愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

和魂洋才

 おもしろい言葉を見つけました。

 科学は「?」を積み重ねて進歩するが、仏法は「!」と気づかされて立ち止まる(仏光寺掲示板)

 私はこれに似た言葉を聞いたことがあります。

 科学はanalyze(分析)するが、霊性はrealize(実現、気づく)する。

 人が頭で考えるのは、それが厳密な科学の作法(理論と実験による検証)でなくとも、科学の影響のもと思考で何かを理解しようとする動機が背後にあります。それは感覚の対象を分析します。ある対象(の性質)が何かを突き止めようと「?」を積み重ねるわけです。

 一方、霊性というか宗教というか仏教というか、そういうものは、さまざまな探求を伴うのは確かで頭を使っていはするのですが、そこで大切なのは腑に落ちるというか気づきというかそういうものです。そういうものがない限り、先に進めません。つまり「!」があってこその霊性、宗教です。

 明治維新以降日本で和魂洋才という言葉が使われることがありましたが、結局のところ、和魂洋才とは科学と霊性の調和のことでしょう。感覚される対象(客体)は科学の領域で、感覚器官をコントロールする主体は霊性の領域です。科学の探求においては思考は外を向いていますが、霊性の探求において思考は内在するものに向き、道徳・倫理の実践を促したり内在する真実の認識に向かいます。

 内在するもの(土台)を考慮せず、外界に知覚されるものを無制限に追い回してもうまくいかないことがこの200年からそこらでわかってきました。科学は何のためにあるのか? どういう場面において科学の探求は行われるべきなのか? 存在は認識に先んじるという言葉の通り、人間あってこその科学です。

 大切なのは、人間としてのバランスの取れた発達であって、人が生活するうえでぶつかるさまざまな課題を解決する手段として科学を活用する。これこそが目指すべき「和魂洋才」の姿であろうと思うのです。つまり「和」(日本)だけが和魂洋才を必要としているのではなく、バランスの取れた和魂洋才は世界が必要としていることでもあります。真の自己=アートマに国籍や文化の違いはありません。しかしそれが人間の身体をまとい特定の文化の影響の元で生活するとき、必要とする科学の適用が変わるだけのこと。

 早く多くの人がこのことに気づけばいいなと思っています。そして教育の場で科学と霊性の調和と融合がはかられればとも願っています。