知識と知力(スキル)と奉仕

 私たちは学校で長い間学び、多くの知識を獲得します。しかし、これは私に限ったことではないと思うのですが、学校を卒業した後、その多くの知識を忘れてしまします。それは、コンピューターにデータを記憶させ、それを再び消去したのと同じことです。知識を獲得しても、その多くが時間とエネルギーの無駄になったわけです。そして、知識を無駄にしてしまったことが現代の悪徳(議論や批判、快楽主義、拝金主義などなど)の温床であると言えましょう。

 私は親は私に教師になることを勧めていたときもありました。しかし、学生時代から、知識を教えることに虚しさを感じていたので、その道に歩むことはありませんでした。知識を伝えることに喜びを見いだせなかったからです。

 しかし、しばらくして、教育に関して新しい視界が開けてきました。それは価値に関する教育に関する文献に目を通してからです。ここでは、その価値教育については書きませんが、その価値教育について述べた文献に中に、「知識は知力(スキル)にならなくてはならない」という文言があったのです。スキルとは、能力、技術力のような意味です。要するに、知識を獲得することで、何かができるようにならなくてはならないということです。

 例をあげてみましょう。国語を学べば、人に対して優しい言葉遣いができたり、要件を簡潔にわかりやすく伝えたりするスキルが身につかなくてはなりません。数学を学べば、それを応用して、家計を管理したり、会社のさまざまな帳票を運用したり、さまざまな事象の予測を建てられるようにならなくてはならないということです。それは科学的思考に役立てることもできます。社会を学べば、社会の仕組みを知り、その中に飛び込んで、社会の一員となり、社会を愛し、皆と共に協力して働き、喜びを分かち合うための基本的手法を身につけなくてはならないということです。理科を学べば、自然の神秘に目が開かれ、そこから学ぶことで、自然を愛し、価値に目覚め、製品作りに役立たせる技術を一つは身につけなくてはならないということです。

 知識は知力(スキル)、技術として応用され、社会への奉仕に捧げられなくてはならないということです。私たちが、社会に奉仕すれば、社会は私たちを助けてくれます。私たちが社会を食い物にすれば、社会は私たちを食い物にします。人間社会は巨大は一つの機械のようなものであり、その歯車は、一人ひとりの奉仕によって構成されています。奉仕が社会に行き渡れば、社会は健全です。奉仕がなされない社会は容易に崩壊してしまいます。私の師は、賃金に見合った働きをすることが奉仕ですと言いました。賃金に見合った仕事をすることは当たり前のことではないかと私は思っていたので、この言葉はとても不思議に感じられました。しかし、世の中には自分の働き以上にお金を手に入れようともくろんでいる人が意外に多いということも少し知るようになりました。

 知識の基盤は真理です。しかし、真理は単なる知識ではありません。真理とは、それを知ることによって、すべてを私たちに教えてくれるもののことをいうのです。この訓練がなされれば、私たちは、人生に必要な知識を手にすることができるし、その知識の活用の仕方もおのずと理解することができます。この訓練が学校で行われていません。

 人間は幸せを求めるものであり、それは他者に対する仕事、奉仕によって得られます。このことはちょっと考えてみればわかります。自分だけのために食事を整えるのは、味気なく時に虚しいものですが、誰か一人でもそれを食べてくれる人がいると料理の楽しみがぐんと増します。いくら働いても、買ってくれる人がいなければ張り合いがないものですが、自分が作ったものを人が買ってくれてそれを活用してくれれば作った甲斐があるというものです。人間は、最低限の自分の必要を満たすことは必要ですが、人生の多くは他者のために働かなくてはなりません。それは幸せの秘密です。

 知識はすべて何らかの形で奉仕に役立てることのできるスキル、技術にして奉仕に役立ててこそ、初めて生きてくるのです。