2人に影響を与え10人を助ける

 

人によってはサイババの著書や御講和を読んでいると気づまりを感じることがあるかもしれません。高尚なことがたくさん書いてあるし、どの一つであっても生活に取り入れるのが難しく感じてしまいます。かつての私がそうでしたから。どの御言葉も誠実に受け入れなければならないのですが、実際に取り入れることのできるものはほんの少しで精一杯です。今は私は日々の義務を誠実に果たすことがサイババの御教えの95%くらいを占めているように感じています。義務を実践する上での障害を取り除いたり、どのような態度で義務を果たせばいいのかを参照するのに御言葉などに目を通しています。当たり前のことを当たり前に果たすということです。その生活の質を上げていけば人生はいいのでしょうが、それとは別にサイババにまつわる特有の使命に関係したいというのであるならば、それは奉仕ということになります。奉仕自体は人間の義務に含まれていますが、サイババは奉仕を単なる義務以上のものとしてさまざまに解説してくださっています。

 

1993年のsanathana sarathiに「帰依者一人ひとりが、それぞれ二人の人に影響を与えることができたなら、すぐに全世界が改善されるでしょう。」(『サイの理想』171p)とあります。この言葉とは別に、どこで読んだかは忘れましたが、「私は10人の人を助けよう、と決意しなさい」というようなニュアンスのことをおっしゃっていたような気がします。私は何かを読むときにブログで何かを書くことを前提として読んでいませんので、気になる言葉があってもそれを出典とともにメモしたりすることがありません。私の記憶に保存されるだけで、その記憶も時間とともに変容を被っている可能性は否定できません。それは承知しておいていただけたらと思います。今日書きたいのは、2人の人に影響を与え、10人の人を助けるということについてです。

 

まずは2人の人に影響を与えるということに関してです。一般的にはあの本がおもしろかったと人に紹介し、その人がその本を買って読んだとしたならば、わずかながらでもその人に影響を与えたといえなくもありません。自分の何らかの働きかけがその人に何らかの行動を促したのです。ならば、帰依者が人に影響を与えるとはどういうことでしょうか? ある人が何かあるいは誰かに帰依していて、その帰依の姿やありようが他の人を感化するということです。たとえばその帰依者の生きざまが、それを見る人にとって理想のようなものに映り、その生き方を手本にしようと思い、実際にその人の行動に変容が生じていたならば、帰依者が他の人に影響を与えたといえるかもしれません。私は30年ほど前に青山圭秀氏の本を読んでサイババのことを知りました。それによって私の人生は変わりました。私は青山氏に感謝しています。彼が自分をどう思っているかは知りませんが、しかし少なくとも私から見て彼がサイババあるいは何かの帰依者であるかはわかりません。特にその後の彼の著書を見ているとです。なので私は彼が帰依者として私に影響を与えたのかはわからないといえます。他にもその人が誰かあるいは何かの帰依者であるとは限らず、10人はいないとしても私に影響を与えた人はいます。帰依者が誰か他の人に影響を与えるということがどういうことなのかわかりにくいところはありますが、私は自分が帰依するお方の御教えをできる限り生活に取り入れることによって、そのこと自体が誰かに影響を与えることがあればいいなとは思っています。人生80年としてその間に2人の人に影響を与えればいいのですから焦ることはありませんが、しかしそう簡単なことではないことも分かっています。

 

次に10人の人を助けることに関してです。私はこれまで気持ち程度といっていいものですがホームレスの方に食事を捧げたことはあります。延べ人数は何百人かはいるかもしれません。そのホームレスの人が1日の飢えを満たす助けはしたといえるかもしれませんが、この程度の助けは何らかの形で多くの人が行っているものです。親は子の養育を20年近くはします。20年間の世話によって子は自立した人間になるかもしれません。それは明らかに助けといっていいものでしょう。子が老親に気を配り、その老親が安らかな死を迎えることができたとしたら、親から受けた恩はなかなか返せるものではありませんが、それでも何らかの助けであったといえるかもしれません。少なくとも助けというとき、その程度のことは念頭に置いておきたいと私個人は思うのですが、その程度の助けを10人の人に行うことができるかといえば、できるかもしれないし、結構難しいものといえるかもしれません。医師という職業についている幸運な方は、その医術によって多くの人を助けることができるかもしれません。ふさわしい教師も、その何十年にもわたるキャリアの中で何十人かの人に対して十分な程度生きる準備を与え助けたといえそうです。特別優れた技能がない一般の人にとっては、誠実な職業生活が自らが属する組織を支え、その組織を通じて社会に善をもたらすこともできるでしょう。

 

私は重い病気を少なくとも二つは経験しているので最低二人の医師に助けられてはいます。幼いころに小さな路地の交差点に飛び出してもう少しで車にひかれる危険な状況がありましたが、運転手の方の誠実な運転のおかげで命拾いをしました。特定の一人の名前を挙げることはできませんが、毎日食料を購入し食事を得られているのも誰かの助けのおかげです。私は少しばかり行政の制度を利用していますが、それもこれまでの政治家や行政関係者の方々のおかげです。もちろん親にも恩を受けています。他にも思い起こせば多くの人に助けられていることがわかると思います。そういう程度に私は人を助けることができているだろうか?と自問するならば、10人の人を助けることは一生の仕事といえます。

 

サイババの御教えに限らず、ほとんどの宗教の御教えというのは、当たり前の生活を日々送りなさい、そして時間やお金に余裕があるならば少しばかり他の人を助けなさい、というところに集約されると思うのです。もちろん人生の究極の目的は忘れてはいけませんが、日常生活においてはこのことを頭に入れておけばほぼ十分な気はします。私は「2人の人に影響を与え、10人の人を助けること」がかねてから頭にあったので、それ以上のことをあまり目指すことはありませんでした。若いころは少し頭が肥大していましたが、それも今の年齢となってはかなりの程度落ち着いています。ありがたいことです。

