自然素材のすばらしさ

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Cesc Nolasco


 23日の土曜日に新聞を見ていたら、綿や麻といった自然素材が再評価されていると書いていました。例えば綿は5000年の歴史があり、長年に渡って人間の衣服の材料となり、人間に欠かすことのできないものでした。
 一方最近テレビで伝えていたのですが、フリースを洗濯すると、マイクロプラスチックという小さなプラスチックが水に溶け込み、それが川から海へ流れ込むということが分かってきたそうです。そのマイクロプラスチックが溜まってしまい、海の魚がそれを食べて濃縮されてしまい、人間がそれを口にするという危険が指摘されています。フリースは暖かかったり、肌触りが気持ちよかったりするのですが、綿などの自然素材にはこのような危険はありません。

 家の中学生の国語の問題集にも似たようなことが書いてありました。少し引用してみます。
 「木を構成する細胞の一つひとつは、寒いところでは寒さに耐えるように、雨の多いところでは湿気に強いように、微妙な仕組みに作られている。あの小さな細胞の中には、人間の知恵のはるかに及ばない神秘がひそんでいるとみるべきであろう。」
 「木を取り扱ってしみじみ感ずることは、木はどんな用途にもそのまま使える優れた材料であるが、その優秀性を数量的に証明することは困難だということである。なぜなら、強さとか保温性とかいったどの物理的・化学的性能を取り上げてみても、木はいずれも中位の成績で、最高位にはならないから優秀だと証明しにくい。」
 「木綿も絹も同様で、タテ割り評価法で見ると最優秀にはならないが、「ふうあい」までも含めた繊維の総合性で判断すると、こんな優れた繊維はないということは、専門家の誰もが肌を通して感じていることである。総じて生物系の材料というものは、そういう特性を持つもののようである。」(小原二郎「木の文化をさぐる」)

 上には二つ例を挙げましたが、自然素材は総合的に優れているということが指摘されています。これに対して科学技術を用いた製品は、ある特定の項目では優れた性質を示します。どちらも大切ではあるのですが、現在は自然素材はその実力の割に低く見られているような気がします。

 小原さんは人間についても同じようなことが言えるのではないかと述べています。
 例えば、数学の点が飛び抜けている、英語の能力が飛び抜けているなどといった現在の教育現場における評価では、全体的に中位でバランスのとれた名も無き人たちがまったく評価されない。しかし実は、そのように全体的にバランスのとれた人は社会の中で欠くことのできない人たちであると言っています。

 特定の能力のある人は、それはそれですばらしいですし、彼らにその能力を十二分に発揮して欲しいのですが、自然素材のような、人格も含めてバランスのとれた人たちは社会の安定に大きな影響を及ぼしているように思います。彼らはあまり世間に取り上げられることはありませんが、社会の中核を担っているのは彼らだと思います。

 地方で過ごしていて思うのですが、都会に比べて人の少ない地方でより必要とされているのは、特定の分野に秀でた人というより、飛び抜けて優秀でなくても何でもある程度できる人のように思います。逆から言えば、特定の分野で飛びぬけた才能を持っている人は地方では能力を発揮する機会が少ないかもしれません。
 一番いいのは、多くの何でもできる人と、特定の分野に優れた人がお互いに補い合うことなのでしょうが。