したときに必ず神が助けてくださるのならば、私たちがすべき唯一のことは、正しく決断することのみ。この決断力が今の日本に必要なものの一つではないかとここ最近思うのです。