ヤグニャの場としての身体

今日は少しばかりマニアックなことを書くかもしれません。日本の護摩に似ているヤグニャというものがインドで行われます。私も詳しいことは知りませんが、火に捧げものを捧げ繁栄や平和などを祈る儀式のようなものです。火に捧げられたものは火によって焼かれ、そのエッセンスが火の神アグニによって適切なところに運ばれます。アグニは郵便配達人のような存在だそうです。私たち人間の肉眼では見えませんが、神々の世界における何らかのやり取りに関係する儀式です。

 

さて話は少し変わりますが、生きている人間は健康であるならば、体の枠組みがある程度カチッと保たれており、意識も心(マインド)も堅固であるものです。健康が奪われたり死期が近づくと体がもろく感じられるようになり、意識がもうろうとしてきたりもしますが、基本的に体や心の枠組みはそれを超越することはほぼ無理と思えるほど固く定められたものです。私はこの体と心の枠組みはある種の護摩壇のようなものではないかと思うのです。

 

プルシャスークタムというヴェーダマントラがありますが、それはプルシャが自らを護摩壇への捧げものとしてささげ、この世界を創造したというような内容です。その中に、地球ができた後にプルシャが捧げものとなったとあります。人によって思うことは異なるかもしれませんが、私はこれを「地球はヤグニャのための星」であると理解しました。この広大な宇宙において地球は特異な存在ですが、その特異性はヤグニャによって象徴されるのではないかと。もしそうであるならば、地球に存在するものにとってなすべきことはプルシャを見習ってヤグニャをなすことです。つまり犠牲を払うことです。人間の体と心の枠組みが強固であることはこのためであろうと思うのです。

 

人間にとってヤグニャとは何でしょうか? 私は食事の際にギータの詩節を唱えます。「ブランマールパナム ブランマーハヴィール ブランマーグノー ブランマナフタム ブランマイヴァテーナガンタヴィヤム ブランマカルマサマーディナー」(捧げる行為はブラフマンであり、捧げもの自体もブラフマンです。ブラフマンによってブラフマンである火に捧げられます。フラフマンに捧げものを捧げ続けるものはついにフラフマンに到達するでしょう。)という内容です。これは食物を口から摂取しますが、その食物を胃に運びそこにある消化の火に捧げものを捧げているという意味になります。つまり食事はヤグニャなのです。私はそうして摂取した食物のエネルギーによって行われる日々の活動自体もヤグニャだと理解して、すべての行動を最終的に神に捧げるようにしています。

 

いわゆる食物だけでなく、目や耳などから受け取るものも五感が受け取る食物です。それらは主に心(マインド)によって咀嚼され理解され、行動器官(手足など)による活動へ導かれます。これもヤグニャでしょう。頭脳は大きなエネルギーを消費すると聞きます。例えば知恵熱という言葉がありますが、感覚器官を通じてとり入れられたものは火に注がれるに似ています。つまりは人間の活動というものはすべてがヤグニャであるとみなすことができるわけです。

 

インドにおけるヤグニャのみならず、日本において行われる護摩のことも私はよく理解していません。しかし何かを火に捧げる際には清らかなものが捧げられるでしょうし、それが燃やされていきつく先はどこであれ尊い理想をもって念じられる場所のはずです。人間の心身の枠組みは堅固ですが、それは一生をヤグニャに捧げるためのもののはず。心身は常に火で焼かれており、若いときはなかなか気づきにくくはありますが、少しずつ弱り老化していきます。最終的にわずかばかりの灰=ヴィブーティ(英知、恩寵)が得られれば、それが人生のすべてです。灰以外のものは、世界によって活用されればそれで十分なのだと思います。

 

今はなかなか焚火をする機会はありませんが、火を燃やすとき一度にたくさんのものをくべれば火は消えてしまいます。少しずつ薪を加えていけば長く火を焚くことができます。人生も体と心に浸透する火を消さないようにゆっくり歩むのがいいと思います。体と心に火が燃え盛っているとき、その人は若さを保ち輝いて見えるでしょう。インドにはtejas(輝き、活力)という言葉がありますが、時に存在の輝きが光って見える人に出くわすものです。そういう方々は、ヤグニャの場としての身体をその目的に沿って上手に活用されているのだろう、つまりは犠牲の人生を歩んでいる方であろうと思うのです。

ギータ(あるいはヴェーダ)

私は若い頃から、その時々にさまざまなことに関して知的関心がありました。学生時分は数学あるいは科学論特に数学を通してみた科学論に関心があったでしょう。後に霊性に関して関心をもつようになり、今もそれは継続しているのですが、それとは別に経済に関しても多少関心があります。さらに、今の私には少し大き過ぎる課題ではありますが、ヴェーダにも関心があります。"知的"関心という時、関心の対象を"知的"に理解したいという気持ちが込められています。知的に理解したいというのは、必ずしも学者のように理解したいというのではなく、自分が納得できる解像度まで、腑に落ちるまで理解したいということです。自分が納得すればいいわけです。他の人以上とか以下というのではなく。このことはある意味楽ですが、ある意味絶対性が要求されますので、厳しさもあります。

 

