愛に生きる

日常生活から少し離れて内省の時間にふと浮かんだ思いを記します。

私と私たち

私たちは、自分が他の人々から孤立していると感じるとき、心の中にエゴが生じます。人間は他者との人間関係なしに生きていくことはできません。それは体の一つの細胞や器官が身体から離れて存在することができないのと同じことです。人類はあたかも一つの体のように、相互に依存し合っています。私たちは本来一体です。

 心臓には心臓の役割があるように、脳には脳の役割があるように、手足には手足の役割があるように、私たちの社会や個々人には人類全体の中でふさわしい役割があります。人間には本来各人の持ち場があり、各人が各人の義務を果たすことですべてがうまくいくようになっています。しかし各人が各人の義務を怠ると、人類全体に支障が出てきます。お腹が痛くなると涙が出てくるのと同じことです。手に棘が刺さると、もう一方の手はそれを抜こうとするのと同じことです。

 私は仏教徒なので、お釈迦様の三帰依文を知っています。「仏に帰依し奉る。僧に帰依し奉る。法に帰依し奉る」です。仏は本来ブッディ(知性、良心)のことで、お釈迦様は「自らの良心に従います」と宣言されているという話を聞きました。お釈迦様は不安定な心(マインド)を追わずに自らの良心に従ったが故に悟りを獲得され、仏と呼ばれるようになりました。しかし本来人が自分の良心に従うだけでは深い真理に達することができません。そこでお釈迦様は僧に帰依し奉るとおっしゃいました。僧は現在はお寺のお坊さんと理解されることが多いのですが、もともとはサンガ(社会、良き仲間)のことで、お釈迦様は「社会に従います」と宣言していると私は思っています。自分のことは自分で思う通りにできても、普通社会一般を思う通りにすることはできません。であるが故に、社会を避け所とする(社会に帰依する)ことで、人間はより深い真理に触れることができるとお釈迦様は宣言されました。法はダルマすなわちわかりやすく言えば正しい行いです。この宣言は「正しい行いに従うことで人生を生きていきます」という意味だと私は思っています。私たちは深い真理に触れるため社会に従いますが、その社会で生きる上で正しい行い(ダルマ)の道からはずれることはありません、ということです。この仏法僧の三つを守ることで、私たちは神聖な道を歩むことができます。

 人間にとって社会は不可欠です。社会とは「私たち」のことです。個人は「私」です。いつも社会の利益を考えて行動すれば、つまりいつも「私たち」のことを考えて行動していれば、「私」というエゴは少しずつ消えてなくなってしまいます。家族と一緒にいるときは、家族という「私たち」のことを考えて行動します。会社にいるときは、会社の仲間という「私たち」のことを考えて行動します。地域社会の中で活動する際は地域社会という「私たち」のことを考えて行動します。このようにいつも「私たち」のことを考えていれば、「私」という思いは次第になくなります。

 心理学の講座を聴講したことがあるのですが、「私」というものは、人間が作り上げた虚構の中で最たるものだそうです。人間はいろいろな機械を作り出しました。いろいろな道具を作りだしました。いろいろな芸術作品を作り出しました。しかし、私たちが自分を私というときの「私」こそが人間が作り上げたもので最も根深いものであるとのことです。「私」というものは本当にあるのかと問うと、実は「私」というものは本当にあやふやなものであるのだそうです。私は「私」というものよりも「私たち」の方がより真実なものであるように思われます。

 人類は現在多くの問題を抱えていますが、私は人類はそれらを克服するという希望をもっています。ただし、各人が良心に従い、社会の利益を考え、正しい行いを貫くことへの信念を強めたときにそれは可能になると思っています。私たちは、心を個人という小さな枠から、社会や人類、生態系すべてを包むように広げていく必要があると思います。