そこに山(あるいは里)があるから

 私はときどき山歩きをしています。最近は山だけでなく、あまりよく知らない土地を歩くことになぜか関心が高まってきました。大都市や商店街などではなく、何の変哲もない住宅街や人のほとんど住んでいない里などです。しばらく前からこのような衝動がありました。

 植村直己だったか誰か忘れましたが、なぜ山に登るのかと聞かれて、「そこに山があるから」と答えた人がいました。それ以外に理由が見当たらず、自分でもその衝動をうまく説明できないままに山に登っている人が多くいます。

 貴重な時間をただふらふらするのは少しもったいないような気もしていたのですが、最近になってなぜ山を歩いたり、里を歩くのか、自分なりに表現できるようになってきました。それは「見ることで世界を支えることができるから」

 この宇宙すべては神の創造物であると同時に神ご自身であるとされます。どこに見てもそこには神がいるのですが、もし地球上のどこかにこれまで何百万年もの間人に見られていない場所があるとするならば…。単なる感傷ではあるのですが、私はそれを目にすることによって創造者への愛を表したい、それが私を突き動かす衝動の正体なのではないかと気づいてきました。

 私は誰も行ったことのない山や里に行くわけではありません。多くの人が登り、多くの人が住んでいる里を訪れます。しかし最近思うのです。山が荒れてきた。道が消えてきた。里の田畑が放置されている。廃屋がさらされている。人の姿を見かけない。そういうところが増えています。私はそういう風景を自分の目で見たいのです。私には何もできないでしょうが、見ることによってそれらの自然や人々つながることができるのではないかと思っています。

 山や里には都会や繁華街にあるような刺激はありませんが、土地土地を歩くのはとてもおもしろいものです。人の生活に根ざしたちょっとした息遣いを感じることができます。ある種の趣味といってしまえば趣味ですが、行ったことのないところに行くときはいつもわくわくしています。

 歩くのは健康にもいいですし、この冬が終わり春になるころ、皆様もどこかを歩いてみてはいかがでしょうか。