今は経済に関する資料をコツコツと読むことがあるのですが、霊性の学習も続けています。その一つにヴェーダがあります。ヴェーダとは、サンスクリット語世界文化遺産に登録されているいわゆるヴェーダのことですが、それとは別に、サイババが定義し直された「エデュケアは21世紀のヴェーダです。」も含まれています。またヴェーダは神の呼吸ともいわれ、神が口にされたものとしてのバガヴァッド・ギーターのありようにも関心があります。仏教やキリスト教はお釈迦様やイエス様のような人間由来ですが、ヴェーダは人間由来ではなく神由来であるとされます。それは特定の個人の思想などではありません。実際にインドで継承されてきたサンスクリット語ヴェーダに触れている人はわかりますが、それは高度に象徴的です。表面的にしか理解しない人はそれを子どもの詩のようなものと受け取ることがあるようですが、まったくそういうものではありません。それはシュルティ(聞かれたもの)であり霊視されたものです。これらは極めて清らかな聖者たちによって感知されます。

 

私は、インドでヴェーダを教えていらっしゃるヴェーダナーラーヤナン先生という方に「失われたヴェーダを取り戻すことはできないのでしょうか?」と尋ねたことがありますが、先生の答えは「取り戻すことはできません。」でした。私は現代のように人間や社会、自然が汚染された時代には無理かもしれないけど、すべてが再び清らかになった暁には、聖者方が取り戻す可能性は少しはあると思っています。しかしそれは少なくとも数千年は先のことでしょう。また例えばヒマラヤの聖者方がヴェーダを感知したとしても、それが社会に伝わるまでに少し時間がかかるでしょう。さらに、誰かがヴェーダを感知したとして、誰がそれを真のヴェーダと認めるかという問題もありそうです。

 

またサイババの学生さんが語っていたことによれば、「昔はインドだけでなく世界中にヴェーダがあったけれども、それが現代まで残されているのはインドだけです。」とのことでした。私はさらに「日本人は太古の時代にサンスクリット語を理解していたのですか?」と聞くと、「必ずしもサンスクリット語だけによってヴェーダが保存されていたわけではありません。」とその方は答えられました。

 

「エデュケアは21世紀のヴェーダです。」という時、エデュケアとは「内から引き出されたもの」という意味です。またサティヤサイスピークス1巻に含まれていますが、サイババの1960.9.27の御講話には、If you develop that ekaagratha(one-pointedness)  in the Kurukshethra of your own particular 'battlefields' ,you can assuredly also listen to the Geetha … the Bhagavathgeetha or the Sai Geetha or the Sathya Sai Geetha, intended for you. 

(もしあなたがそのようなエーカグラタ一点集中をあなた固有の戦場であるクルクシェートラで育むならば、あなたもまた確かにギータを聞くことができるでしょう。バガヴァッド・ギーター、サイギーター、サティヤサイギーターと呼んでもいいのですが、あなたに意図されたものを。)とあります。このような意味でのエデュケアとしてのヴェーダあるいはギーターならば、私は受け取っているといえるかもしれません。私にとってこの人生はほぼ絶え間ない戦場でしたから。

 

前回リーダーシップについて書いた際、精神的化学変化が最終的に形をとった時にそれを表現する、言葉にするといいましたが、まさにそれは私が内から引き出したもの、あるいはサティヤサイギーターといってもいいのではないかと私個人は思うのです。私のこのブログは、それに少しばかりいろいろ付け加えふくらませていますので、エッセンスは少し薄まっています。

 

「神が用いる言語は沈黙である。」という言葉があります。ルーミーだったでしょうが、私たちの言葉はそれの舌足らずな翻訳にすぎないようです。私は最近仮説について書きましたが、私が書くものはあくまでも仮のものです。ルーミーのいうpoor translationです。神の呼吸=ヴェーダは呼吸するもの=神の存在を示唆します。たとえpoor translationあるいは仮説であろうとも、それが真理を少しでも示唆することができれば、最低限の役割を果たしているといえるでしょう。

 

思いと言葉と行動の一致が大切です。私が書くものは多少なりとも私の行動の結果を含んではいますが、これからも自分の学びを継続して誠実に実行していきたいです。この思いと言葉と行動の一致はリーダーシップの一つのありようでもあるようです。ヴェーダについてはまだ語りたいことはありますが、今後さらに学びを深めてからのこととしたいです。

リーダーシップについて2023

私はリーダーシップには関心はありませんでした。私は内向的な人間で、人前に出て活動するよりはどちらかというと裏方の方が性にあっている人間だからです。リーダーシップについて少しは学びましたが、それも消極的にでしかありません。しかしながら、ある程度年をとって世の中を見回すに、今の日本においてリーダーシップがほとんど何も理解されてないような気がして仕方なく、今回少しばかりリーダーシップについて書いてみることにしました。

 

リーダーシップに関しては『Sai Baba's Mahavakya on Leadership』という評判高い本があり、私はこの本を買い込んでいるのですが、まだ読んでいません。他に私が参考にしているのは、『サイの理想』という本の第10章「リーダーとして」という箇所です。その中から一つ言葉を取り上げて論じてみます。

 

"Be Do See Tell"です。上の本の中ではこれを「ふさわしくありなさい、行動で示しなさい、状況を見なさい、言いなさい」と日本語で示しています。このBe Do See Tellに関してはこのブログで「心の4つの使い方」として1度取り上げたことがありますが、それ以来約7年が経っており、新たな私なりの解釈を再度施しています。

 

Beはふさわしくあるということですが、人に信頼されてこそのリーダーだと思います。また自分で自分を信頼できなければ、自らが迷うことになり、他の人を導くことはできないでしょう。なので少なくとも信頼されるにふさわしくあることはリーダーシップの前提条件となります。ならばそのふさわしい状態とは何かということです。まずは心が落ち着いて平安でなければなりません。対処しなければならない事態に対してきちんと向き合うことができなければなりません。コミニュケーションが適切であるためには他者への共感が必要です。これらのことを鑑みれば、Beとは、例えば瞑想などの日々の霊性修行(サーダナ)によって心身のバランスがとれている状態、清らかな状態といえるように思います。朝起きたり、外出する時に身だしなみを整えますが、それに似て日常的に心身の状態へのケアが行き届いていることがBeといえると思います。

