奉仕の精神

約30年前、私がサイババの御言葉に触れ始めた頃は、その御教えの何もかもがとても難しく思えたものでした。これは私には無理、あれは私には無理と絶望しかかったこともあるのですが、その中で何とか私にも取りかかることができそうなのが奉仕でした。サイババのいう奉仕とは、前回も書いたように、相手の内に愛する神を見て捧げ物としてなされる無執着の行為のことです。これなら少しばかりはできそうな気がしました。さらに『真のボランティア』という本を繰り返し読むことを通じて、奉仕の意義がより深く理解できるようになりました。日本で現在手に入る日本語の文献としては、この本以上のものはないかもしれません。この本を元に30年ほどわずかばかりの努力を重ねてきましたが、その30年を振り返って、私なりに奉仕の精神について書いてみます。

 

何で読んだかは忘れましたが、次のような話がありました。サイババのアシュラムで人がたくさん集まるお祭りか何かが行われる時、人がもうたくさんいたのですが、下水が詰まったそうです。そして汚物があふれかけていて、それを放っておくと当たり一面が汚れ悪臭に見舞われるかもしれないという状況です。カーストに関する考えもあったかもしれませんが、誰もそれに対処しようとする人がいませんでした。そんな中1人の奉仕者(セヴァダル、サイババに指名され大きな行事などで奉仕活動に携わる人)がそれに気づき、とっさに汚物の中に全身入り込み、下水管のつまりを取り除き、汚物が一面にあふれるのを防いだといいます。その人は社会慣習や自らのことを顧みず公共を優先しました。下水が流れ出し問題が解決した後、その人はすぐにシャワーを浴びに行きました。サイババは一連のことを知ると「私は彼(下水の詰まりを取り除いた人)に解脱を授けよう。」とおっしゃったそうです。私の理解では、解脱に値する人とは、自らのことではなく社会や公共のために(汚れを含め)すべてを一身にかぶる人のことです。社会の問題は直接自分には関係ないかもしれないし無視することも可能ですが、少なくともできる範囲でその重みや汚れをかぶる。これは奉仕者を自称する人には欠かせない態度だと思うようになりました。

 

またこのブログで書いたことがあるかもしれませんが、私はあるところを自転車で通っていた時に、すぐ脇にホームレスの人を見かけたことがあります。用事はあったものの特別急いでいなかったでしょうが、私はそのまま通り過ぎてしまいました。そしてその後しばらく「何でその時立ち止まってホームレスの人に対応できなかったのか?」とそんな思いで苦しめられました。私は世界の最後尾を歩む人と共にいてあげることができませんでした。奉仕をする意志があるとは、結局のところ世界の最後尾を歩む意志があるということです。

 

「すべてをかぶる」「世界の最後尾を歩む」、これは私にとって奉仕の精神といえるものです。人々と共に歩むということは、1つであること=一体性(unity、エーカットワ)であり、これは不二一元という人生で目指すべき目的に叶います。

 

奉仕が私にとってなぜ簡単かというと、何をなせばいいかという適切な判断を下しさえすれば、他に余計なことを考えなくていいからです。あれこれ考えて切りがなくなると、つまり悩み多き人というのは、何もしなくてもそれだけで大きな苦痛なわけです。奉仕を行うとそういうことから免れるが故に、私には奉仕は簡単なサーダナ(霊的規律)なわけです。しかもサイババによれば最も効果のあるサーダナとされます。

 

『真のボランティア』の最後あたりに次のような言葉があります。「息を引き取る瞬間までセヴァ(奉仕)し続けなさい。」(1984.11.20) この言葉は私が心に留めている最重要の言葉の1つです。少なくとも人生の最晩年を認知症や苦しみに悩まされる寝たきり状態にならないように、そして可能ならば人生を最後まで活かしきって死に臨みたいと思っています。