御名1

私の家は浄土真宗です。浄土真宗では、喜びをもって「南無阿弥陀仏」と念仏することを教えの中心としています。経典を読むと、御名を唱えることに関して様々に述べられています。私は家の宗教のせいか、御名に関して深い関心を持ってきました。多くの世界中の宗教は御名をたたえています。

人は様々に能力が異なります。あるいは家庭環境や地位・財産なども様々です。健康な人もいれば、病気を患っている人もいます。ありとあらゆる側面において違いがありますが、こと霊的な面においては皆平等だと言われています。霊的な向上、注がれる恩寵や祝福は万人に平等に開かれていると言われています。

霊的な行にはいろいろあります。唱名、瞑想、祈り、奉仕、礼拝等々があります。その中でも御名を唱えることは誰にでもできる簡単な行なのではないでしょうか。病気で寝込んでいる人、全身不随の人でさえ、心の中で静かに御名を唱えることができます。神は人間に舌を授けましたが、それは美味しいものを味わうためでも、とりとめのないおしゃべりをするためでもなく、神仏の御名を唱えるためだと聞きました。神仏の御名を唱えることは、舌にとっての義務なのです。

エスアッラーブッダ、ラーマ等々すべての御名は尊いものです。それはまず第一に私たちが崇めなくてはならないものです。名前は単なる音かもしれませんが、その音の中にすべての力があります。人は音によって他人を怒らせたり、幸福にさせたりすることができるのですから、御名にも素晴らしい力があることが想像できます。

大海原の上空を飛ぶ鳥にとって航海中の船のマストが唯一のよりどころであるように、この世俗の大海にあって人間の唯一の拠り所ともいえるものが御名です。御名は小さなものかもしれません。しかし、たとえば真っ暗闇の森を通り過ぎるのに森全体を焦がす炎は必要ありません。小さなろうそくの火があれば十分です。御名を唱えながら生きることだけで、人生を渡ることができます。

この世のものはどんなに素晴らしいものであっても、いつかはうんざりするものです。ケーキが好きな人であっても、毎日毎日何年もケーキを食べ続ければいつかはいやになります。ラーメンがいくら好きでも、毎日毎日食べていると飽きるものです。いくら気心の知れた配偶者であっても、四六時中一緒にいるとわずらわしさを感じたりもします。しかし、御名はそうではありません。実際に毎日毎日何年も唱えているとわかるのですが、御名はいつも新鮮です。飽きるということがありません。舐めても舐めても減らない飴玉のようなものです。それはインスピレーションの源であり、無知を少しずつ滅ぼしてくれます。

御名を唱えることだけでなく、何の行に取り組むにしても、最初は振り(pretend)から始めます。そのうちそれが習慣(tend)になり、最終的に目的地(end)に導いてくれます。
御名は信仰を育んでくれます。御名の象徴する神仏を思い描くことによって、その神仏への愛が増します。御名はすべての徳と力を含んでいますが、それを唱え続けることで、いつの間にか御名のもつ徳と力を我がものとすることことができます。御名を唱えることにお金は全くかかりませんが、それは最高の富に匹敵します。

海は一つですが、それはさまざまな名前がつけられています。太平洋と呼ばれたり、瀬戸内海と呼ばれたり、ホルムズ海峡と呼ばれたり、北極海と呼ばれたりしますが、すべては一つの海につけられた名前です。神仏の名前も同じです。唯一の実在があり、それがさまざまな名前で呼ばれます。一つの海をインド洋と呼んだり、オホーツク海と呼ぶのが間違っていないように、唯一の実在を阿弥陀と呼ぼうと、イエスと呼ぼうと、大日と呼ぼうとシヴァと呼ぼうと間違っていません。そのような多くの御名の中から全ての人が自分の好みの御名を見つけ、人生の同伴者とするようになればいいなと思っています。

ナーマスマラナ(御名を繰り返し唱えること)は輪廻の海を渡る手段
御名は筏 あなたを安全に渡してくれる
御名は迷妄のベールを取り払う 
今、人間から普遍なる実在を覆い隠しているベールを
ベールが消えてなくなったとき 人は自らの内に神を見出し 宇宙を自分として眺める
人は無限の力と無限の可能性をもっている
なぜなら人は、無限なる海の一つの波なのだから
至高神と一つなのだから