 

次にDoです。どの領域であっても自分の関わる仕事についての知識が備わっていて、その領域において適切な仕事ができなければなりません。自分がよく知らずできないことに関して人を導くことができるかというと、大いに疑問があります。ある程度は実務に通じていなければなりません。私は霊性の領域に関心がありますが、霊性の領域におけるDoといえば、ほぼ義務の遂行につきます。どのような立場におかれていても、その役割に固有の義務はあります。それを誠実に果たす必要があります。世の中ではplan do see checkということがいわれますが、日本人はdoが欠けているきらいがあります。plan do do do do do seeくらいでちょうどいいのではないでしょうか。

 

次はSeeです。見るということです。Doというのは世界に対するコミットメント(干渉)ですから、Doの後に世界が変化をこうむっているかもしれません。変化が起きているかいないか、起きているならどのような変化が起きているかを、バイアスなしに見ることができれば好ましいでしょう。Seeをより霊的に述べるならば、ただ眼で見るだけでなく、心(ハート)を世界に開いて全身で世界を感じることも大切だと思います。私と世界は一つで、心(ハート)を世界に対して開いたならば、世界と世界の変化を自らの存在で感じることができます。感応といってもいいこの作業がSeeです。

 

最後にTellです。世界を眼で見れば、あるいは心を開いて全身でその変化を感じれば、自らの内面に動きが生じます。痛みを伴う場合もあるでしょうが、これらはある種の精神的化学変化です。時間をおけばその変化が何らかの形を最終的にとるでしょうし、あるいは少しばかり長期間変化が継続するかもしれません。どちらにしろ自らの内面で起こっていること、それがmindの領域であれheartの領域であれ、起こっていることに基づく適切な表現をなすことがTellです。Doにおいて変化を起こし、Seeにおいて変化を取り込み、Tellにおいてその変化を評価します。

 

リーダーシップとは、人あるいは状況をある方向に導くことです。それは変化を起こすことでもあります。個別の人が自分の思う通りの行動をしていなくても、自分とチームのメンバーと状況が全体的に望む方向へと変化していたならば、それはリーダーシップが機能しているといえるように思います。このような変化をもたらすことに関して、Be Do See Tellは効果のあるマントラでしょう。私は普段リーダーシップを意識してはいませんが、例えばブログを書いたりツイッターでツイートをする際に、以上のプロセスを踏んでいるようなところはあります。人を導かないとしても、人の心に届く言葉を紡ぐのにも、このプロセスは大切だと思います。

仮説について

今回は仮説について考えてみます。仮説といえば科学を思い浮かべますが、仮説そのものについて語っている書籍はそうは多くないと思います。私はそれらに目を通したことはないのですが、多少なりとも仮説について思いを巡らせたことはあるので、それらについてまとめてみます。

 

ニュートンガリレオ以来の近代科学の特徴は、理論を数学によって構成し、それを実験によって検証するというものです。ただし自然科学といっても、物理化学生物などなどの違いにより、数学よりも概念(通常言語)による理論構成が主になることもあるでしょう。さらには経済学も自然科学ほど厳密でないかもしれないですが、数学理論によって経済現象をみています。これらの科学の背景にあるのは原理への希求です。根本原理を知りたいという欲求です。そしてそれは仮説を通じて行われてきたわけです。

 

私は若い頃は仮説を用いる学問は自然科学と経済学くらいしか思いつかなかったのですが、後にセブンイレブン鈴木敏文氏の著書を読んで、経営も仮説の科学なのだと知ったわけです。というより、経営を仮説の科学にしたところが鈴木氏の卓越したところです。鈴木氏は経営学は統計心理学であるといわれています。セブンイレブンは単品管理で有名です。季節や気象条件、店舗の立地、地域の行事などをふまえて、どの品が売れるか仮説を立て、日々発注を繰り返しています。セブンイレブンの経営システムはこれを支えるものとなっています。また鈴木氏は事業計画自体も仮説であるとおっしゃっています。

 

セブンイレブンのような小売業だけではありません。著名な投資家も仮説を活用しているように見えます。バフェット氏は企業のファンダメンタルを徹底的に調べ、5年株式市場が開かれなくても大丈夫そうな企業の株式しか買いません。実際には定期的にIR情報をチェックし、前提が変わればすぐに売ります。ソロス氏はバフェット氏とだいぶ趣きは異なりますが、やはり仮説を重視します。彼は仮説を立てた投資案件をまずは少額買い、その値動きを注視し、仮説が正しいと確信したら大量に購入します。

 

実際のところ、私は政治もより仮説を取り入れるのが好ましいと思います。日本は何十年も前に立案され、しかし時代状況が大きく変わったにも関わらず、政策に誤謬はないとの信念のもとそれが実施されることがあります。政策はすべて仮説に基づくとの考えがあれば、その検証や修正もよりしやすくなり、実効性が高まると思います。

 

インドにはブラーミン(僧侶階級)、クシャトリヤ(為政者階級)、ヴァイシャ(ビジネス階級)という区分があります。ブラーミンは存在の安定度、クシャトリヤは社会の安定度、ヴァイシャはビジネスの安定度と関係し、関与する真実の程度もそれぞれ異なりますが、仮説はどの領域にも必要そうです。霊性の領域では、それは信仰とも呼ばれるかもしれません。真実への距離があれば、その間を埋めるものとして仮説は有効です。仮説は一種の対話、コミュニケーションです。

 

霊性の見解によれば、すべては一つです。目を閉じた時に映る世界が内界で、目を開いた時に映る世界が外界ですが、両者は一つの同じものとされます。外界の探究と内界の探究は深く関係しており、その間の対応関係を仮説と呼んでも、そう誤っていないと思います。

 

