さて、かつてこのブログで取り上げたことのある源左は真宗の奇特な信者でした。彼は一生を南無阿弥陀仏と称名をしながら過ごし、困っている人がいれば積極的に助ける、無学でありながら、根源的な識別を備えた人でした。
彼はよくいっていました。落ちて落ちた人こそが阿弥陀様の正客だと。ほどほどに世の中過ごしている人はそのまますごさせておけばいいけれども、本当にどん底のどん底にいる人は、人生の虚なることに気づいた、そして人や社会を頼ることのできない存在で、阿弥陀様が救うと誓ったそのまさに対象である存在だと。つまり阿弥陀様にとってはその人は正しい客なのだと。
「おらあ、落ちるより他にはなにもないだいな。何としたことか親さんが助けたるっておっしゃるでのう」(源左)
この「落ちる」という有様は、救いと切っても切れないものでしょう。
話は少し変わりますが、インドのシヴァ神は破壊の神です。人が耐えがたくもある心身そして実在の苦しみにさらされているとき、その人はシヴァ神の手の内にあるといいます。苦しみは新しい命が生まれる徴だとされます。(一般に出産はそうです)。出産に限らず、過酷な状況を切り抜けることで人が生まれ変わることはよくあります。苦しみは特別な形の恩寵。
私にはそのような体験があり、それゆえに今の自分があります。そのような体験のない人と比べれば、昼夜が逆転したかのように、世間の価値観と信仰というか霊性の世界の価値観との優先順位が逆転しています。そういう人は二度生まれなどということもあるようです。
母もそうでした。そして私の身内だけでなく、世の中にはそういう人がまあいるはず。そういう世界を生きる人がいるということを知っていて損はないでしょう。そしていつ誰がその世界にいざなわれるかわかりませんし。