愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

牛1

イメージ 1



Gabriel Masliah


以前取り上げたことのある因幡(今の鳥取県)の源左は18歳頃父の死をきっかけに信仰の道に入り、しばらくの間迷いを抱えていました。阿弥陀様が誓われた救いがよくわかりませんでした。転機がやってきたのは30歳近くになってです。牛が彼に阿弥陀様の慈悲に気づかせてくれました。
 ある夏の朝、いつものように朝早く牛を追って裏山に草刈に出かけ、ようやく刈り終えてから、自分では負いきれぬその重い草を牛の背に乗せたときのことです。真宗では他力の教え、すなわち人間には負いきれぬ業を阿弥陀様が背負って下さることを教えていましたが、源左は突如としてひらめくものがありました。自分では抱えきれない草を背負う牛に、自分の業を背負ってくれる阿弥陀様を見たのです。また、草を負うこともできず、同時に業も負うことのできない力弱い自らの姿も見ました。源左にとって、牛は師(善知識)でした。

 ほんの幼い頃に母の実家付近で農家に飼われていた牛を見たことがあります。昔は牛を畑を耕す時などに用いていたようで、私の幼い頃にもまだ牛を飼っている農家がごくわずかですがいました。最近は牛を自分の目で見ることはありません。

 牛は素食です。藁やちょっとしたその辺の草を食べて大きくなります。そして牛は滋養に富んだ牛乳を人間たちに分け与えます。本来仔牛を育てるのに乳を出すのでしょうが、多くは人間が飲んでいます。藁のように価値のないものから牛乳のように価値あるものを作り出す点を見習いたいと思うことがあります。またその価値あるものをひとりでも多くの人と分かち合うことができたらいいとも思います。

 牛はインドでは聖なる動物とされています。インドの地では牛が街中をあちこち歩きまわっているのを見ることができるようです。インドでは、人間には四つの母がいると言われます。まず、体を与えてくれた肉体の母。次に牛。牛乳とそれからできる多くの食品を与えてくれます。そして、ヴェーダ。人間の霊性・精神性を育む聖典です。最後に地球。私たちにすべての生きる環境を与えてくれます。

 現在肉を食べる人の多くが、牛や豚などの家畜がどのように屠殺されているか知りません。それは本当に目をそらしたくなるような残虐な殺され方をしています。牛は殺されるのが分かっているので、恐怖に包まれ泣き叫びます。恐怖のうちに殺された牛の肉を人間は食べているので、その影響が牛の肉を通じて人に忍び込むので、人は恐怖を感じながら日常生活を送らざるを得なくなります。

 乳搾りの日々から解放された牛の映像がありました。長年乳牛として乳を絞られ、年を取って乳が出なくなり、あとは殺傷処分を待つだけであった牛たちを、多分ドイツの慈善家が買い取って、静かに余生を送れるようにと解放した時のものです。牛たちが跳びまわっています。