宇宙の実在は科学によっては今だに理解不能です。霊性の領域にはダルマという概念があり、主にインド(バーラタ)で探究されてきましたが、なかなか説明しつくされることはなく、神秘のベールに包まれてはいます。私たちがそれらについて語ることは単に仮説に過ぎないのではないかと私には思えます。

 

しかしながら私は生まれてからこれまで、主に仮説によって真実に関する部分的な知見を得てきました。仮説はそれなりに有効な道具でした。いつまで経っても仮の人間ではありますが、一方仮であることの自覚は、真理の前での謙虚さを与え続けてくれました。それこそが仮説の最大の効用かもしれません。

チャクラと光明瞑想

私はインド(バーラタ)に関心をもっていますが、それはサイババがインドと不可分であることによります。サイババを知る前にバガヴァッド・ギーターのことを知っていたと思いますが、サイババに関係なくインドに強い関心があったわけではありません。サイババに関心をもち、その御言葉に触れる中で、少しずつインド文化への関心を深めていったわけです。それ故に今日触れるチャクラにはまったく関心はありませんでした。それらに関係するヨーガにもです。そもそもサイババはチャクラについて公的にはほぼ語っていませんでしたから。

 

しかしふとチャクラについて調べてみることになりました。ガナパティアタルヴァシールシャムというヴェーダの中に「トヴァムムーラーダーラスティトーシィニティヤム」という詩句があったからです。ムーラーダーラというのは土台のような意味ですが、それについてもう少し調べていくうちにムーラーダーラチャクラというものに出くわしました。これは7つあるチャクラのうちの1番最初のもので、会陰部にあるとされます。そしてそれをきっかけに他のチャクラについても検索して少し調べてしまいました。それなりに興味深いことが書かれていました。

 

私は専門家ではないので詳しく述べることはできませんし、検索で一般的なことを調べて大ざっぱに自分なりに理解しただけですが、ふとそれらのチャクラを開発するのに光明瞑想が役立つような気がしました。今日はそれについて書いてみます。

 

チャクラは7ヶ所あるようです。会陰部、丹田辺り、みぞおち辺り、胸(ハート)、のど、眉間、頭頂部の7ヶ所です。チャクラが開くと一般にいわれますが、これらの7つのうち一部は開いているのを体感します。他の部分については、開いているかもしれないし開いてないかもしれないし、今の私にはその微妙さがピンときていません。しかしそれについては今は触れないでおきましょう。

 

私の理解では、会陰部の第1チャクラは自分の存在を支えるチャクラです。大きなものに根ざしている感覚でしょうか。丹田辺りの第2チャクラは生命エネルギーが身体に浸透している感覚です。第2チャクラは性に関係しているという記述があったと思います。第1チャクラは男性性で第2チャクラは女性性だという記述も見かけました。みぞおち辺りの第3チャクラは自信に関係するようです。太陽の光にあたったり活動によって育まれるようです。これら第1から第3チャクラが人間の基礎でしょう。胸(ハート)の第4チャクラは愛に関係するようで、私的には霊性の開花のことだと思います。第1から第4チャクラで霊的存在としての人間です。第5チャクラののどは表現に関係するようです。愛が外へ拡散しているということでしょうか? 眉間の第6チャクラは直観や英知のことらしく、これは超越者への近接でしょう。頭頂部の第7チャクラは悟りのことらしいのですが、これは超越者との融合=人生の目的の成就に関係していそうです。

 

さてこの7つのチャクラと光明瞑想に関してです。光明瞑想について再度簡単に触れておきますと、脚を組んで座った姿勢で眉間から光を取り入れて目を閉じます。光をハートに下ろし胸(ハート)を光で満たし、そこに蓮のつぼみを思い浮かべその花びらがひとひらひとひら開いていくのを想像します。そのあと光で手足や胴体を満たし、首を通って頭部へ光を移します。舌や耳、目、頭脳を光で満たします。そして頭頂部から光を外の世界へ拡げていきます。親や家族、親族、友人、知人、敵対者などを光で満たし、地域や社会、国や世界、自然、宇宙を光で満たします。そして「私は光の中にあります。光は私の中にあります。私は光です。」と思って静かに瞑想状態を楽しみます。しばらくして光をハートに戻し、目を開け、日常生活に戻ります。

 

この光明瞑想の手順をみればわかるように、光明瞑想は少なくとも眉間とハートと頭頂部はかなり意識している瞑想です。また光で全身をくまなく照らしていく作業がありますので、特別意識的ではないかもしれませんが、他のチャクラも一応光で照らされています。つまり意識の強弱はあるにしろ、すべてのチャクラは光で照らされているわけです。

 

私には開いている自覚のあるチャクラがありますが、毎朝ハートを開く姿を思い浮かべていますので第4チャクラは特にその自覚が強いです。また比較的歩くことが多いからでしょうか、自信もある程度あり、それが光明瞑想のおかげかはわかりませんが、第3チャクラもほどほどに開いているのでしょう。他のチャクラについても光明瞑想の影響はありえます。ただしこれまで光明瞑想にチャクラを開く効果を求めたことはただの1度もありません。

 

チャクラに関することは、しっかりした師につかず自己流でやると危険があると聞きます。なのでチャクラに関することを私自身は勧めませんが、光明瞑想を適切に行い続けていれば、それに関する効果があるかもしれないなと最近思いました。私は光明瞑想を勧めます。

浄土・極楽

前回、魂の力に関連してCIA(constant integrated awareness)のことに触れました。いつも意識に満たされていることの自覚です。そういう状態にある人にとって、そのような状態はある種浄土系仏教のいう浄土・極楽のようなものではないか、あるいは仏教から外れてキリスト教の天国、ヒンズー教のヴァイクンタやカイラサのようなものではないかとふと思い、今日はそのことについて少し書いてみます。

