愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

内面の探求

最近関心のある人に木村秋則さんがいます。知っている人もいるかもしれませんが、奇跡のリンゴを作った人です。その木村さんが本の中で次のように書いていました。

バクテリアなどの微生物の働きを詳しく知りたいのですが・・・」
と尋ねると、その方(日本土壌微生物学会の方)は、
「地面の下、深さ数センチのところから、深さ1万メートルを超えるマリアナ海溝の底に棲む微生物まで、実は人間は何も知らないのですよ」
とおっしゃいました。そして、
「地球のことさえわからないのに、宇宙を知ろうというのは、順番が違いますね」
と互いに苦笑いしました。(百姓が地球を救う)

人間は地面の下数センチのところを知らないのだと、私はこの本を読んで初めて知りました。

さて、自分自身に関する理解についても同じことが言えるのではないかと思います。外界を目を開けた時に見えるもの、内界を目を閉じた時に見えるものとすれば、人間は外界に関してはありとあらゆることを知ろうとしますが、内界に関しては1センチすら探求しようと試みません。ある意味で、現代人は非常にバランスを欠いています。目を閉じた時、多分何も見えず真っ暗です。しかし、さまざまな方法でそこを探求すれば、いくつかのことが分かってきます。

目を閉じるといえば瞑想あるいは禅ですが、日本に座禅を広めた道元師は、「仏道とは自己をならうことである」とおっしゃいました。またある方は、目を閉じた時に見えるものは全て自分の姿ですとおっしゃいました。
座禅や瞑想をしたことのない人が目を閉じて静かに座ると、多分頭の中が様々な想念でいっぱいになると思います。これはその人の状態を示しています。

目を閉じた時に見えるものは何でしょうか? 内界を満たしているものは何でしょうか? そこには何もないのでしょうか? あるいは何かがあるのでしょうか? 想念が湧き上がってくるとき、それらの想念はどこから湧いてくるのでしょうか? 内界と外界のあいだには関係があるのでしょうか? あるいは何も関係がないのでしょうか? 内界と身体のあいだにはつながりがあるのでしょうか? 少し考えただけでもこのような疑問が湧いてきます。

内界の探求とは結局は自己探求ですが、人間は他のあらゆることは必死に知ろうとしますが、自分のことをほとんど知りません。ソクラテスは「汝自身を知れ」と言いましたが、すべての哲学はこの問いから始まり、そして最終的にこの問いにいきつくのではないかと思います。

インドのウパニシャッドでは、それを知ればすべてのことを知ることのできる知識としてアートマの知識を上げています。アートマとは真の自己のことです。もしあなたが真の自己を知るならば、真の自己があなたにすべてを教えるでしょうと言われています。アートマは神ご自身のように私たちにすべてを告げます。

木村秋則さんもおっしゃっていますが、目に見えないものの方が大切なのです。目に見えない地下に目に見える木が依存しているように、体も心も目に見えない自己に依存しています。また、目に見えない母の愛を知るために母の姿があるのです。