 

仏教ではそれぞれの仏様にそれぞれの仏国土があるようで、特に阿弥陀様の仏国土を浄土・極楽というようなのですが、私の今の立場からいえば、どの仏国土も等しく素晴らしいもので、ただ阿弥陀様の仏国土はその理解されうる姿がよりはっきり記述されているという意味で卓越しているように思えます。私の今の立場とは、CIAの状態を基準にものをみる立場であり、CIAの状態は誰にとっても等しいような気がするからです。以下法蔵菩薩の48願をいくつか取り上げてこのことをみてみます。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」(第1願 無三悪趣の願)

CIAの状態においては、環境の力は魂の力に比べてほとんど無力です。魂は意識であり至福でありsatchidanandaと呼ばれているものです。地獄の苦しみや餓鬼はありません。しかし私のようなレベルの人間は、今だ空腹を感じれば食事を求めるので、そういうレベルの人は空腹に思うことはあるでしょう。またCIAは人間にこそ可能であって、人間以外の動物が到達する境地ではないでしょうから、畜生はいません。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ」(第3願 悉皆金色の願)

CIAにおいては意識が身体に浸透し満ち満ちています。真金色の真とは混じり気のないということで、金色とはまさに金に匹敵するということでしょう。金から多くの金の装飾品が作られますが、それらはすべて金が形をとったものです。CIAにおける身体はかなりのことをなすことができます。身体は一つでも可能性は多大です。そういう風に受け取ることはできます。また当然のことですが、意識が浸透している身体は非常に価値のあるものです。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ」(第16願 離諸不善の願)

不善の名とは、私の手元の資料によれば「好ましくない言葉」の意味のようです。つまりCIAの状態にあるものは、よくない言葉を口にしないということです。外界に意識の焦点があたってないのですから、好ましくない言葉どころか、そもそもあまり言葉を語らないように思います。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を嫌悪せん。寿終わりて後に、また女像とならば、正覚を取らじ」(第35願 女人往生の願)

女性は一般に厳しい修行に向いてないだろうということで、宗教・宗派によっては低くみるものがありますが、実際のところ女性の肉体の制限と男性の肉体の制限は少しばかり違いがあったとしても、それがどれだけ本質的なのだろうかという思いがあります。第35願は一般に肉体嫌悪の人について述べていると受け取れなくもないのですが、仮に女性だけに焦点をあてた願だとしても、CIAの状態に男女の違いによる制限はないでしょう。女性であろうと男性であろうとCIAの状態にはまっている人は再び生まれる可能性はなさそうな気はします。

 

「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、仏を得るに至るまで、諸根闕るして具足せずは、正覚を取らじ」(第41願 聞名具根の願)

諸根闕るとは、眼耳鼻舌身意が不自由である、つまりいわゆる障害者ということです。霊性の道を歩む上で健康が非常に重要であるのは確かなのですが、菩提心をもってCIAの状態を求めるのが障害者に無理だということはありません。また健常者と障害者の意識に違いがあるというわけでもありません。意識の汚れはサーダナによって除去でき、サーダナ次第です。

 

48願の内のいくつかについてCIAに関する見解を述べました。私の論は屁理屈のようなところもあるかもしれませんが、私の見解では、CIAに関しては肉体にまつわる属性はほぼ意味をなさないだろうということです。他の48願についても述べれなくはありません。阿弥陀様の仏国土=極楽は48願が具現化されたもので、それとCIAの状態とは果たしてどれだけの違いがあるかということです。

 

私は真宗門徒でありながら、この世を離れた極楽をほぼ信じることができません。死後に世界があるのは信じていますが、それはこの世という舞台で100年近くあるいはそれより短命でも頑張ってきた人が死んで休憩するところです。天国や極楽、地獄というのはこの世の幸せが天国・極楽で、この世の苦しみが地獄だと思っています。阿弥陀様のお浄土もCIAという形で生きて到達可能なものと受け取っています。すべては私の受け取りなのですが、これで心に平安があるのですから、そうは間違ってないと思うのです。いかがでしょうか?

魂の力

「この夢のすべてが消え去るときがやってきます。私たちの誰にも、いつか必ず、この全宇宙が単なる夢に過ぎないことに気づき、魂はそれを取り巻く様々な事象よりもはるかに素晴らしいものだと知る時が訪れます。環境と呼ばれるものとのこの苦闘の中で、やがて、これらの環境が「魂の力」に比べればほとんど無に等しいものであると気づくときが訪れます。それは単に時間の問題であり、時間は無限なるものの中では何の意味ももちません。それは大海の一滴です。私たちはただ待ち、穏やかな心でいればいいのです。」(プレマダーラ p.13)

 

「環境と呼ばれるものとのこの苦闘の中で、やがて、これらの環境が「魂の力」に比べればほとんど無に等しいものであると気づくときが訪れます。」とあります。環境が「ほとんど無」とまではいかないものの、環境の自分への影響力は年齢を重ねる毎に小さくなってきているのを感じます。若い時は、コンクリートで自分の周りが固められたといえば大げさですが、そうたとえてもいいくらいに環境にがんじがらめにされているように感じたものです。しかし今は当時に比べれば、心ははるかに穏やかで、環境による強制力は小さくなってきました。今日はこのあたりのことについて少し書いてみます。

 

私は40歳までは、どうしてこんなに考えてしまうのかというくらい考えて考えて考える人生を過ごしてきました。40歳時点で普通の人が60年かけて考えるくらい考えたと思います。それが40歳頃になって不思議と考えなくなりました。今何らかのものが書けているのは、その蓄積のおかげがあるかもしれません。考えることが減ってから約15年経ちますが、この15年の間は、人間としてどうしても果たしておかなくてはならない義務に携わざるを得ませんでした。幸いなことにそれを果たし終え、今は普通の日本人が80歳を越え、いつ死んでもいいと思う程度には、私も今死んでもほぼ後悔がない、やることはほぼやったという気持ちはあります。そのように義務からかなりの程度解放されてしまえば、外界=環境の強制力は自然に小さくなってきます。これは一つの真実であると思われます。

 

 「私たちはただ待ち、穏やかな心でいればいいのです。」とありますが、私の個人的経験からは、「気持ちの上ではただ待つのだけど、しかしなすべき義務は着実に果たし続けるべきであり、しかし結果は約束されているので、心穏やかでいればいい。」ということになります。着実に義務を果たし続ける期間は人によってそれぞれでしょう。生まれてから30年、50年、60年、80年かかるかもしれません。子をたくさんもうけ、責任の重い役職などにつけば、当然それに伴う義務の量は増えます。人が何を望みどのような人生を選択してきたかによります。義務からの解放は祝福といっていいでしょう。義務は人の魂の力を強化します。

 

もう少し別の面から「魂の力」について見てみましょう。人間とは意識のことであるといえます。いつも全身が意識で満たされているのを自覚できていれば、つまり意識としての自分を意識できていれば、それはつまりomnipresent=遍在する今=現在を生きていることを意味しているでしょう。自分が意識であることを自覚できていれば、いわゆる世界つまり外界に意識の焦点があたることはなく、世界はぼんやりと存在することになります。意識の焦点が世界の事物に向けられれば、その事物は現実性を帯びます。意識が再び事物から外れ、自らの存在が意識の海に戻れば、世界はまたぼんやりとした映像となります。そのような状況においては、映画がいかに真にせまっても結局は単なる映像に過ぎないように、魂=自分を取り巻く外界の映像は自分に影響を与えなくなります。それが自分=魂と外界=環境の関係です。

 

さらに見てみましょう。自分を取り巻くどの部分にも私は意識を向けることができます。たとえば台所にいて食材が冷蔵庫にあり、それを意識したとします。私はその状況に関与します。私は食事を作ります。私は世界に変化をもたらしました。しかしその状況から意識を外せばそれは現実性を失います。私は環境の一部を手にとり、一部操作して、それを手放しました。自分を取り巻く環境は、そのように様々な操作を受け入れるポケットのようなものです。環境の別の部分を手にして操作すれば、またその部分のポケットに何かを蓄えたことになります。環境のどの部分を手にして操作するかは自分次第です。芸術家が時間をかけて作品を作るように、私いえ私たちは環境=外界=世界を作っています。ただそれだけといえばそれだけです。このような視点をもてば、「魂の力」ははるかに環境より強い力をもっていると見えないでしょうか? ここで述べたことの根本を支えるのは、意識である自分を自覚し続けておくということです。

 

サイババによればCIA(constant integrated awareness いつも意識に満たされている自覚)はプラグニャーナ(般若)だそうです。この状態にある時、外界は自らにほとんど影響を及ぼさないといえるのでしょう。私はまだ完全でないので断言はできません。CIAは自己実現を果たした人あるいは聖者の状態を示す言葉といえます。外界=環境の影響をまったく受けなければ、それは解放されているともいえます。外界に意識が向くのは欲望や執着あるいはやり残している義務があるからです。欲望や執着は義務を果たし続ける一貫した努力によって少しずつ取り除かれていくはずです。

 

魂の力を引き出すとは、つまりは自らの意識をサーダナ(霊的規律)で浄化し、欲望や執着、エゴなどの汚れを取り除くことであり、また義務を完了するよう努めることであると思われます。そうしながらあとはただ全宇宙が単なる夢であり魂の力はそれよりはるかに優れているのに気づく時をゆっくり待てばいいということなのでしょう。

一隅を照らす

正確に覚えているわけではありませんが、次のような詩句(言葉)を最近見かけました。

「我唯足るを知る

清貧の一灯

一隅を照らし

利他の行を行う」

我田引水的に理解すれば、これはサイババの示す9つの行動指針の1つです。すなわち「欲望に上限を設け、余った時間やお金などを奉仕活動に役立たせなさい。」という指針です。

 

「我唯足るを知る」とは満足のことです。肉体を維持するのに必要な食物と衣服、雨露をしのげる場所に加え、精神の糧となる書物や心が固くなった時に気を紛らわすリクリエーション(娯楽)が少しばかりあれば十分です。これで生活は足ります。先行きを不安に思い富を溜め込みたくはなるでしょうが、未来のことはわからないもので、不安の内に一生を過ごしても仕方ありません。悪いことをしなければ未来はそうは悪くならないものです。富が手元にたくさんあったとしても、本当に必要なものはそう多くはないと理解するのがいいでしょう。

 

「清貧の一灯」。生活を維持する支出の他は少しばかりでいいので奉仕に役立てようと思いさえすれば、その思いこそが一灯です。Love is the soul’s light.というルーミーの言葉があるようですが、愛の思い、愛の光ですね。大事業をやろうとすれば大きな財産が必要かもしれませんが、ほんの10人弱程度の少しばかりのニーズを満たすのに大金はほぼ必要ありません。

 

「一隅を照らす」。太陽ですら地球の半分しか照らしません。文明の利器として人類が誇りに思う照明器具は10平方メートルかそこらを照らすくらいです。愛の光は世界の一部と人の心の中も照らすでしょう。そしてその光は真実を示し平安をもたらします。皆とはいわないまでも、ある程度の人がそれぞれの場所で一隅を照らすことができれば、もうそれは黄金時代の到来だといっていいものです。

 

「利他の行を行う」。仏教では利他の行は菩薩の行、すなわち仏陀に等しいものを目指すものの行だそうです。利他の行は奉仕です。また布施行です。他の人も自分と同じように尊いという思いがあるならば、その行は必ずや何らかの形で実を結ぶでしょう。

 

適切な態度で行われなくてはなりませんが、実際のところ奉仕するものにとって重要なのは、奉仕する相手が完全に満足することや相手から感謝の言葉をもらうことではありません。奉仕=利他の行は愛という水を流す水路のことですが、愛が自らの内から湧き上がりそれを周囲にまき散らす過程で、結果として自らが愛に満たされ愛で清められる。これが最大の効果です。たとえば台所や浴室の排水管が汚れて詰まりかけていれば、それをきれいにしないといけませんが、それを業者さんに頼んだり自分で掃除します。それに似て、奉仕=利他の行は心の汚れや詰まりを大ざっぱにしかしごそっと取り除くようなものです。細かい汚れは瞑想や称名によって取り除きます。心を浄化するのに奉仕が最も手っ取り早いと思います。なので、人生に行き詰まりを感じている人には私は奉仕を勧めます。その人が霊的な人でなくても、適切な奉仕活動にある程度携われば心のつかえが取り除かれ、気持ちの変化は起きやすくなります。

 

名越康文氏はそのツイートで、「自由は自分に詰まりがないこと、その瞬間の持続のこと。…」と述べていますが、自分の内の詰まりを取り除くことは大切です。そして外の世界の詰まりを取り除くことも重要でしょう。それによって自分も社会もよくなります。

 

世界が愛の光、清貧の一灯で照らされますように。そして人々がより自由を感じることができますように。

 

 

奉仕の精神

約30年前、私がサイババの御言葉に触れ始めた頃は、その御教えの何もかもがとても難しく思えたものでした。これは私には無理、あれは私には無理と絶望しかかったこともあるのですが、その中で何とか私にも取りかかることができそうなのが奉仕でした。サイババのいう奉仕とは、前回も書いたように、相手の内に愛する神を見て捧げ物としてなされる無執着の行為のことです。これなら少しばかりはできそうな気がしました。さらに『真のボランティア』という本を繰り返し読むことを通じて、奉仕の意義がより深く理解できるようになりました。日本で現在手に入る日本語の文献としては、この本以上のものはないかもしれません。この本を元に30年ほどわずかばかりの努力を重ねてきましたが、その30年を振り返って、私なりに奉仕の精神について書いてみます。

 

何で読んだかは忘れましたが、次のような話がありました。サイババのアシュラムで人がたくさん集まるお祭りか何かが行われる時、人がもうたくさんいたのですが、下水が詰まったそうです。そして汚物があふれかけていて、それを放っておくと当たり一面が汚れ悪臭に見舞われるかもしれないという状況です。カーストに関する考えもあったかもしれませんが、誰もそれに対処しようとする人がいませんでした。そんな中1人の奉仕者(セヴァダル、サイババに指名され大きな行事などで奉仕活動に携わる人)がそれに気づき、とっさに汚物の中に全身入り込み、下水管のつまりを取り除き、汚物が一面にあふれるのを防いだといいます。その人は社会慣習や自らのことを顧みず公共を優先しました。下水が流れ出し問題が解決した後、その人はすぐにシャワーを浴びに行きました。サイババは一連のことを知ると「私は彼(下水の詰まりを取り除いた人)に解脱を授けよう。」とおっしゃったそうです。私の理解では、解脱に値する人とは、自らのことではなく社会や公共のために(汚れを含め)すべてを一身にかぶる人のことです。社会の問題は直接自分には関係ないかもしれないし無視することも可能ですが、少なくともできる範囲でその重みや汚れをかぶる。これは奉仕者を自称する人には欠かせない態度だと思うようになりました。

 

またこのブログで書いたことがあるかもしれませんが、私はあるところを自転車で通っていた時に、すぐ脇にホームレスの人を見かけたことがあります。用事はあったものの特別急いでいなかったでしょうが、私はそのまま通り過ぎてしまいました。そしてその後しばらく「何でその時立ち止まってホームレスの人に対応できなかったのか?」とそんな思いで苦しめられました。私は世界の最後尾を歩む人と共にいてあげることができませんでした。奉仕をする意志があるとは、結局のところ世界の最後尾を歩む意志があるということです。

 

「すべてをかぶる」「世界の最後尾を歩む」、これは私にとって奉仕の精神といえるものです。人々と共に歩むということは、1つであること=一体性(unity、エーカットワ)であり、これは不二一元という人生で目指すべき目的に叶います。

 

奉仕が私にとってなぜ簡単かというと、何をなせばいいかという適切な判断を下しさえすれば、他に余計なことを考えなくていいからです。あれこれ考えて切りがなくなると、つまり悩み多き人というのは、何もしなくてもそれだけで大きな苦痛なわけです。奉仕を行うとそういうことから免れるが故に、私には奉仕は簡単なサーダナ(霊的規律)なわけです。しかもサイババによれば最も効果のあるサーダナとされます。

 

『真のボランティア』の最後あたりに次のような言葉があります。「息を引き取る瞬間までセヴァ(奉仕)し続けなさい。」(1984.11.20) この言葉は私が心に留めている最重要の言葉の1つです。少なくとも人生の最晩年を認知症や苦しみに悩まされる寝たきり状態にならないように、そして可能ならば人生を最後まで活かしきって死に臨みたいと思っています。

 

申し訳ありません

暑い日が続いています。どうぞ熱中症に気をつけられてください。

 

実はパソコンが急に壊れまして、満足に推敲しながら文章を書くことができなくなりました。すぐに新しいパソコンを買うつもりでいますが、少しの間ブログの更新が途切れることになります。ここ最近きちんと記事を書けないことが多く申し訳ありません。

 

こんな私ですが、今後も書き続けていくつもりでおりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。